68話 「今宵の空には星が」
その日の夜、ジェシカがベランダに一人でいるのを発見した私は、彼女に声をかけた。
「ジェシカさん、何をしているの?」
私はベランダへ出て、彼女のすぐ横に静座する。
「空を見てたんだよ」
暗い夜空を仰視していたジェシカはそう答えた。
それにしても、今宵の空はとても綺麗だ。数多の星が輝く夜空は、エンジェリカで眺めたそれを想起させる。凄く懐かしい気分になる。
まだこちらへ来て一ヶ月も経たないというのに、エンジェリカにいたのが大昔のようだ。
「王女様……この前ごめんね」
ジェシカはらしくない遠慮がちな声で謝ってくる。
「気にしていないわ」
「……うん。ありがと」
彼女は空を見上げたまま、短く言った。
それからしばらく沈黙があった。彼女はずっと夜空を見上げてぼんやりしている。
自ら近づいておきながら、何を話せばよいのか分からない。だから私は余計なことを言わないように口を閉じておいた。
冷涼な空気は心地よく、時折吹く風がやや寒く感じられる。パジャマ一枚の私は少し身震いしつつも、この快適な空間へ身を委ねる。
「……ねぇ王女様。あたしさ」
あれからどのくらい時間が経っただろうか。ジェシカが唐突に切り出す。
「ヴィッタに捕まって色々されたじゃん。あの時、正直もうダメかもって諦めかけたんだよね。情けない話だけど」
彼女は自嘲気味に笑う。
「だから助けに来てくれた時、凄く嬉しかった。なのにあたし、王女様に対してあんな嫌なこと……言っちゃって」
暗い顔をする彼女の手を握り首を横に振る。
「ジェシカさん、もういいの。私は気にしていないから」
すると彼女は真剣な顔でこちらに向く。
「あのね、王女様」
いつもは何でもきっぱりと言うジェシカだが、今は少し遠慮がちな小さめの声で言う。
私はなんだかきっちりしなくてはならない気がして、彼女をまっすぐに見据える。彼女の瞳も私だけを捉えていた。
「もう一度あたしと友達になってほしいの!」
そんなこと? と私は思った。拍子抜けだ。
私にしてみれば、私とジェシカが友達でなくなっていたということが一番の驚きである。
「ジェシカさん、何を言っているの?もう友達じゃない」
今度は逆にジェシカが驚く番だった。口をポカンと開け、固まってしまう。内心「そこまで驚くことか?」と思うが、彼女的には衝撃的だったのかもしれない。
「……ジェシカさん?」
あまりに固まっているので控えめに名を呼んでみる。
しかし反応がない。何もそんなに驚かなくてもいいじゃない。
「ジェシカさん?」
念のためもう一度名前を呼んでみると、彼女はピクッと身を震わせる。そして苦笑する。
「ご、ごめん。びっくりしすぎて止まってた……」
びっくりしすぎて止まっていたなんて、こっちが驚きだわ。 そんな心の声を発することはなかったが、よく分からないがおかしくなって、クスッと笑みをこぼしてしまう。まるで伝染したかのように、ジェシカもクスクスと笑い出す。
「あたし、変だった? ごめん。話についていけなくてつい……ふふっ」
彼女は純粋に笑っていた。私は自分が自然と楽しい気分になっていることに気づく。
不思議な感覚だ。ずっと一人で見ていた夜空を、こんな風に友達と喋りながら眺める日が来るなんて。
「あの星たちはエンジェリカで見ていたものと同じなのかな。ねぇ、ジェシカさんはどう思う?」
私は同じものだと思うわ。
だって、王宮から見た時と、同じぐらいの明るさだもの。
「あたしはエンジェリカで星なんか見たことないよ。毎日が、今日一日を生き抜くのに必死。そんな暮らしだったから」
そういえばジェシカはずっと貧しかったと言っていたわね。
一日生きるのに必死。そんな暮らし、私にはまったく想像できない。
意識したことがなかったけれど、私は恵まれていたのだ。それをひしひしと感じた。
「食べ物を盗む。邪魔者は殺す。昔はそんな滅茶苦茶な毎日だったなぁ」
彼女は思い出話のように軽いノリで話すが、私は信じられなかった。
盗むなんて。殺すなんて。
——でも、貧しくて、そうしなくちゃ生きていけない状態だったってことよね。
生きるためには罪を犯し続けなくてはならない。そんな暮らし、どんなに辛かっただろう。
「ずっと大変だったのね……」
思わず涙が溢れてきた。
泣き出してしまった私を見てジェシカは慌てている。こんなことで泣いてしまって申し訳ない。
「えっ? えっ? ちょ、待って。何で王女様が泣くのっ!?」
でも涙は一度出ると止まらないものなのよ。
「ごめんなさい、ジェシカさんの話を聞いていたら……可哀想すぎて……」
正直酷いことを言ってしまったと思う。
しかしジェシカはそんなことで怒らなかった。むしろ優しく私を慰めてくれる。しっかりしてるなぁ。
「でもっ、でもね。今はほら! こうやって普通の生活してるし、食べ物にも困ってないから。あたしもノアも楽しく暮らしてる! そうじゃん?」
私は少しでも早く泣き止むよう努める。この状況を誰かが目にしたら、ジェシカが私を泣かしたと誤解するかもしれない。
早く涙を止め——あ。
ガララッ。
部屋とベランダを繋ぐガラスのスライドドアが開いた。
「こんな遅くに何を……なっ! 王女!?」
声の主はエリアス。
涙で濡れた顔の私を見るや否や、勢いよく言う。
「一体何があったのです? 王女、私が話を伺います」
涙を拭いながら返す。
「ち、違うの。ちょっとだけ待って……」
するとエリアスは隣のジェシカに鋭い視線をやる。
「一体何をした」
「ちょっと待って! あたしじゃないって! 殺気怖い、殺気怖いってば!」
彼の恐ろしく鋭い視線にびびり上がるジェシカ。
「エリアス、話を聞いて。今から事情を説明するから……」
「はい。分かりました」
こちらを向いた彼は微笑んでいた。
切り替え早っ!
そんなことで、色々説明しているうちに夜が明けた。
夜な夜なベランダで話すというのは、恐らくかなり近所迷惑な行為だったと思われる。だから苦情を言われるのは覚悟していた。しかし、近隣住民から苦情は一件も来なかった。
近隣住民が広い心の持ち主だったのだろう。……良かった。




