51 夏休みの始まり
「皆さん、また9月に」
「ええ。お元気で」
とりたててイベントのない日々は、飛ぶように過ぎた。あっという間に、夏休み前、最後の登校日になる。
教室を去っていく生徒たちは、皆、浮ついた表情をしている。これから、長い夏休みが始まるのだ。それぞれに、楽しい予定があるのだろう。
それは、私も同じこと。
「先生っ、夏休みも、学園に来てもいいですか?」
「はあ? いいけど……お前、寂しい奴だな」
「えへへ……」
帰る途中で通った保健室の前では、攻略対象のひとりである保健医に、早苗がそう迫っていた。それもきっと、イベントの一部なのだろう。彼女は彼女なりに、夏休みに向けて、活動しているのだ。
私は視線を逸らし、足早に通り過ぎた。海斗以外のイベントは、私には関係がない。
「慧先輩」
「あれ、藤乃さん。こんな時間に来るなんて、珍しいね」
「今日は、午前授業だったので。お昼は家で食べるんです」
図書室に入ると、手前にある本棚の整理をしていた慧が、驚いたように目を丸くする。
夏休み前最終日は、午前中で授業が終わった。帰る前に、顔を出そうと思ったのだ。
「そっか。いいね」
微笑む慧の、頬のくぼみ。そのえくぼを見ると、私は心が温かくなる。
「慧先輩は……」
「俺は、いつもと一緒。ここで弁当を食べて、ちょっと勉強してから帰るよ」
「ああ、そういえば、そう言っていましたね」
前に慧の家でゲームをしたときに、昼はいつも、弁当は準備室で食べると話していたのだった。
「そうだよ。来てみる?」
「いいんですか?」
「うん。別に、隠すものでもないからね」
慧に誘われ、私はカウンターの奥に隠れた、準備室への扉を通る。
「こんにちは、先生」
「おかえり、慧くん。……と、あら?」
準備室には、中央に長テーブルが置かれている。卓上に書類を広げ、パソコンに何か打ち込んでいる、丸眼鏡の女性。低い位置で乱雑にまとめた髪が、ゆるい印象を醸し出している。
低めのハスキーボイスで慧の名を呼び、顔を上げる。私を見て、きょとん、と不思議そうな顔をする。
「こんにちは、ええと……」
「藤乃さんですよ。先生にも、何度かお話したと思いますが」
「そうだっけ? ……こんにちは」
ゆるり、と目を細め、歯が見える笑い方をする。その気怠げな雰囲気は、「先生」という呼び方が、しっくり来ない。
ゆったりした動作で差し出された手を、慧に「握手だよ」と言われて取る。骨張った、ひんやりとした手。慧の手とはまた違う、柔らかで、華奢な感触だ。
「先生にも、一度ご紹介したかったんです。放課後、よく本を借りに来てくれるので」
「そう……それは嬉しいな。ここの図書室、本はいっぱいあるのに、誰も来ないから」
眼鏡の向こうで微笑む目の細め方は、なんとなく、慧に似ている。
「私の助手が、ふたりになるってわけね」
「藤乃さんをこき使うのは、駄目ですよ」
「なら、慧くんに倍働いてもらおうか」
「どうしてですか! 横暴ですよ」
慧が突っ込み、からからと乾いた笑いを司書が上げる。息の合った、軽妙な会話だ。慧は、さっぱりした笑顔を浮かべている。心底、楽しそうに。
「面白い人でしょ?」
私を見るときの気遣いのある笑顔とは、ちょっと違う、気がする。
「……そうですね」
面白いかどうか、私にはまだわからない。ただ、私にそう聞くということは、慧自身は、この先生を面白いと思っているのだ。一緒にいて、楽しい、と。
私と一緒にいても、面白くはないだろうな。私の置かれた状況は、特殊で面白いかもしれないけれど。
そんな思いが一気に頭を巡って、相槌が一瞬、遅れた。慧は僅かに眉を上げ、少し間を置く。
「じゃ、俺たちは、向こうに戻りますね」
「慧くん、お昼は?」
「後で食べます」
「そ」
短い相鎚と、軽く片手を挙げる仕草で司書は応える。慧は私を見て、それから、閲覧室に戻る扉を開けた。
「藤乃さんを、紹介できてよかったよ。俺、あの人には何かと良くしてもらってるからさ」
「良くしてもらってる、んですか」
「そう。準備室に入れてもらったり、放課後の開館を任せてもらったり、さ。おかげで俺は、居場所があるから」
扉が閉まり、いつものカウンターに、並んで座る。慧の、洗剤っぽい、甘くて爽やかな香り。私の心は、すっと凪ぐ。
何に、動揺していたんだろう。
心が落ち着いたことで、今まで何か落ち着かない気持ちでいたことに、漸く気づいた。
「だから藤乃さんも、いつでもおいでね。まあ、お昼は山口さんと食べてるって言うから、来ないかもしれないけれど……」
「そう、ですね……」
山口との昼ごはんは、幼い頃からの恒例になっている。山口は何も気にしないだろうが、それを止めるのは、私の方が気がひける。
「運転手が山口じゃないときに、来るかもしれません」
「そんなこと、あるの?」
「はい。休日に出かけたときなんかは、そういう日もあるので」
山口でない運転手とのお昼ご飯は、間がもたないのが気になって、落ち着かない。山口なら、沈黙でも気にならないし、お互いに適当な話題を振れるのに。
図書室で食事をとった方が、お互いのためになるかもしれないと思い、私は首を縦に振った。
「まあ、夏休み明けの話だね」
「そうですね」
慧の眼鏡には、外の真っ青な空が映り込んでいる。青い空に、もくもくと湧いた白い入道雲。見るだけで暑くなる、厳しい日差し。これから、長い夏休みが始まるのだ。
「嬉しいなあ。またすぐ、藤乃さんに会えるんだから」
「私も、楽しみです」
「凛も、楽しみにしてるよ。藤乃さんが来る日は、わざわざ予定を空けてさ」
慧が、楽しげに喉を鳴らす。彼は本当に、妹が可愛いのだ。
「また、お土産を選ばなくっちゃ」
「いいんだよ。お気遣いなく」
「でも、喜んでもらえるのは、嬉しいので」
手放しに喜ぶ凛の姿を思い出すと、私も頬が綻ぶ。
「じゃあ、またね」
「はい。良い夏休みを」
「藤乃さんのおかげで、良い夏休みになると思うよ」
図書室の前で手を振り合い、私たちは挨拶を交わす。帰るとき、私は肩が軽く、解放感に満ち溢れていた。
楽しい夏休みの、幕開けだ。
海斗や早苗と離れるから、妙な緊張感をもって過ごす毎日とも、暫くおさらばである。夏休みには、大きなイベントはない。彼らには存分に、親交を深めてもらおう。
別に、早苗と海斗の関係を、邪魔する気はないのだ。ただ、「悪役」を糾弾し、退学に追い込むことで成立するハッピーエンドを、避けられれば良いだけ。
「暑いわね……」
外に出ると、ぎらり、と強烈な日差し。むっとする熱気に、途端に肌から汗が吹き出る。汗を極力かかないよう、ゆっくりと歩き、車へ向かう。
「おかえりなさいませ」
車の扉を開ける山口は、この暑い中でも、しっかりとスーツを着こなしている。その表情は涼しげで、額には汗ひとつかいていない。
「3ヶ月、お疲れ様でした」
「山口も、毎日、ありがとう」
ハンドルを握る山口が、バックミラー越しに目を細める。毎日顔を合わせていた山口とも、こうして共に行動する機会は、格段に減る。
ほんの少しの寂しさの中で、私の夏休みは、始まろうとしていた。




