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プロローグ 始まりまでの前日譚

「――というわけでして! ギルドは崩壊の危機なのです! どうか、どうかノア様のお力をお貸しください!」


なんでも屋の受付カウンターで、ギルドの使者が額を床に擦り付けている。


俺の左右には、猫耳の少女と王族のお嬢様。


後ろのソファーには自称姉が二人と、ツンデレなエルフっ子。


今日も俺の店は、むさ苦しいほど華やかだ。


「今更助けてください、ねぇ」


俺はウーロン茶をひと口飲んでから、心の底から答えてやった。


「無理だよ。俺は今、女に囲まれて幸せだから」


――さて。


どうしてこうなったのか。


話は、あの理不尽な追放の日まで遡る。


※ ※ ※


その日、ノアはギルドマスター室に呼び出された。


部屋の主は、アデリン・ドイル。


ギルドの頂点に立つ女傑――と言えば聞こえはいいが、実態は気分で人事を決める暴君である。


「おお、ノアくんか。よく来てくれた。座りたまえ」


嫌な予感がした。


この女が下の者に椅子を勧める時は、ろくな話じゃない。


十年の勤めで、それだけは学んでいた。


「君は明日から、いや今からここを辞めてもらう事になった」


「……は?」


一瞬、言葉の意味が取れなかった。


リストラ。総務課の縮小。真っ先に挙がった俺の名前。


説明は簡潔で、そして、どうでもよさそうだった。


「なんで俺なんですか。仕事なら人一倍やってきたはずです」


事実だ。


朝一番の依頼仕分け。三人分の帳簿処理。誰もやりたがらない倉庫の棚卸し。


全部、俺が回してきた。


「自覚がないのかい? 君、転移魔法しか使えないだろう」


アデリンは心底おかしそうに、指をくるくると回した。


「転移魔法。物をひょいっと動かすだけの、荷物運びの雑用魔法さ。火も出せない。傷も治せない。剣も握れない。雑用しか出来ない君のような存在は、お呼びでないのだよ」


――雑用魔法。


その一言が、胸の奥の柔らかい場所に刺さった。


転移(シフト)》。


掟は三つ。


視認せしもの、触れしもののみ。


編む一瞬の静寂。


命は、己と、心許した者のみ。


制約だらけの、不器用な魔法だ。


だから俺は磨いた。倉庫番と笑われながら、十年。誰にも見られず、誰にも褒められず。


その十年を、この女は「雑用」の二文字で片付けた。


「なら聞くが、君はその魔法で魔物の一匹でも倒せるのかい?」


護衛の騎士達が、下を向いてニヤニヤ笑っている。


――なんだコイツら。


ギルドって、こんな奴らの集まりだったのか。


怒りが湧いた。それでも俺は、握った拳を震わせて、無理やり心を落ち着かせた。


ここで暴れても、いい事は一つも無い。


「分かりました。ですが総務には、俺より仕事の遅い人間が何人もいます。なぜ俺なのか、それだけ聞かせてください」


「そうだな――気分、という言葉が一番合っているかな?」


「気分、だと?」


「そうだとも。人間が行動する時のきっかけは二つ。感情と、気分だ。今回は気分。おわかり?」


「そんな意味もない理由で、人の人生を壊すとでも?」


「えぇ、そう言っています。この私がこの国で、いや、この世界で一番正しくて一番の正義なのだ! 分かったか!」


アデリンはテーブルに拳を叩きつけて怒鳴った。


話にならない。


俺は席を立ち、自分の机から一冊の古びた帳面を取り出した。


十年分の業務日誌。


依頼の相場。職員の癖。倉庫の在庫。書類の通し方。


この組織の回し方の全部が、ここに書いてある。


俺の私物だ。置いていく理由はない。


「おい、何を持ち出す気だい」


「俺の十年です」


部屋を出る前に、一度だけ倉庫に寄った。


十年通った、俺の持ち場。


棚の位置も、木箱の傷も、届かない最上段に踏み台がいる事も、全部覚えている。


手袋を外して、棚板に触れた。


一枚、また一枚。


《転移》の掟、その一。視認せしもの、触れしもののみ。


いつか届く場所へ、いつでも跳べるように。


触れた物を増やすこの癖を、俺は「下拵(したごしら)え」と呼んでいる。


――もう、ここの荷物を運ぶ事はない。


それでも棚に触れたのは、ただの未練だったのかもしれない。


「世話になったな」


返事をしない棚に礼を言って、俺は倉庫の扉を閉めた。


案内役に付けられたのは、さっきから髪ばかり触っている騎士だった。


「フッ、君ごときが私と隣を歩けるなど、光栄に思いたまえ」


典型的なナルシスト貴族。部屋に入った時から、俺をあざ笑っていた男。


――こいつの顔は、覚えておこう。


出口で振り返り、俺は最後の挨拶をした。


「今までお世話になりました。いや――」


一つだけ、訂正する。


「お世話、しました」


そして扉をくぐる瞬間、一言だけ告げた。


「絶対に、後悔させてやる」


この日、ノア・カインズはギルドと縁を切り、新たな人生を始める。


――この時のアデリンは、まだ知らない。


雑用と笑ったその魔法が、王国の歴史を塗り替える事を。


気分ひとつで手放した倉庫番の帳面こそが、ギルドの背骨だった事を。

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