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苔むす月の岩戸  作者: 小埜えりこ


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20/20

言葉の壁

夜、永和は家でペーパーを作っていた。


 カンボジア語——クメール語の簡単な挨拶と学校用語をネットで調べながら、一つずつ書き写していく。


「おはよう」は「スォーアイ」


「こんにちは」は「ソウスデイ」


「ありがとう」は「オークン」


 カタカナで読み方を振り日本語の意味を添えて小さなカードにまとめていく。


 胸元の依石袋が微かに温かかった。


 「姫様、聞こえる?」


 心の中で、そっと問いかけた。


 ――うむ


「見てる?」


――そなた、字を書いておるな


「うん。ソパックくんに少しでも分かるように」


 永和はペンを止めてペーパーを見つめた。


「トイレ、水飲み場、保健室……あと、『分からない』とか『もう一度』とか。こういうのが言えれば少しは楽になるかな」


 ――外国の言葉、というのは面白いのう


「でしょ?これで、クラスのみんなも話しかけやすくなると思うんだ」


 ――そうか


 姫様の声には静かな好奇心が滲んでいた。


 ――そなたは、あの子の為に、よくしてやるのう


「うーん、そうかな?ただ言葉が分からないのって怖いと思うから」


 永和はペーパーを仕上げながら小さく呟いた。


「早く日本に慣れてほしいな」


 姫様は何も言わなかった。


 ただ依石袋の中で静かに見守っていた。


翌朝、永和はクラスでペーパーを配った。


「みんな、これ、見て」


 子供たちが興味深そうにペーパーを覗き込む。


「カンボジアの言葉だよ。ソパックくんの国の言葉」


「えー、何これ、読めない」


「カタカナで読み方が書いてあるから、これで話してみよう」


 永和はペーパーを指差した。


「ほら、『スォーアイ』って言うと、『おはよう』って意味だよ」


「スォーアイ?」


「難しそう」


「でも、やってみようよ」


 子供たちが、ざわざわと動き出した。


 ソパックは自分の席でペーパーを見つめていた。


 その顔が少しだけ上を向いた。


「ソパックくーん、スォーアイ」


 一人の女の子がソパックに声をかけた。


 ソパックは、びっくりしたように女の子を見た。


「スォーアイって『おはよう』だって」


「ソパックくんも言ってみて」


 クラスの子供たちが次々とソパックに話しかけた。


「スォーアイ」


「ソパックくん、こっちおいで」


ソパックは戸惑いながらもペーパーを指差して小さく何かを呟いた。


 その声は小さすぎて聞き取れなかった。


 でもソパックはペーパーの「スォーアイ」の文字を指して小さく口を開いた。


「……おはよう」


 小さな、でも確かな声だった。


 クラスの子供たちが、ぱっと明るくなった。


「おー、言えた!」


「ソパックくん、すごい!」


「もう一回、もう一回」


 ソパックは、もう一度、小さく言った。


「おはよう」


 今度は少しだけ、はっきりと聞こえた。


 クラスの子供たちが、わっと笑った。


 ソパックも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 永和は、ほっとした。


 「姫様」


 ――うむ


「ちょっとずつ、慣れてくれるかな」


 ――……そうじゃな


 姫様の声は静かだった。


 でも、その静けさの中に微かな温かさがあった。


数日後、永和はソパックの肘に小さな痣があることに気付いた。


 休み時間、ソパックが腕を伸ばした時、その痣が見えた。


 永和はソパックの席に近づいて、しゃがんだ。


「ソパックくん、それ、どうしたの?」


 ソパックは永和を見て、それから自分の肘を見た。


 小さく身振りで「転んだ」と示した。


 永和は、ソパックの目を見た。


その目は何かを言いたそうにしていた。


 でも、言えなかった。


「……痛くない?」


永和も身振りで聞いた。


 ソパックは小さく首を振った。


 永和は、それ以上、聞けなかった。


 胸元の依石袋が微かに熱くなった気がした。


 「姫様」


 ――うむ


「……あの子、何かあったのかな」


 姫様は少しの間、答えなかった。


 ――……そうじゃな


 その声には静かな懸念があった。


 放課後、職員室でクラスの女の子が永和に話しかけてきた。


「先生」


「ん、どうしたの」


「昨日ね、ソパックくんが他のクラスの子に突き飛ばされてた」


 永和はペンを止めた。


「……突き飛ばされた?」


「うん。三年の子かな。『何か言えよ!』って言われて、ソパックくん黙ってたら、ドンって」


 永和の胸が締め付けられた。


「……そう。教えてくれて、ありがとう」


 女の子は頷いて職員室を出て行った。


 永和は机に肘をついて深く息を吐いた。


 悪意じゃない。


 ただ、日本語が当たり前だと思ってる子供の無理解から来る行動。


 でも、それがソパックを傷つけている。


 「姫様」


 ――うむ


「言葉が分からないって、こんなに怖いんだね」


 姫様は答えなかった。


 ただ、依石袋の中で静かに何かを見つめていた。


 夜、永和は家でソパックのことを考えていた。


 ペーパーは少しずつ効果を出している。


 クラスの子供たちはソパックに優しくしてくれている。


 でも他のクラスの子はソパックを知らない。


 言葉が通じない子を、ただ「何も言わない子」と見て突き飛ばす。


 「大丈夫だろうか」


 心の中で、そう思った。


 姫様は何も言わなかった。


 ただ静かに永和の隣に居た。

2026.8.26

珍しく連投です。

実はウチの番地区画内に

技能実習生が一軒家に4~5人住んでて

余り顔を合わせる事はないし

半年以上居ればカタコトの日本語は

話せるし、事足りる。

来日したてで日本の学校で集団生活を

送るのは大変だろうなと思います。

子供の無理解や無邪気は本当に

厄介ですよね……悪意がない分。


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