49 災難の種は向こうからやってくる
「ただいま戻りました」
「……おかえりなさい、藤乃ちゃん」
私の帰宅を知らされたであろう母が、奥から出てきて、私に微笑みかける。
兄はいない。慧と出かけるときは、帰るといつも兄がいて、そのままあれこれと質問されるのに。なんだか変だ。
「どうだった? 初めての学外活動は」
「楽しかったわ。私は企画をしていたから、……」
実際、スポーツ大会も花火も、楽しんでいる皆を見るのも、楽しいものだった。特に自分の準備のおかげで人が喜んでいるのを見るのは、達成感があった。
母を相手にあれこれと話をしながら、食堂に向かう。これから、遅めの夕飯だ。
「ああ、お帰り、藤乃」
食堂には既に、兄がいた。気怠げに頬杖をつき、柔らかく微笑む。
「どうだった?」
「楽しかったわ」
「そう、よかったね」
それで会話はおしまい。慧と過ごした休日との扱いの違いは、あまりにも顕著だ。
「……たくさんの人が来たのよ」
兄があまりにも興味がなさそうだから、私はこちらから喋ることにした。慧と出かけたあとは根掘り葉掘り聞かれすぎて、こんな風に何も聞かれないと、かえって落ち着かない。
兄は穏やかに相槌を打ちながら、私の話に耳を傾けてくれた。
「本当に楽しかったんだね。何よりだよ」
穏やかにそう言われて、私は頷くことしかできなかった。
教室に入ると、「おはようございます」と明るい声が飛んでくる。好意的な挨拶。
「おはようございます」
戸惑いながら返事をすると、目が合った彼女は、にこりと笑みを返してきた。
「昨日はありがとう、藤乃さん」
「え、私?」
あまり話したこともないその人に、礼を言われる理由がわからなくて聞き返す。
「学外活動の準備の話。ありがとう」
そういえば、昨日の学外活動を終えて、私の企画としての役割も終わったのだ。
まさかこんな風に、改めて感謝されるなんて思いもしなかった。そもそもの動機は、早苗を邪魔することだったのに。
「そんな……こちらこそ。協力してくれて、助かったわ」
不純な動機から始まったことで、こんな風に言われるなんて。なんだか悪いことをした気分になって、動揺してしまった。
「おかげで、楽しい時間が過ごせたわ」
私の動揺は、相手に伝わるほどではなかったらしい。やりとりを爽やかに切り上げ、彼女は自席に戻る。
なんだか、新鮮な気持ちだ。
私はあまり人前に立つこともしてこなかったから、こうして誰かに面と向かって感謝される機会も、ほとんどなかった。
「……こちらこそ」
遅れた返事は、もう彼女には届かなかったろう。誤魔化すように外を見れば、よく晴れた空に、雲がのどかに浮かんでいる。
会長たちと力を合わせて企画を作るのは楽しかったし、感謝されるのは純粋に嬉しい。
早苗を陥れようとして始めたことが、こういう結果を迎えたわけで。もしかしたら彼女に、多少感謝すべきかもしれないと感じ始めた。
「おはようございます、樹先輩」
「おはよう、早苗」
「毎朝毎朝、暇ですね」
「海斗くんこそ」
色めく雰囲気に視線を向けると、樹と海斗が、朝っぱらからばちばちと火花を飛ばしている。
「やめてよぉ、喧嘩しないで」
その真ん中で、早苗は曖昧な笑みを浮かべながら、両者に甘い声をかけている。
前言撤回。今回の件でたしかに私はいい思いをしたけれど、感謝するほどではない。私は視線を逸らした。変に見つめていたら、また海斗に「睨んでいただろ」などと難癖をつけられてしまう。
関わらないことが吉、であることに、変わりはない。
「おはよう」
「……」
「藤乃ちゃん」
「え? あ、はい」
頭上から降ってくる甘い声が、自分に向けられたものだとは、思いもせず。海斗と揉めていたはずの樹が、いつの間にか私の机の傍に来ていた。
「……昨日は、ありがとうございました」
当たり障りのない言葉をかける。周囲の女生徒の視線が気になる。樹とは、親しげに話したくない。
そう考えると、人気な男性陣をあれだけ周囲に侍らせて平気でいる早苗は、よほど肝が据わっているのだ。
「こちらこそ。おかげで、楽しい時間を過ごせたし、花火は綺麗だったし」
ふわっとした癖のある前髪を、片手で柔らかく掻き上げる樹。はあ、という甘い吐息は、周りで見ている女生徒が、見惚れてもらしたものだ。
「……藤乃ちゃんとも、久しぶりにちゃんと話せたからね」
「……そうですね」
どうして彼は、こんなにも話しかけてくるのだろう。私に用があるとは、思えないのに。
「あっ」
そう考えて、私は思い出す。私は、樹にタオルを借りていたのだ。
「これ、返すの忘れてましたね。ありがとうございました。おかげで、助かりました」
「うん? ああ……どういたしまして」
洗濯を済ませたタオルを差し出す。樹はそれを困惑混じりに受け取ってから、頬を緩めた。
「わざわざありがとう」
「お借りしたものなので」
こんな人目につくところで、彼と話し込みたくない。私は敢えてそっけない言い方をして、視線をずらした。
ずらした先にはちょうど、早苗がいて。彼女の視線が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。その視線の思わぬ鋭さに、どきっと心臓が萎縮する。
「えっと……」
私の予想では、彼女は全ての攻略対象とのイベントを、同時に進めて好感度を高めようとしている。小説でいうところの、いわゆる逆ハーレムを目指しているのだろう。
こんな風に樹と親しげなところを見せたら、ますます、早苗の敵対心を煽ってしまう。
どうにかして樹をあちらへやりたいと思っていたところへ、予鈴が鳴った。
「じゃあね、藤乃ちゃん」
「はい」
災難の種になりそうな樹が、爽やかな笑顔を残して去った。樹は早苗にもひと声かけて、教室を出て行った。
今日の彼は、ただタオルを返してもらうために、私に話しかけてきたのだ。あとは、社交辞令的な、昨日のお礼。
とりあえずこれからは話すこともなかろうと思い、私は肩の力を抜く。
「ねえ」
教室では、授業に向けた準備が始まり、落ち着いた雰囲気に変わっていく。そんな中で話しかけてきたのは、早苗である。
私の緩んだ肩が、ひゅっと強張る。今日は向こうから、困ったことがやってくる。
「藤乃さんって、樹先輩と仲が良いのね!」
声色は、明るい。しかし、その目が笑っていなくて、私は戦慄する。
「……仲が良い、というほどでは」
「でも、ずいぶん親しげだったじゃない」
「こいつと俺は、あの会長とは、中等部からの付き合いなんだよ」
私と早苗の間に、海斗が体をねじ込んでくる。相変わらずの、紳士的な振る舞いだ。
「……へえ。そうなんだ。知らなかった」
「なんだよ早苗、会長のことなんか、気にするなって」
「うん……そっか、そういう設定なのね」
設定、なんて言葉をさらりと使う早苗。
彼女には本当に、ここはゲームの世界にしか見えていないのだな、と思う。
海斗は、「設定」なんて彼女の不自然な発言は気にも留めていない。私も、ゲームのことを知らなければ、「またよくわからないことを言っているな」と流してしまったであろう。
「教えてくれてありがとう、海斗」
「……っ! ああ」
ちょっと礼を言われただけで、海斗は頬を染め、照れたような顔をする。好感度は、かなり高そうだ。
こんな状態の海斗は、早苗の言うことがどれだけ自分本位でも、頭から信じるに違いない。
彼女の周囲の人間関係は、ヒロインの早苗を中心に回っている。そのことを肝に銘じ、できるだけ関わらないようにしないといけない。
「行こう、海斗」
「そうだな」
早苗と海斗は、連れ立って自席へ向かう。
とにかく、とにかく、「悪役」にならないように。それだけを心がけ、授業の合間の短い休み時間は、できるだけ教室にいないようにした。何をするわけでもなく廊下をうろつき、時間になると座る。それは、海斗や早苗と同じ空間にいないという、私なりの努力であった。
「慧先輩」
「藤乃さん、こんにちは」
「私……今日はとっても、疲れてしまいました」
そんな風にして、一日中、気を張っていた私。だから、放課後、図書室に着くと緊張が解け、驚くほどの疲労感が襲ってきたのだった。




