第十五話 酔いと誘惑に満ちた宴会
「今夜は宴会ですわ!」
イリスの宣言に、食堂は歓声で満ちた。坑夫救出とファランの依頼、二件分の報酬がまとめて入った日だった。
「誰の許可で決めたんだよなぁ」
「わたくしの独断と偏見ですわ!」
胸を張るイリスに、誰も逆らわない。逆らったところで、酒と料理はすでに食堂いっぱいに並んでいた。
《ノアの帳面》には、今夜の出費まで几帳面に書き添えられる。依頼外の支出、酒代、料理代。十年間、記帳の癖だけは抜けなかった。
「ノア様、こちらもどうぞ!」
アメリアが取り分けた肉を、山盛りにして差し出す。
「多くないか」
「足りなければ、また作りますわ!」
いつもの台詞に、皆が笑う。だが今日は少し、笑いの質が違った。安堵の笑いだ。
◇
「乾杯の音頭は、やっぱりノアさんですよね」
マイアに促され、ノアは仕方なくグラスを掲げた。
「――今日まで、誰も欠けなかった。それだけで、乾杯には十分だ」
短い言葉だったが、誰も物足りなさを口にしなかった。
「乾杯!」
声が重なる。グラスが触れ合う音が、いくつも連なって響いた。
◇
酒が進むと、イリスの舌も軽くなる。
「今月の収支ですけど、坑夫救出の報酬が金貨五枚、ファラン様からの謝礼が金貨三枚、経費を差し引いても純利益は――」
「宴会でまで計算するな」
「だって気になるんですもの!」
「即席決算やめろ」
「今のは即席立法じゃなくて決算ですわ!」
「うるさいのは同じだ」
軽口の応酬に、セシルが小さく笑う。珍しい表情だった。
「セシル、楽しそうだな」
「はい。……こんなに賑やかな夜、久しぶりです」
過去の傷を持つ彼女にとって、この賑やかさは、まだ少し慣れないものなのだろう。それでも、笑っている。それだけで十分だった。
◇
「ノア様、こちらへ!」
酔ったアメリアが、ノアの腕を引く。パトラー家の血が、酒精と合わさって少し暴走気味だった。
「アメリア、落ち着け」
「はっ……失礼いたしましたわ」
我に返るアメリアに、また笑いが起こる。恋をすれば全ステータスが千二十四倍に跳ね上がる血族の娘は、酔うと制御が甘くなるらしい。覚えておくべき情報だった。
◇
途中、扉が静かに開いて、ミナーヴァとルサルカが顔を出した。
「賑やかですね。招待、忘れられてましたけど」
「勝手に来るだろうと思ってた」
ノアが答えると、ミナーヴァはくすりと笑う。ルサルカは相変わらず口数が少なく、隅の椅子に静かに腰掛けた。二人とも、天使と悪魔を自称しているが、その正体をノアはまだ知らない。名を教える前から知られていたことも、影のような力も、謎の外出も、すべて棚上げにしたまま、今夜だけは酒を酌み交わす。
「たまにはこういうのも、悪くないですね」
ミナーヴァの声が、いつもより柔らかかった。
◇
宴もたけなわの頃、ノアは一人、窓辺に立った。星明かりの下、賑やかな声が背中から届く。
十年前、この時間は書庫で一人だった。誰にも見られず、誰にも呼ばれず、ただ黙々と《転移》を磨いていた。今、背中越しに聞こえる声の数を、当時のノアに教えてやりたいと思う。
「――こんな夜が続けばいいんだが」
呟きは、誰にも届かなかった。だが、窓の外の暗がりに、微かに動く影があったことに、ノアはまだ気づいていない。
◇
帳面に、最後の一行を書き足す。宴会一回、支出あり、笑顔多数。
「――さて、次はどんな依頼が来るかな」
宴の余韻の中、ノアは静かにページを閉じた。誰にも見られなかった十年の続きが、今、賑やかに動き始めている。
◇
翌朝、頭を抱えるイリスの隣で、ノアは帳面を見返していた。
「昨夜の収支、もう一度確認するか」
「や、やめてください……頭が割れそうですわ」
「珍しく素直だな」
「二日酔いの前では、経理魂も敗北するんですのよ」
情けない声に、朝の食堂がまた笑いに包まれる。セシルが差し出した水を、イリスは奪うように飲み干した。
「――こういう朝も、悪くないな」
誰にともなく呟いた言葉に、返事はなかった。だが、皆の顔に浮かぶ穏やかさが、答えの代わりだった。十年、誰にも見られなかった男の朝は、今、誰かの声で始まるようになっていた。
◇
その頃、ギルドの奥ではオーウェンが一人、書類を整理していた。宴の招待は受けたが、性分として長居はしない男だった。
「――昨日の坑夫救出とファランの依頼、両方とも記録に残しておきます」
誰にともなく呟き、ノアの帳面の写しをそっと束ねる。オーウェンなりの気遣いなのか、それとも別の思惑があるのか。ノアはまだ、そこまで気に留めていなかった。
「僕たちは、君たちを管理しているんですよ」
小さな独り言は、宴の喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
◇
昼過ぎ、二日酔いから復活したイリスが、真面目な顔で帳簿を広げる。
「昨夜の宴会費、経費で落とせないか計算してましたの」
「無理だろ、それは」
「ですわよね……」
肩を落とすイリスに、セシルが小さく笑う。
「イリスさんらしいです」
「褒めてます?」
「さあ、どうでしょう」
軽いやり取りが、いつもの食卓に戻っていく。ノアはそれを眺めながら、帳面に一行を書き足した。宴会一回、支出あり、笑顔多数、経費算入不可。
十年、誰にも見られなかった男の記録には、今、こうした些細な出来事まで刻まれるようになっていた。
「――次はどんな依頼が来るかな」
窓の外、エッダの丘に朝日が昇る。誰にも見られなかった十年の続きが、今、賑やかに動き始めている。
続きが気になったらブックマーク、面白かったら下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると励みになります!




