第26話:焦り~Side黒~
テストが返却された数日後。
「蓮、お父さんが呼んでるわよ」
リビングから母の声がする。
父さんが?
時計を見る。午前9時。父さんはいつもならもう会社にいる時間だ。
リビングに入ると、父がダイニングテーブルに座っていた。短髪の黒髪、こめかみに白髪が少し混じっている。スーツ姿だけど、ネクタイは緩んでいる。いつもなら朝7時には会社に出ているはずなのに、今日は珍しく家にいる。
父は大手IT企業の管理職で、プロジェクトマネジメント部門の部長をしている。データ分析やKPI管理が専門だ。平日は朝から夜遅くまで働いていて、家にいるのは週末だけ。
テーブルの上に、コーヒーカップと……成績順位表。
やばい。
父は順位表を見つめたまま、俺に気づいていないようだった。眉間にしわを寄せて、何かを考えている。いつもならピシッとしてるネクタイが緩んでいて、疲れた様子だ。
母は台所でコーヒーを淹れている。気まずそうに、こちらを見ないようにしている。カップを持つ手が、少し震えているように見えた。
「父さん」
父が顔を上げた。いつもの無表情じゃない。少し疲れた顔だ。
「座りなさい」
俺はテーブルの向かいに座る。
父が順位表を俺の前に滑らせる。
総合5位。
数学85点、英語88点。
「……成績のこと、母さんから聞いた」
父がコーヒーカップを手に取る。一口飲んでから、また俺を見た。
「5位に転落。これまでずっと1位だったのに……何かあったか?」
声は静かだけど、がっかりしている。怒ってるんじゃない。期待していた分、落胆している。
何かあったか。
白石と、創作に時間を使った。
でも、それは言えない。
「すみません」
父が成績表を指さす。指が少し震えているような気がした。
「数学85点、英語88点……お前、普段なら満点近く取れるだろう」
父が俺の目を見る。いつものデータを分析するような鋭い目じゃない。心配している目だ。
「勉強時間は確保してるのか?」
してない。
「はい」
嘘をつく。
父がじっと俺を見る。
沈黙。
父がコーヒーカップを置いて、両手を組んだ。
「蓮。このままだと進路に影響する」
「国立大を狙うなら、1位を維持しないと厳しい。お前ならできるはずだ」
お前ならできるはずだ。
その言葉が、重い。
「はい」
父が少し考えてから、ため息をついた。小さく、でもはっきりと聞こえる。
「夏休み中、毎日図書館で勉強しなさい」
「午前も午後も、5時までは勉強だ」
「弱点を分析して、集中的に潰せ。お前ならわかるだろう」
「門限は10時だ」
父の声に、諦めのような響きがあった。厳しく言ってるんじゃない。頼んでる。
午前も午後も、5時まで勉強。
図書館に缶詰。
創作の時間が、ほとんどない。
父が少し間を置いて、俺を見る。コーヒーカップを両手で包むように持って。
「それと、蓮」
「はい」
「最近……何か、時間を使っていることがあるのか?」
心臓が止まりそうになる。
父の目が、俺を見る。いつものデータを分析するような目じゃない。本当に、知りたがっている目だ。
「時間配分が変わった。お前の生活パターンが、明らかに変わってる」
「母さんからも聞いた。夜遅くまで起きてるって」
父さんは、気づいてる。
俺が、何かに時間を使ってることを。
「い、いえ……別に……」
言葉が詰まる。
父がじっと見る。でも、責めてるんじゃない。心配してる。
沈黙。
コーヒーカップを置く音がする。
「……そうか」
父がため息をつく。疲れたような、諦めたような。
「言いたくないなら、無理には聞かない」
母が台所から、こちらを見ている。心配そうな顔だ。俺と父の会話を、じっと聞いている。母さんも、何かに気づいているんだろう。
父が続ける。
「とにかく、効率的に勉強しなさい。時間は有限だ」
「お前なら、優先順位をつけられるだろう。俺がそう教えたはずだ」
その言葉に、父さんの期待と、少しの諦めが混ざっている。
「はい」
危なかった。
でも、冷や汗だけじゃない。
罪悪感も、ある。
父さんは、俺の変化を見抜いている。
でも、責めない。
信じてくれている。
その分、嘘をついてる自分が、重い。
自室に戻る。ベッドに座る。
ノートPCを開く。
Pixivの販売記録。
「6月のコミティア:4冊」
たった4冊。
隣のサークルは「完売御礼」の札を出していた。周りも、ほとんど完売してた。
何が違うんだろう。
本のクオリティか。
それとも、宣伝不足か。
画面を見つめる。
もっと、勉強しないと。
同人誌の、だ。
画面を閉じる。
机の上に、さっきの成績順位表が置いてある。
総合5位。
初めてだ、こんな順位を取ったのは。
小学生の頃のことを思い出す。父さんがリビングのテーブルで、ノートに図を描きながら教えてくれた。
「蓮、目標から逆算して計画を立てろ。ゴールが見えれば、道筋は自然と見えてくる」
「弱点を分析して、集中的に潰せ。効率を上げれば、少ない時間で大きな成果が出せる」
父さんは厳しかったけど、俺のために時間を割いてくれた。会社から帰ってきて疲れているはずなのに、俺の勉強を見てくれた。
「効率的に勉強すれば、成果は出る。お前ならできる」
その言葉を信じて、俺はやってきた。
最小限の時間で、最大の成果を出す。
それで、ずっと1位を維持してきた。
父さんが喜んでくれた。無表情だったけど、目が少しだけ優しくなった。
でも、今回は違う。
創作に時間を使った。
白石と一緒に作品を作った。
それが楽しかった。
父さんの教えを裏切って、別のことに夢中になった。
でも、結果が出た。
順位表を見る。
総合5位。
数学85点、英語88点。
いつもなら満点近く取れる。これまで一度も85点を下回ったことはなかった。
白石は10位に転落したって言ってた。
俺は5位で踏みとどまった。
父さんから教わった効率化を使った結果だ。それでも、これだけ落ちた。
でも、これ以上は無理かもしれない。
さっきの父さんの顔が浮かぶ。疲れた顔。がっかりした目。
「お前ならできるはずだ」
その言葉の重さ。期待の重さ。
父さんの言葉が頭をよぎる。
「時間は有限だ。優先順位をつけろ。お前ならわかるだろう」
優先順位。
勉強か。
創作か。
父さんの期待に応えるか。
自分のやりたいことを続けるか。
選ばなければならないのか。
いや。
諦めたくない。
両方、やりたい。
父さんを失望させたくない。でも、創作も諦めたくない。
でも、どうやって。
夕方、白石の家に行く。「勉強会」という建前だ。
白石の母親が出迎える。
「黒澤くん、いらっしゃい」
「失礼します」
白石の部屋。二人とも深刻な顔。
「やばいな」
「そうね」
白石がノートを開く。
「……あのさ、蓮」
「ん?」
「創作、大事だけど」
白石が真剣な顔で続ける。
「でも、まず勉強をなんとかしないと」
「親の信頼を取り戻さないと、創作どころじゃなくなるわ」
俺も頷く。
「そうだな」
「俺も、同じこと考えてた」
白石が安心したように息をつく。
「良かった」
「いや」
「父さんの顔、見て思った」
「期待してくれてる」
「裏切れない」
白石が頷く。
「あたしも」
「母さん、あたしのこと信じてくれてる」
「だから、ちゃんとしないと」
二人で顔を見合わせる。
「じゃあ、どうする?」
白石がノートを開く。
「勉強、どうやって効率化する?」
俺が考える。
「俺のやり方、教えるよ」
白石が顔を上げる。
「蓮の?」
「ああ」
「明日から、一緒に勉強しよう」
「一緒に?」
「ああ。俺の勉強法、見せる」
「それで効率上げて、創作の時間も確保する」
白石が目を輝かせる。
「本当?」
「ああ」
「父さんから教わった方法がある」
「目標から逆算して、弱点を分析して、効率的にやる」
「それを、白石にも教える」
白石が嬉しそうに笑う。
「ありがとう、蓮」
「じゃあ、明日から」
「図書館で、勉強会」
「ああ」
「午後1時に」
「わかった」
白石が真剣な顔になる。
「勉強、ちゃんとやって」
「親の信頼、取り戻して」
「そうすれば、創作も続けられる」
俺も頷く。
「ああ」
「まず、勉強をルーチンに乗せる」
「それから、創作」
白石が笑う。
「そうね」
「焦らず、順番に」
夜9時半、白石の家を出る。
白石が玄関まで見送る。
「また明日」
「ああ」
「勉強会、頑張りましょう」
「ああ」
白石が笑う。
その笑顔を見て。
白石、前向きだな。
俺も、やるしかない。
帰り道。
まず、勉強をルーチンに乗せる。
そうすれば、創作の時間も確保できる。
父さんの教えを、今度は白石に伝える。
それで、二人で効率化する。
そうすれば、両立できる。
スマホを見る。白石からメッセージ。
『明日から、よろしくね』
『……ああ』
『勉強、頑張るわ』
『……俺も』
白石と一緒なら。
両立できる。
決意を新たにする。




