56 不可解な贈り物
朝起きると、窓から眩しい日の光が射してくる。夏は妙に、早く起きてしまう。人間というのは、朝日と同時に起きるように、できているみたいだ。
「……はあ」
朝だというのに、夏休みだというのに、その日の気分は浮かなかった。上体を起こした私は、ため息をつく。
気怠い頭を軽く揺らしながら、ベッドを出る。紙を整え、服を着替える。鏡の中には、どことなく浮かない顔をした自分がいた。
「おはよう、藤乃」
「お兄様。……おはよう」
「今日はずいぶん、元気がなさそうだね」
食堂で、既に身支度を済ませた兄と、挨拶を交わす。私は、目の前に置かれた温かなコーヒーに口をつけた。
「……樹先輩が、嫌いなわけじゃないのだけれど」
気分が上がらないのは、今日は我が家に、樹が来る約束だからだ。兄と約束してしまったので、私も参加する予定でいる。
「そんなに、気を遣うような相手でもないのに」
苦笑する兄に、私は頷いた。
樹は別に、気を遣うような相手ではない。兄の知り合いでもあり、中等部の頃からの仲だ。彼に憧れる女生徒が厄介だという事情はあるものの、それは、樹自身の問題ではない。
「お兄様の、言う通りだわ」
気を遣う必要はない、のだけれど。それは、普通なら、という但し書き付きだ。
私が気を遣わざるを得ないのは、彼は攻略対象であり、私は「悪役令嬢」であるという理由から。取り急ぎ海斗のストーリーにおける「私」の動きを確認したため、まだ樹のストーリーはプレイできていない。
次に慧の家に行ったときには、樹の話を進めるつもりではいるが、まだ先になりそうなのだ。その前に、慧と凛が我が家に来るイベントがある。
「ちゃんと言ってあるからさ。しつこく生徒会に勧誘するのはだめだって」
「ありがとう」
私の歯切れの悪さを、生徒会に入りたくないがゆえだと受け取ったらしい。兄の配慮に、私は礼を述べる。
それも面倒ごとのひとつであるのは、間違いない。とにかく私は、ストーリーがはっきりするまでは、樹に極力関わりたくなかったのだ。もしかしたら「私」は全編を通して登場する悪役で、樹のストーリーにも絡んでいるかもしれないから。
「僕としては、藤乃にも生徒会をやってほしいけれど、ね。学びがあるから」
「うん。わかってるわ」
私の答えは、心の伴わないものであった。
これ以上、海斗や早苗たちと関わりの増えそうな生徒会になんて、入りたくはない。
だとしても、樹と話したくないなんてことは、今更言っていられない。
だから、今日はせめて、当たり障りのない対応をしようと思う。
「おはようございます、桂一先輩」
「おはよう」
「おはようございます、樹先輩」
太陽が登り切る前、午前中の早めの段階で、樹を乗せた車が到着した。降りてきた樹は、学外活動の日と同じような、ラフな格好をしている。
挨拶すると、樹は私を見て、顔を綻ばせる。
「よかった、藤乃ちゃんもいてくれて」
「頼まれたので」
「うん、頼んだ。話したかったんだよね」
兄と樹が並んで歩き、私はその後をついて歩く。兄は、以前私も勉強会に使った部屋に、彼を案内した。今日は特別な用意はしていない。席についたところで、侍女が紅茶を注ぎに来てくれる。
「樹くんは、コーヒーが苦手だったね」
「はい。ああ、でも最近は、コーヒーも飲むんです」
紅茶のカップから立つ湯気越しに、目を細める樹の顔。穏やかなその表情は、何か愛おしいものを見ているようで。
「へえ、そうなんだ」
「ええ。後輩の女の子が、俺にコーヒーを勧めてくれるんですよ」
後輩の女の子、という言葉が引っかかる。樹の幸せそうな顔といい、その女の子とは、おそらく早苗であろうと察しがつく。
「ふうん……意外だな。樹くんにも、そういう素敵な女性がいるんだね」
彼の言い方から、兄も何かを察したのだろう。
「いや……まあ、ただの生徒会の後輩ですよ」
猫のような目がひゅっと細くなり、そう言って微笑む樹。その誤魔化しかたに、彼のどのような気持ちが隠されているのか。私には、わからない。
「まあ、いいけど」
「そうですね」
兄はさほど、色恋沙汰に興味のあるタイプではない。学園時代も、あれだけ女生徒に追いかけ回されていたにも関わらず、そうした浮ついた話はほとんどなかった。
だから、樹のことも、それ以上追及しない。兄がカップを口に運ぶのに合わせて、私も紅茶を飲んだ。夏らしい、爽やかなフレーバーが鼻に抜けて香る。
「桂一先輩は、大学生活はいかがですか?」
「僕? そうだねえ……」
そこからは、ありふれた世間話が始まる。
身構えていた私を拍子抜けさせるほど、そこからのやりとりは自然であった。樹は学外の大学に興味があるそうで、入試のことや勉強のこと、実際の大学生活について、あれこれと質問をする。兄は相変わらずの落ち着いたトーンで、それに答える。
「僕は、学外に出てよかったと思うよ。世界が広がったから」
「そうですか……実は俺も、学園の枠に収まった生活に、ちょっと疑問を抱いているんです」
兄といい、樹といい、学園内で生徒会長を務めるほどその世界に染まっていたわけだ。そんな彼らがその生活に疑問を抱くことを、私は新鮮に感じながら、会話に耳を傾ける。
「学園だと、あまりにも同質性が高すぎるからね。大学でいろいろな人と出会うことは、僕は、大切だと思うよ」
「母が良い顔をしないんですよね。学外の大学に出たところで、悪い遊びしか覚えない、という言い方で」
「そう……そう思う人も、いるかもしれないね。決めるのは樹くんだよ、君の人生なんだから」
気づけば私も、示唆に富んだ兄の語りに引き込まれていた。兄が特別で、私は皆と同じように、持ち上がりで大学に行くつもりでいた。
だけど、そうではない選択肢も、考えてもいいかもしれない。私が常識を知らないのは、学園の枠に囚われているのに、気づかなかったからだろうか。
慧は、卒業後のことを、どう計画しているのだろう。兄と樹のような深みのある会話を、私は彼としたいと思った。
「……ああ、もうこんな時間だ」
「すみません、遅くまで話し込んで」
時計の針はあっという間に進み、窓の外は橙色に染まる。日没の遅い夏は、外がこれだけ明るくても、もう良い時間だ。
会話を切り上げ、樹は席を立つ。それに合わせて、私と兄も立ち上がった。
「今日はありがとう。……藤乃ちゃんも」
「……いえ」
樹の表情は、なんだかさっぱりしている。彼は私とも話がしたいという言い方だったけれど、私は今日、彼と何も話していない。これでよかったのだろうか。
「……あぁ! そうそう」
何かを思い出したように、突然樹が大きな声を上げる。鞄に手を差し込み、薄い水色の包みを取り出した。
「これ、藤乃ちゃんに。話に付き合ってもらったお礼だよ」
「え? 受け取れません」
差し出された包みを前に、私は一歩引く。脈絡のない贈り物は、なんだか不自然だ。その不自然さに、警戒が働いた。
「藤乃、頂いたら?」
「でも……」
「せっかく用意してくれたのだから。藤乃だって、贈り物は受け取ってもらわないと困るでしょ。別に相手は、樹くんなんだから」
兄に勧められては、言い負かせない。私は渋々、包みを受け取った。見た目に反して、それは軽い。
「学園の不満なんて、普段は言えないから。聞いてもらって嬉しかった」
「それは……」
聞いたのは私ではなく、兄であろう。
私の掌の中で、そのプレゼントが、強烈な違和感を放っている。
兄とともに樹を見送る。
「またねえ!」
手を振って去る樹の表情は、先ほど真剣に自分の将来を語っていた顔とは、大きく異なっていた。もちろん、それが彼の通常営業だ。
「……悩んでいるんだね、樹くんも」
「そうね」
静かになった玄関ホールに、兄の呟きが響く。
「意外だな。彼はああいう悩みを、あまり表には出さないのに」
「そうなの?」
「そうだよ。ああ見えて、意外と心の壁が高いんだよね」
そんな彼が、なぜこんな妙なタイミングで、私たちに心を開いてしまったのか。
何か、開けてはいけない箱を開けてしまった気がする。嫌な予感に、私は、胸がどきどきした。




