123話 「きっと特別になる」
準備や用事に追われ続ける長距離走のような一日を終え、その日の晩。
私は不意に出かけたくなったので、ヴァネッサから特別に外出の許可を貰い、エリアスと二人で広場へ向かった。
街の中央にある広場は、昼間は大勢の天使で賑わっているのだが、夜はほとんど誰もおらず少し寂しい雰囲気に包まれている。だが、一国の王女が男性と夜空を眺めながら話すには、このくらいの静けさがちょうどいいのかもしれない。どさくさに紛れての暗殺や騒ぎになる危険性を考慮すれば、多くの天使がいる場所を歩かない方が懸命と言える。
ちなみに、私がエリアスに出かけようと提案した理由は、たいしたことではない。なんとなく夜空を眺めたくなっただけ。実にくだらない理由である。
広場の端に設置された木製の古そうなベンチに腰をかけ、夜空を見上げた。数多の星が競いあうように輝く暗い空を見て、ふと思う。
——私は星空が好き。
どんなに幸せな夜も、どんな悲しい夜も、星空は変わらず私たちを照らしてくれる。天界にも地上界にも、そして魔界にも。星の美しい煌めきは、すべての世界に平等に与えられている。
ただ、敢えて言うとしたら、私はエンジェリカで見る星空が一番好きだ。それはここが私の生まれ故郷だからだと思う。
真っ暗な夜空に煌めく満天の星。その光はあまりに眩しくて、心の奥底まで届きそうに思える……なんて、私は何を言っているのやら。
「エリアス。空、綺麗ね」
私が何げなく呟くと、エリアスはこっちを見て微笑する。そして優しい声で「貴女の方が綺麗です」などと返してくる。どこの色男のセリフだ、と複雑な心境になりつつ苦笑した。
「何か悪いことを申し上げましたか?」
エリアスは不思議そうに首を傾げている。
特に何の意識もせず、サラッと「貴女の方が綺麗です」などと言ってのける男性には、今まで出会ったことがない。かなり天然のノアであっても、さすがにここまでは言わないだろう。「可愛い」くらいが関の山のはず。
だがエリアスは私を褒めることに関してだけ非常に積極的だ。私から褒めたりすれば真っ赤になって照れるわりに、こちらに対しては恥ずかしげもなく正直な思いを伝えてくるものだから、度々驚かされる。
「いきなり意外なことを言われたから少しびっくりしただけよ」
「意外なこと、とは?」
そんな曇りのない純粋な目で見られたら答えざるを得ない。
「この星空より私が綺麗だなんて、明らかにおかしいでしょ?」
自分で言っても恥ずかしくなるくらいのことだ。他者から言われるのは戸惑うし、かなり恥ずかしいものがある。
しかしエリアスはまだ疑問を抱いているような表情をしている。
「もちろん空は幻想的で良いですが、私としてはアンナの方が綺麗だと思います。それがおかしいと仰るのですか?」
それはまぁ……個人の感覚だけれども。
正確に言うとすれば、私が違和感を感じるのはエリアスがそう思っているところではない。感覚はそれぞれだから一概には言えないもの。おかしいと思うのは、自分の思いを本人にハッキリと言うところだ。
褒めてもらっておいてこんなことを思うのはあまりよくないかもしれないが、いきなり大袈裟な褒め言葉を言われては困惑してしまう。どう反応すればいいのか分からない。
「……すみません、アンナ。私が迂闊でした。貴女の気持ちも考えず余計なことを……あぁ、前夜にまで私は……」
エリアスは背を丸め、頭を前に倒して手で支えるような体勢をとる。どうやら落ち込んでいるらしい。褒めてくれたというのに少々言いすぎたかもしれない。
重苦しい空気が漂い始めてしまったので、それを振り払うように明るい声を発する。
「そんな顔しないで。エリアス、貴方は悪くないのよ。褒めてくれるのは嬉しいの!」
せっかくの楽しい時間を台無しにするのは気が進まない。
「ありがとうございます。まだ距離感が掴めておらず今後も配慮不足が目立つかもしれませんが、どうかお許し下さい」
手を伸ばし、エリアスの手に触れてみる。すると彼は束の間困惑したような表情になったが、すぐに微笑んで握り返してくれた。
「気にしないでね。実は私もまだよく分かっていないの。エリアスは私にとって、ずっと護衛隊長だったから」
私も彼に微笑みかけた。
ひんやりとした静寂の中、私たちは見つめ合う。二人の瞳にはお互いの姿しか映っていなかった——なんてね。そんな詩的なことはない。
ただ、もうすぐ私たちは特別な二人になる。それは確かなことだ。
その日の夜、私は鏡台の前に座ってぼんやりしていた。明日が楽しみでまだ寝れそうになかったからだ。
一人幸せに浸っていると、ふと何かの気配を感じ、私は鏡の方に目をやる。そこには黒い女が映っていた。四百年前エンジェリカの王女だったというあの女性だ。
「……貴女は」
今はもう怖くはない。ただ彼女とはずっと会っていなかったので、まだいるのが不思議だった。とっくに消えてしまったものだと思っていたのだ。
「久々だなアンナ。お前が女王になる瞬間を見届けられること、嬉しく思う」
漆黒の瞳に宿る光は、夜空に瞬く一つの星のようにも思える。
「私のせいでお前を厳しい運命に巻き込んでしまったことを改めて謝りに来た。本当にすまなかった」
「……違うわ。貴女が作ったのはきっかけだけ」
彼女に出会ったことも、辛い思いをしたことも、今は悔やんでいない。困難な道を行く中でも私は多くの喜びに出会えたから。
「歩む道を決めたのは私よ」
自分が選んできた道を後悔することだけはしたくないと思う。だからいつだって笑顔でいたい。
「変わったな、お前は」
黒い女は、ふっと笑みを浮かべたが、気づけばすっかり消えていた。彼女は本当に不思議な女性だ。
私は心の中で彼女に小さくお礼を述べ、それからベッドに横たわった。




