第三話:世界中が君を見たけれど、誰も私の鼓動を知らない
1
記者会見の知らせが来たのは月曜日の朝のことだった。
彩花は三時間目の授業中で、スマホがリュックの中で一度震えた。こっそり取り出して見ると、父からのメッセージだった。
「彩、水曜日の午後二時、研究所で記者会見をする。旦棱のことを公表する。来るか?」
彩花は画面を見つめ、指を画面の上で止めた。
記者会見。旦棱の存在を公表する。
それはどういうことか?
世界中が彼を知ることになる。記者、カメラマン、テレビ局、ネット中継――たくさんの人が彼を見る。彼の顔がニュースに、新聞に、ツイッターのトレンドに載る。
彩花は膝の上で指をぎゅっと握りしめた。
自分が何を感じているのか、うまく言えなかった。
嬉しい? 彼は世界に見られるべきだ。四万年前の奇跡だ。みんなに知られる資格がある。
嬉しくない? なぜ嬉しくないのか言えなかった。嬉しくない理由なんて何もない。そんな資格さえない。
彼女はただの傍観者だ。
鼓動が速くなる、ただの傍観者だ。
彩花は「行く」と打って、スマホをリュックに戻し、顔を上げて授業を続けた。
数学の先生が二次関数を黒板に書いていた。放物線が描かれている。
彩花はその放物線を見つめながら、頭の中で別の線を思い浮かべていた。
鼓動の線。
あの日、研究室で始まってから、一度も収まったことがない。
2
水曜日の午後一時半、彩花は研究所に着いた。
今日のB2階はいつもとまったく違っていた。廊下にはたくさんの人がいて――機材を運んだり、照明を調整したり、背景をセッティングしたりしている。誰かが彼女の横を走りながら「ネット中継のケーブルは?」と叫んでいた。
B2の研究室の扉は閉まっていて、入り口には二人の警備員が立っていた。
「父、旦罗正樹の娘です。来るように言われました」
警備員が無線で確認し、中に入れてくれた。
研究室の中は静かだった。旦罗正樹は旦棱の前に立ち、佐藤理沙博士と何か小声で話し合っている。田中助手は緊張した様子で手をこすり、額には汗がにじんでいた。
旦棱はチャンバーの端に腰掛け、白いズボンをはいていた――研究所が急遽用意したものだろう。大きすぎて、腰を紐で縛っている。上半身は相変わらず裸で、胸の傷跡が照明の下でくっきりと浮かび上がっている。
髪は簡単に整えられていたが、あの骨や羽根はそのままだった――佐藤博士が、彼の文化の一部かもしれないから、できれば動かさない方がいいと言っていた。
彩花は入り口に立ち、旦棱を見つめた。
彼はいつもと同じだった。無表情で、琥珀色の目を半分閉じて、まるで眠そうだ。
彼は今日何が起こるのか知らない。
もうすぐ何十人もの見知らぬ人が押し寄せて、フラッシュを顔に向けて浴びせかけることを知らない。
彼の顔が世界中のスクリーンに映ることを知らない。
何も知らない。
彩花は歩み寄り、父の隣に立った。
「準備はできたの?」と彼女は尋ねた。
「まあな」旦罗正樹は大きく息を吸った。声には抑えきれない興奮が混じっていた。「彩、これが何を意味するか分かっているか? 人類学史上――」
「分かってる」彩花は父の言葉を遮った。「お父さん」
「ん?」
「これから……フラッシュを使わないでくれない?」
旦罗正樹は娘を見て、数秒間黙った。
「フラッシュ?」
「うん。彼は永久凍土から出たばかりで、目がまだ完全に慣れていない。フラッシュは刺激が強すぎるかもしれない」
旦罗正樹は娘を見つめ、二秒ほど沈黙した。
「そうだな」彼は振り返り、佐藤博士に言った。「理沙、メディアに伝えてくれ。フラッシュは使わないでほしいと」
佐藤博士はうなずいて出て行った。
彩花はほっと息をついた。
でも彼女は心の中で、自分が心配しているのはフラッシュだけじゃないと気づいていた。
彼女が心配しているのは――
あの記者たちは彼をどう見るのか? あのカメラは彼をどう撮るのか? 彼を「もの」のように見せるのだろうか? 誰かが彼を笑うのか? 誰かが彼のことを怖い顔だと言うのか? 誰かが彼を怪物だと言うのか?
彩花は指をぎゅっと握りしめた。
自分に言い聞かせる:これはあなたの関与することじゃない。彼は研究対象だ。観察され、記録され、報道される。それが彼の運命だ。あなたが感情を持つべきではない。
でもやっぱり胃が痛くなってきた。
3
午後二時、記者会見が始まった。
場所は研究所一階の大会議室。普段は三十人も入ればいっぱいになる会議室に、今日は約六十人が詰めかけていた。カメラマンたちがビデオカメラを構え、レコーダーを掲げ、カメラを抱え、部屋はごった返していた。
旦棱は会議室の隣の控え室に連れて行かれた。彩花は控え室の隅に立ち、父が最終準備をしているのを見ていた。
「一緒に連れて行くの?」彩花が尋ねた。
「ああ」父がうなずいた。「俺が前を歩く。彼にはついて来させる」
「彼、ついて来るかな」
「だからお前が後ろについてろ。もし動かなかったら、押してやれ」
彩花の鼓動が速くなった。
後ろについて、押す。
彼の肌に触れる。
彼女は大きく息を吸って、自分に言い聞かせた。仕事だ。仕事だ。仕事だ。
旦罗正樹は旦棱の前に立ち、「ついて来い」のジェスチャーをした――まず自分を指さし、次に扉を指さし、それから歩き出した。
旦棱は彼を見た。
動かなかった。
旦罗正樹はもう一度ジェスチャーを繰り返した。旦棱はやはり動かなかった。
「彩、押してやれ」
彩花は旦棱の後ろに回り、手を差し出し、一瞬ためらった。
そして彼女の手が彼の背中に触れた。
一センチも満たない空気を隔てて、彼女は彼の肌の温度を感じた――普通の人より少し高くて、温かい。彼女の指先が彼の肩甲骨にそっと触れた。そこにある筋肉は岩のように硬かった。
彩花の頭の中で「ブーン」という音がした。
彼女は押した。
旦棱は立ち上がり、父について歩き出した。
彩花はその後ろにつき、彼の背中を見つめた。白いズボンは大きすぎて、腰の辺りで揺れている。裸の背中にはいくつもの傷跡があり、新しいものと古いものが重なっていた。
彼女はその傷跡を見つめながら、鼓動がはち切れそうに速くなっていた。
冷静に。冷静に。冷静に。
彼は前を歩いている。あなたはついていく。これは仕事だ。仕事だ。
彼らは会議室に入った。
すぐにフラッシュが光った。
彩花の心臓がぎゅっと縮まった。
――フラッシュは使わないって言ったよね?!
何十台ものカメラが同時にシャッターを切った。「カシャカシャ」という音が集中砲火のように降り注ぐ。フラッシュの白い光が会議室を稲光の嵐のように照らし出した。
旦棱の足が止まった。
彼の体が一瞬、硬直した――それは恐怖による硬直ではなく、狩人が危険を感じた時の硬直だった。彼の肩が引き締まり、背中の筋肉が弓の弦のように張り詰め、首の血管が浮き上がった。
そして彼は口を開いた。
彩花が聞いたことのない声を発した。
叫び声ではない。金切り声でもない。低く、胸の奥底から湧き上がるような轟き――地震のように、雪崩のように、氷層が重みで砕けるように。
それはネアンデルタール人の警告の声だった。
四万年前、氷原で、サーベルタイガーが近づいた時、彼らはこの声で「近づくな」と伝えた。
会議室が一瞬で静まり返った。
フラッシュが一瞬止んだ。
そして――
さらに多くのフラッシュが光った。
「撮れた撮れた! も一枚!」
「旦罗教授、原人がこっちを向くようにお願いします!」
「この声は何ですか? 言葉なんですか?」
旦棱の体が震え始めた。恐怖の震えではない。力を溜める震えだ。彼の両手は拳を握りしめ、指の関節が「ボキボキ」と音を立てた。彼の唇はめくれ上がり、太くて頑丈な犬歯が覗き、琥珀色の瞳には白いフラッシュが次々と映り込んでいた。
彩花はこの表情を知っていた。
動物のドキュメンタリーで見たことがある。獣が追い詰められた時の表情だ。
「フラッシュを止めて!」彼女は叫んだが、誰も聞いていなかった。
「フラッシュを止めて!!!」声を張り上げても、やはり誰も聞かなかった。
記者たちは我先にと前に押し寄せ、ビデオカメラが旦棱の顔にぶつかりそうになった。フラッシュはますます激しくなり、白い光が一つに溶け合い、人を飲み込みそうだった。
旦棱の体が急に強張った――
そして彼はしゃがみ込んだ。
彩花は彼が攻撃するのかと思った。
でも違った。
彼はしゃがみ込み、顔の表情は怒りから……困惑? 苦痛? 彼女には判別できなかった。彼の唇が微かに動き、断片的な声を発している。何かを話しているようであり、何かに耐えているようでもあった。
その時、彼女は気づいた。
彼の太ももの内側、あの白いズボンの布地に、濃い色の水染みが急速に広がっている。
水染みは黄色かった。
彩花の頭が〇・五秒間、真っ白になった。
彼はおしっこをしている。
原人がフラッシュの刺激で失禁したのだ。
おしっこが彼の太ももを伝って床に小さな水たまりを作る。会議室にツンと鼻をつくアンモニア臭が広がった。
記者たちの反応は三つに分かれた。前列の数人の女性記者は鼻を押さえて後退った。中央の数人のカメラマンは一瞬ためらったが、またカメラを構えた。後列の男性記者が声を張り上げた。「これも撮れ! 原人のストレス反応だ! ニュースになる!」
またシャッター音が響いた。
彩花はそのフラッシュがしゃがみ込んだ旦棱に向かって浴びせられるのを見た。ズボンのおしっこの染みが白い光の下で容赦なく浮かび上がるのを見た。彼の顔の表情が困惑から、彼女が見たことのないものに変わっていくのを見た。
羞恥。
四万年前の原人が、二十一世紀のフラッシュの光の中で、羞恥を感じている。
その瞬間、彩花の頭の中で何かがプツンと切れた。
彼女は駆け出した。
「撮らないで!!!」
彼女は両腕を広げて、旦棱の前に立ちはだかった。フラッシュが彼女の顔に浴びせられ、目がくらんだ。彼女は自分の声が会議室に響き渡るのを聞いた。甲高すぎて、自分の声とは思えなかった。
「フラッシュを止めて! 彼が怖がってるのが分からないの?!」
「お嬢さん、どいてください――」
「彼は人間です! 動物じゃありません! こんなことをしていいんですか!」
「私たちは記者です。報道する権利があります――」
「彼にはフラッシュでおもらししない権利もあります!!!」
会議室が一瞬、静かになった。
その時、旦棱が彼女の後ろで動いた。
彩花が振り返ると――旦棱はしゃがみ込んだまま、顔の表情が羞恥から、もっと複雑な、彼女には読み取れないものに変わっていた。彼の唇が動き、一つの音節を発し、何度も繰り返した。
「ka-ta」と聞こえた。
彩花はそれが何を意味するのか考える暇がなかった。
なぜなら、旦棱の体がまた強張ったからだ。
今度はおしっこじゃない。
うんちだ。
彩花は湿った、重い音を聞いた。そして強烈な悪臭が会議室に広がった。旦棱がしゃがんでいる場所、白いズボンの後ろが大きく膨らみ、茶色いものがズボンの隙間から漏れ出し、床に滴り落ちた。
記者たちは一斉に三歩後退った。
誰かが吐き気を催すような声をあげた。
誰かが悪態をついた。
誰かが笑った。
彩花は笑い声を聞いた。
誰かが彼を笑っている。
彼女の目が一気に赤くなった。
悲しいからじゃない。怒りだ。
「何を笑ってるの?!」彼女は振り返り、記者たちに向かって叫んだ。「百ものフラッシュを顔に浴びせられたら、あなたたちだって怖がってお漏らしするでしょ?! 彼は氷から出てきてまだ四日なの! ここがどこかさえ分かってないの! あなたたちは何を笑う権利があるの?!」
会議室は水を打ったように静まり返った。
ようやくフラッシュが止んだ。
旦罗正樹は衝撃から我に返り、素早く旦棱のそばに歩み寄り、自分の白衣を脱いで彼に掛けた。
「会見はこれまでだ」彼の声は平静だったが、彩花には震えが含まれているのが分かった。「皆さん、お帰りください」
記者たちは顔を見合わせたが、最終的には機材を片付け始め、外へと出て行った。
彩花はしゃがみ込み、旦棱と目線を合わせた。
彼はうつむいていて、彼女を見なかった。
彼の体はまだ微かに震えている。あの、虫を平気で摘まんでいた手が、今は掛けられた白衣の端を握りしめ、指の節は白くなっている。
彩花は手を差し出し、彼の肩に触れようとした。
しかし触れる直前に、彼女は止まった。
彼女の手は空中に浮いたまま、彼の肩まであと数センチのところで止まっている。
そして彼女は手を引っ込めた。
触れてはいけない。
誰かに見られてはいけない。
誰かに気づかれてはいけない。
彼女は立ち上がり、向きを変え、扉に向かって歩いた。
会議室を出た瞬間、彼女の涙がついにこぼれ落ちた。
彼女はそれを拭い、必死に拭い、しかし涙は堰を切ったように止まらなかった。
彼女は廊下の壁に寄りかかり、口を押さえた。
泣いてはいけない。
ここで泣いてはいけない。
誰かに泣いているところを見られてはいけない。
泣いたら、なぜ泣いているのか説明しなければならない。
説明できない。
「彼がフラッシュでおもらししたのが可哀想で」なんて言えない。
誰も理解しない。
みんなに頭がおかしいと思われるだけだ。
彩花は手の甲を噛みしめ、嗚咽を飲み込んだ。
4
一時間後、B2研究室。
旦棱は連れ戻され、新しいズボンに履き替えていた。彼は隅っこに座り、うつむいたまま、びくとも動かなかった。
彼は骨で遊んでいない。自分の体をチェックしていない。虫を食べてもいない。
ただそこに座っている。
彩花は入り口に立ち、彼の背中を見つめた。
父が後ろから歩み寄り、彼女の隣に立った。
「彩」声はとても軽かった。「今日のことは――」
「フラッシュのこと、注意したよね」彩花の声は平坦で、教科書を音読しているようだった。
「ああ。俺のミスだ。メディアにはフラッシュを使わないよう言ったんだが――」
「でも確認はしなかった」
「……そうだ」
沈黙。
彩花は旦棱の背中を見つめた。彼の座り方はいつもと違っていた。いつもはリラックスして壁にもたれ、足をだらりと伸ばしていた。今は縮こまり、膝を胸に押し付け、腕で脚を抱えている。
自分をできるだけ小さくしようとしている人のように。
見られたくないと思っている人のように。
「お父さん」彩花が口を開いた。「彼を家に住まわせよう」
旦罗正樹は振り返り、娘を見た。
「何て言った?」
「彼を家に住まわせるの。ここは彼に合わない。B2階は研究室であって、住む場所じゃない。彼には――」
「ダメだ」
「どうして?」
「彼は研究対象だからだ――」
「彼は人間でもある」
「彩――」
「今日、彼はフラッシュで怖がってお漏らしして、何十人もの人に撮影され、笑われた。これから先、彼は誰かを信用できると思う? まだ研究に協力したいと思う?」
「それはお前の勝手で決めることじゃない。旦棱の発見は複数の研究機関が関わっている。俺一人でどうにかできる問題じゃない。彼の今後の扱いは――」
「じゃあ、どれくらいかかるの?」
「何が?」
「どれくらいかかって『議論』が終わるの? 一か月? 半年? その間、彼はB2階に閉じ込められて、実験動物扱いなの?」
旦罗正樹は沈黙した。
彩花は父の沈黙を見て、心の中で何かが砕けるのを感じた。
彼女は父の言い分が正しいことをよく分かっていた。道理は全部理解している。旦棱が重要な研究対象であること、彼の扱いが一人で決められる問題ではないこと、彼を家に住まわせるには様々な問題があること。
全部分かっている。
でも彼女は、彼がこの地下にいるのが嫌だった。白い壁だけの、機械が唸るだけの、白っぽい照明の場所に。
彼をおもらしさせた場所に。
誰かが彼を笑った場所に。
「お父さん」彩花の声は低くなった。「彼、今日しゃがんでた時、一言言ったの」
「一言?」
「ka-ta。何度も繰り返してた」
旦罗正樹は言葉を失った。
「ka-ta……」彼は呟くように繰り返した。「つまり、彼は話したのか?」
「分からない。でもその言葉は、ただの音には聞こえなかった。彼は私を呼んでた」
「お前を呼んだ?」
「最初に私を見た時は呼ばなかった。研究室にいる間も、私を呼んだことはなかった。でも今日、私が彼の前に立ちはだかった時、彼は呼んだの」
彩花は振り返り、父を見つめた。
「お父さん、彼は私を呼んだの」
旦罗正樹は娘の目を見つめた。
その目には涙はなかった。怒りもなかった。懇願もなかった。
ただ、彼が今まで見たことのない、重く、静かなものがあった。
彼は突然、娘がただのわがままを言っているのではないと気づいた。
彼女は本当に心を痛めているのだ。
「彩」彼は声を詰まらせながら口を開いた。「約束する。旦棱の扱いについてはできるだけ早く進める。だが、家に住まわせるということは――」
彼は首を振った。
「ダメだ」
彩花は長い沈黙の後、
「分かった」と言った。「そう」
彼女は向きを変え、エレベーターに向かって歩いた。
エレベーターの前まで来て、彼女は立ち止まり、振り返って研究室の扉を見た。
扉は閉まっている。
中は見えない。
でも彼がそこにいることは分かっている。
隅っこに縮こまって、自分をできるだけ小さくしている。
彩花はエレベーターのボタンを押した。
扉が開いた。
彼女は中に入る。
扉が閉まった。
彼女はエレベーターの壁に寄りかかり、目を閉じた。
頭の中にあの光景が浮かぶ――
旦棱がしゃがみ込み、白衣の端を握りしめ、指の節は白い。
彼女を見ない。
彼女を見ない。
彼女を見ない。
彩花の涙がまたこぼれ落ちた。
彼女は手の甲で拭い、また拭い、また拭いた。
エレベーターが一階に着いた。
扉が開いた。
彼女は外に出て、四月の日差しの中へ歩いていった。
日差しは暖かく、風はそよそよと優しい。グラウンドでは男子生徒たちがサッカーをしている。
普通の世界。
普通の十七歳。
普通の恋心。
彩花は両手をポケットに入れ、うつむいて駅へ向かった。
ポケットの中で拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛い。
でもこの痛みが必要だった。
この痛みが、もう一つの痛みを覆い隠してくれるから。
彼女は駅に着き、ホームに立って電車を待った。
風が吹いて、春の匂いを運んでくる。
彼女は顔をマフラーにうずめ、深く息を吸い込んだ。
マフラーには自分の匂いしかついていない。
彼の匂いはない。
これまで一度も。
電車が来た。
彼女は乗り、窓際の席を見つけて座った。
窓の外には後ろに流れる街並み。住宅地、コンビニ、信号機、歩道橋。
彩花は窓に頭を預けた。ガラスは冷たく、額に当たると気持ちがいい。
彼女はスマホを取り出し、あのメモ帳アプリを開いた。
タイトルはあのまま一文字。
「彼」
彼女はその下に打ち込んだ。
「今日、彼はおもらしした。フラッシュに驚かされた。誰かが彼を笑った。私が彼の前に立ちはだかった時、彼は私を呼んだ。ka-ta。彼は私を呼んだ。彼は私の名前を知らないのに、私を呼んだ。」
「彼を家に住まわせられないか聞いた。お父さんはダメだと言った。」
「ダメだって分かってた。でも聞いてしまった。」
「私ってバカみたい。」
「分かってる。」
彼女はこれを打ち終え、画面を長い間見つめた。
それからスマホを閉じ、窓に頭を預けた。
電車が橋を渡る。下には広い川面。夕日が川の水をオレンジ色に染め、きらきらと輝いている。
彩花はそのきらめきを見ながら、旦棱の瞳を思い浮かべた。
琥珀色の。
陽の光が貫く松脂のような。
彼女は目を閉じて、心の中で言った。
今日、世界中があなたを見た。
あなたはおもらしした。うんちを漏らした。笑われた。
あなたはしゃがみ込んで、白衣の端を握りしめ、指の節は白かった。
あなたは恥ずかしかった。
あなたは怖かった。
ここがどこか分からない。なぜあんな白い光が自分に向けられるのか分からない。なぜ誰かが自分を笑うのか分からない。
あなたは分からない。
何も分からない。
でもあなたは私を呼んだ。
ka-ta。
あなたは私の名前を知らないのに、私を呼んだ。
みんながあなたを撮り、笑い、動物扱いしている時、あなたは私を呼んだ。
これは私の秘密。
誰にも言わない。
絶対に言わない。
電車は進み続ける。窓の外の街の灯りがひとつ、またひとつと灯り始める。
彩花は目を開け、窓の外の夜景を見つめた。
鼓動は相変わらず速い。
でも今回は、それを遅くしたいとは思わなかった。
第三話・終




