隣人
次の日の、夜のことだった。
(今日は、やっぱりルーナ。大学に来てなかったな…。連絡もまだ来ないし…。大丈夫かな…)
ズルワーンは、大学での研究が予定以上に遅くなり、いつもより数時間遅い帰宅となっていた。
地下鉄のホームを歩いている時だった。
前方に、フラフラと歩く、ワインのボトルを片手に、ハイヒールを履いた女性が歩いている。
何となくズルワーンは、その女性を見ていると、ホームから、線路側へと落ちて行く。
ズルワーンは目が点になり、周りを見ても人影は少なく、みんながただ唖然と見ているだけだった。
その時、電車が来るアナウンスが放送される。
アナウンスがなった瞬間、ズルワーンはカバンを捨てて、線路側へと飛び降り、その女性をホーム下の隙間へと運ぶ。
線路には割れたワインの瓶と、ハイヒールが片方、残されていた。
そして電車がホームへ、入って来る。
ズルワーンは、その女性を抱きかかえたまま、震えて電車が過ぎ去るのを待った。
酒臭い、その女性を、暗いホームの下で見ると、手や足にアザがある。
それは、今、落ちたから出来たものにしては大きすぎるし、数が多い様な気がした。
「だ、大丈夫ですか?」
ズルワーンは、項垂れている女性に声をかける。
急に、顔を上げた女性の顔を見て、ズルワーンは衝撃を受けた。
何故なら、彼女は化粧はぐちゃぐちゃで、口紅は、唇から首まで伸び、目の上は腫れ、アイシャドウもマスカラも伸び、つけまつ毛も半分外れている。
ただ、その片方の、青い瞳に、ズルワーンの心は、少し揺らぐ。
そして
「ねぇ、キスしましょうよぉ~」
と女性は迫って来る。
「え?!ちょ!やめてください!」
ホームの下で、押し問答が続く。
「あんた…どっかで…」
そして電車は、また次のホームへと向かう為、発車する。
電車が通り過ぎた後には、潰れた白いハイヒールが残されており、それは赤いワインを吸い込んでいた。
それを見て、その女性はズルワーンを強く抱いて、突然泣きだす。
「怖かったよぉ!」
この時、ズルワーンは気付いた。
自分の白いシャツに、ベッタリと、その女の化粧がついている事に。
(うわ…落ちるかな、これ…)
その時だったホームから声が聞こえる。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか?」
というような声だ。
2人は駅員や、周りの人に引き上げられ、事情聴取を受け、帰宅する。
時刻は夜中の2時だった。
女性の顔は酷く、見かねた警察官の女性が、メイクを落とし、傷の手当てをしてくれ、マスクを貸してくれていた。
それに付け加え、持参のサングラスをしている。
「それじゃ、夜道たけど気をつけて…って、大丈夫?送ろうか?」
「…いいわ。迷惑かけちゃったわね」
「そうかい。じゃ、おやすみ」
そう言って、2人は別れた。
タクシーで帰宅するズルワーン。
(もうこんな時間か…。今度ルーナに会ったら、この事、話そう。あ、でも危ない事しないでって怒るかな…)
そんな事を考えながら、ズルワーンは眠りにつく。
次の早朝、ルーナからの電話で起こされる。
「おはよう、ズルワーン。連絡しなくてごめんなさいね。昨日、しようと思ったんだけど…なんだか気まずくて…」
「おはよう、ルーナ。天使のモーニングコールだよ。気にしないで」
「ねぇ、朝ごはん食べてから大学行かない?」
「嬉しいよ」
そして2人はまた、いつも通りの生活へと戻る。猫の様態は、無事に戻ったそうだ。2人はコーヒショップで、ルーナが撮った、猫のステファンの動画を楽しそうに見ていた。
その時だった。
外で大きな声がする。男女が喧嘩をしている様な叫び声がする。
道路側のカウンターに、並んで座って居た2人は、ガラスの向こうをのぞき込む。
すると、目の前を裸足の女性が駆け抜け、後から大柄な男が1人、追いかけて行く。
そして、しばらくすると、喚き散らす女性を脇に抱えた男が、また目の前を通り過ぎて行った。
通行人達の視線は、その2人に釘付けだった。もちろんズルワーンとルーナもだ。
パソコンの中では、猫のステファンが、床でゴロゴロと背中を擦り付けていた。
そして騒ぎが治まった後、すぐに2人は顔を見合わせて、大笑いしていた。
しかし、この夜、その出来事をふと思い出したズルワーンは、あの時会った女性の姿が一瞬、頭に浮かんだ。
そしてズルワーンは、眠りについた。
しかし、何やら騒がしい。
時計を見ると、寝てから1時間しか経っていない。
「テメェは黙って俺の傍に居ればいいんだよ!俺がいねぇと、お前の歌なんて誰も聞いちゃいねぇぞ!!」
「そんな事ないよ!あたしは、あたしの歌で!みんなを元気にしたいのよ!!」
「何ガキみたいな事言ってんだ!!!」
そして何かが落ちる音や、ガラスが割れる音がする。
今までも、何か小競り合いをしている様な声は、たまに聞こえて来ていたが、こんなにも激しい喧嘩をしているのは初めてだった。
ズルワーンは心配になり、怖かったが、何故か隣の部屋を尋ねて、静かにしてもらう交渉をしようと、部屋のドアを開けた。
「待やがれ!」
その声と共に、隣の部屋の扉が開く。
すると直ぐに、1人の女性が出て来た。
そして、その女性と目が合い、その女性は直ぐに、ズルワーンの部屋へと入って来て、ドアを閉める。
ズルワーンは、その女性に手で口を押さえられ、壁に押し付けられる。
女性は後ろ手に、ドアの鍵をロックした。
「待やがれ!どこ行った!?ッチ…足だけは速い女だな…」
そして男が、階段を駆け下りる音がする。
「…助けられるのは、2回目ね…」
そう言われるまで、ズルワーンは気付いていなかった。
その女性が、この間のフラフラ女だと。
しかし、その青い瞳を見た瞬間に、今までの事が、一気にフラッシュバックして行く。
「…ねぇ、朝まで居させて欲しいんだけど…」
「え、それは…ちょ…」
その女性は、ズルワーンの唇を奪う。
ズルワーンは驚いて直ぐに、女性を突き放す。
「何するんだ!」
「朝…までで…良いか…」
そう言うと女性は、倒れそうになる。
それをズルワーンは、咄嗟にそれを受け止め、ベットへと運ぶ。
(さっきのはキスじゃなくて、フラついてただけだったのか…悪い事しちゃったな…)
そしてズルワーンは、翌日、大学を休む。
心配したルーナからメールが届く。
『今日、休んでるの?大丈夫?』
『 ああ、心配させてごめん。なんだか風邪みたいで…』
『あら、看病に行きましょうか?』
『いや、君に移すと悪いから、大丈夫だよ。明日には治ると思う』
『分かったわ。ここから貴方の回復を祈っているわね。お大事に』
『ありがとう』
ズルワーンは、初めてルーナに嘘のメールを送った。
そしてズルワーンは、椅子に座り溜め息をつきながら、昼になっても目覚めない、アザだらけの隣人を眺めていたのだった。





