26 私には常識がない
電車を降りた時、駅のホームは、同様にどこかから帰ってきた様子の人々で賑わっていた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。藤乃さんと、桂一先輩と、山口さんと、こんな風に楽しい時間を過ごせて、俺は幸せでした」
慧と、私たち三人が向き合い、互いに挨拶をする。
「慧くん、僕の連絡先を教えておくよ。君のも教えて」
「ああ、構いませんよ」
兄と慧が、携帯を取り出し、連絡先を交換する。
「藤乃さんの連絡先を、聞いても……良いですか?」
私に問いかけた慧の視線が、そのまま兄に向く。兄が頷くと、慧は「じゃあ」と携帯をこちらに向けた。
「どうして兄に許可を取るんですか? 私の連絡先なのに」
「ごめんね、つい」
何が、ついなのか。
慧と兄の間にできた、私には理解できない絆に少し苛立ちながら、私は慧と連絡先を交換する。電話番号と、メールアドレス。
私の携帯には、家族以外の連絡先なんて、ろくに入っていない。何も見た目は変わっていないけれど、慧の連絡先が入った携帯は、暖かく光って見えた。
「さよなら、慧くん」
「さよなら、慧先輩」
「はい。また来週、藤乃さん」
慧が、片手を挙げ、私たちを見送ってくれる。
「楽しかったね、藤乃」
「うん。お兄様と慧先輩も、打ち解けられて、よかったわ。山口も、ありがとう」
「いえ、私は、仕事ですから。お若い皆さんと一緒に水族館を回るなんて、私も若者に戻ったようで、貴重な時間でした」
三人で並んで歩く夜道。もう暗い街中を、顔を赤くした酔っぱらいたちが歩いている。
「どうぞ」
駅からすぐの駐車場に入り、山口が開けてくれた扉をくぐって、車へ乗り込んだ。後部座席に、兄とふたりで。
行きは妙な緊張感のあった後部座席は、帰りは心地よい気怠さで満たされていた。
たくさん歩いて、疲れていた。こうしてゆったり座ると、自分の疲労感がよくわかる。
「藤乃の言う通り、いい人だったね、慧くんは」
「そうよ。だからお兄様が心配するようなこと、何もなかったの」
この1日を通して、私が慧に信頼を寄せる理由を、兄にもわかってもらえたらしい。それは何よりだ。肩や首を軽く回すと、疲れた頭もほどけていく。
「それは何とも言えないけど……まあ、彼なら藤乃を任せても大丈夫だろうな、と思ったよ」
「任せるって、大袈裟よ」
「そう? 藤乃って、慧くんのことは、どう思ってるの?」
脚をゆるりと組み、リラックスした様子で兄は問う。その手には、山口が用意してくれた熱いコーヒー。車内に、コーヒーの香ばしい香りが広がる。兄はコーヒーもよく似合う。
「好きよ。……その、人として」
人としての好きと、恋愛感情の好き。そのふたつは明確に区別されるものだ。
「人として?」
「うん。私、恋愛感情の好きって、よくわからないから」
「ああ……なるほどね。納得したよ」
兄が、妙に納得した声を上げる。
「まあ、またそのうち、僕も彼に会わせてほしいな」
「……いいけど」
「僕が『頑張れ』って言ってたって、彼に伝えておいてよ」
何を頑張れという意味なのか。
「お兄様と慧先輩の会話は、よくわからないの」
「そうなの?」
「ええ。きっと私に、常識がないからだわ」
兄が、横目で私を見る。先を促された気がしたので、私は膝の丸みを指先で感じつつ、言葉を続ける。
「切符も買えないし、普通の電車に乗ったのも初めてだし……お兄様は、そういうの、慣れているでしょう?」
「まあ、そうだね」
兄は昔から、よく出かけていたから。何もなければずっと部屋にいる、私とは違う。
「慧先輩も、当然、そうした常識はあるもの。だけど、私にはなくて……だから私は、ふたりの会話がわからないんじゃないかな、って」
「あー……うーん、そういう常識なのかな……。まあ、いいんじゃない、藤乃なりに頑張ってみなよ」
「ええ」
海斗との婚約が破棄されてから、今ひとつ自分の目指すところが定まっていなかった私は、漸く具体的な目標を見つけた。
慧の言う自分の幸せ、というのも素敵だけど、いかんせんふわっとしている。だって、自分の幸せが何か、全然わからないから。
「慧先輩とお兄様に、教えてもらうわ」
「僕はいいよ、大学の用がない日なら」
「ええ」
その点、一般常識に詳しくなって、兄と慧の会話を理解する、というのはわかりやすい。電車に乗るとか、切符を買うとか。他にも世の中には、きっといろいろなことがあって。それを少しずつ、知ればいいわけだから。
本も、そういう本を借りなくっちゃ。
頭の中に、図書室の本棚を思い浮かべる。確か、貴族女性に転生したOLが、「庶民の知識」を使って活躍しそうなタイトルがあったはずだ。借りて読んで、少し知識を仕入れよう。
「ただいま」
「お帰りなさい、桂一くん、藤乃ちゃん! もう暗いのに帰ってこないから、心配したわ」
帰宅すると、玄関ホールに入った瞬間、母に出迎えられた。待ち構えていたのだ。たしかに、車に乗っている間に、外はもうすっかり日が落ちていた。
「水族館が、思いの外楽しくてさ。予定より、長くいてしまったんだ」
「楽しかったのね。どうだった、藤乃ちゃんのお友達は?」
兄がちらりと、私を見る。その口角が、ひゅっと片側だけ上がった。
「いい子だったよ」
それだけ、答える。
慧が男の人だということは、言わないんだ。
兄が明かさないので、私もつい、言わずにおいてしまった。きっと、慧が男性だとわかっても、大丈夫だと思うのだけれど。もし万が一、男の人とふたりきりになるなら図書室に行くな……などと言われたら。私の唯一の癒やしの場所が、なくなってしまう。
それは困る。私はこれから、慧と一緒に、一般常識を学ばなくてはならないのだから。
「……え? 一般常識?」
翌週。図書室を訪れた私は、慧に貸し出し用の本を差し出しながら、早速その話を持ちかけていた。
「それで、その本なの?」
「はい」
私がカウンターに乗せたのは、目星をつけていた、庶民のアイディアで大活躍、という趣旨の本。
「俺が教えられることなら、何でも教えるけど……」
「途中まで読んだんですけど、ファストフード? とか食べたこともないし、カフェ、というのも、あまり行ったことがなくて」
お話に出てくる言葉は、「現代日本では庶民の常識」とのことだったが、私にとっては慣れないものばかりだった。
「俺でよければ、一緒に行ったっていいけど……」
「いいんですか?」
「いいけど……ファストフードとか、カフェでいつも勉強してるし。だけどいいの、本当に? たぶん、藤乃さんが普段食べているものと、全然違うよ」
慧の整った爪が、頬を軽くかく。
「構いません」
私が頷くと、慧は「なら、行こうか」と笑った。
「また、週末にでも」
「週末ですか?」
「帰るの遅いと、心配されるでしょ? それに、藤乃さんの私服、また見たいから」
私は手帳を開き、慧と覗き込みながら、スケジュールを確認した。家族との予定以外、私の予定は、まっさらだ。そこへひとつひとつ、慧との予定を入れていく。この日はファストフード、この日はカフェ、この日は映画館……と。
「藤乃さん、こんなに俺とばかり一緒にいて、嫌にならないの?」
「え? なりませんよ」
私の答えに、慧は「そうかあ」と、苦笑を見せた。




