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お湯を紅茶に見せかける没落貴族とポーションで顔を洗う成金令嬢、どっちが真のエリートか決めようじゃないか  作者: 寝不足魔王


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18/23

【第八部:不本意な婚約、周囲の包囲網】前編

 学院の掲示板に、リリアーヌ・ゴールドベルクの「一時休学」の通知が貼り出された。

 表向きの理由は商会の家業手伝い。だが、アレンはその裏にある「哀しみ」を、自分自身の胸の痛みとして、心臓の奥深くに感じていた。


「……ゴールドベルク嬢。貴様、どこに連れて行かれた」


 アレンは自習室の窓際で、震える手で空のカップを握りしめていた。

 リリアーヌが学園から数キロ離れたゴールドベルクの本邸へと連れ戻された瞬間から、契約の回路を通じて伝わってくる感覚が、霧のように薄れ始めていた。

 かつてはあれほど「汚染」だと忌み嫌っていた彼女の騒がしい拍動、贅沢な香水の匂い、そして傲慢なまでの熱量。それらが遠ざかるほどに、アレンの魂は、経験したことのない「凍えるような静寂」に浸食されていった。


 一方、ゴールドベルク邸の豪華な応接間。

 リリアーヌは、父が用意した他国の魔導貴族の嫡男を前に、冷徹な微笑を浮かべて座っていた。

「……リリアーヌ、。お前も商会の娘なら理解できるはずだ。没落貴族との不確かな縁より、この縁談こそが我が家に最大の利益をもたらす」

 父の言葉が、耳を通り抜けて消えていく。


(……寒い。何ですの、この心細さは……)


 リリアーヌの肌に触れる最高級のドレスが、今はひどくざらついた、冷たい布切れに感じられた。

 回路の向こう側で、アレンが感じている「孤独」と「喪失感」が、彼女自身の涙となって瞳に溜まっていく。アレンが普段、紅茶の偽装をしてまで守っていたあの痩せ我慢の『誇り』が、彼一人の力では維持できなくなっている。その崩れゆく感覚が、リリアーヌの心を鋭く切り裂いた。


 アレンが自分のことを求めている。

 リリアーヌもまた、自分の半分が奪われたような欠落感に、叫び出したい衝動を抑えていた。


「リリアーヌ様。……随分と、上の空ですな。私の話が退屈ですか?」

 見合い相手の男が、不快そうに顔を近づける。その男の体温が伝わった瞬間、回路を通じてアレンの「激しい拒絶の呻き」がリリアーヌの脳を揺らした。


「……触れないでくださる? 汚らわしいですわ」

 リリアーヌは、アレンの「哀しみ」を「拒絶」へと変え、扇子を鋭く広げた。


 数キロの距離を隔て、二人の心拍は、かつてないほど弱く、かつてないほど必死に、お互いの存在を求めて共鳴し続けていた。

 それは言葉を交わすよりも雄弁に、二人がもはや「独り」では完成しない存在であることを、深く、重く証明していた。


「……セバス。馬車を出せ。……誇りなど、今はどうでもいい。……ただ、あの女のうるさいマナが、……必要だ」


 アレンは空のカップを置き、夕闇の中へと走り出した。

 回路から消えかかっている、たった一つの熱源を繋ぎ止めるために。


 ゴールドベルク本邸の豪奢なサロン。見合い相手の魔導貴族、エドワードは、目の前のリリアーヌを冷笑的に眺め、手にしたワインを揺らした。


「リリアーヌ様。例の没落貴族……アレン・ヴォルザードでしたか。彼が馬車を飛ばしてこちらに向かっているそうですが、無駄なことです。門前払いにした上で、我が家の権力で学院からも追放して差し上げましょう。ゴミはゴミ箱へ、ですな」


 その瞬間、リリアーヌの脳内に、激しい「焦熱」が走り抜けた。

 それは彼女自身の怒りではない。屋敷の門前に到着し、守衛に阻まれながら、エドワードの傲慢なマナを感知したアレンの、腸を断つような激しい「憤怒」だ。


(……僕の……、僕の家を……セバスの居場所を……。そして、この女を……「ゴミ」だと……ッ!)


 回路を通じて逆流してくるアレンの怒りが、リリアーヌの心臓を太鼓のように叩く。アレンの冷徹な殺意が彼女の神経を研ぎ澄ませ、リリアーヌ自身の、金で人を支配しようとする者への嫌悪と爆発的に融合した。


「…………エドワード様。今、何と仰いましたの?」

 リリアーヌの声から、全ての色彩が消えた。


「ん? ですから、あの没落者のゴミを――」


「お黙りなさいな、この無能!!」

 リリアーヌは扇子をテーブルに叩きつけ、立ち上がった。

 彼女の全身から、アレンの精密な術式に裏打ちされた、制御不能なほどの黄金のマナが溢れ出す。


「あんたが今、馬鹿にしたその男は、私の魔力を唯一完璧に御せる、世界でたった一人の魔導師ですわ! その辺に転がっているあんたのような石ころとは、格が違いますのよ!」


 リリアーヌはすぐさまベルを呼びつけ、一通の契約書をエドワードの顔面に叩きつけた。

「ベル! 今すぐ、この男の一族が経営する魔導具工房の株を、市場に出ている分だけ全て買い叩きなさい! 資金は予備費から全額、今この瞬間に投入すること!」


「な……!? 何を正気な……ッ!」

「おーっほっほ! ゴールドベルクの怒りを買ったことを後悔なさいな。あんたの家の『誇り』とやら、明日には私の家の靴磨きにでもして差し上げますわ!」


 回路の向こうで、アレンが門を突破した。

 二人の怒りは、契約の鎖を真っ赤に加熱し、邸内の魔導照明を次々と破裂させていく。

 アレンの「精密な破壊」が、リリアーヌの「財力」という盾を矛に変え、エドワードの権威を文字通り根元から粉砕した。


 サロンの扉が、アレンの放った衝撃波で弾け飛ぶ。

「……待たせたな、ゴールドベルク嬢。……貴様のその、下品なまでの憤怒に誘われて、ここまで来てやったぞ」


 煤まみれのアレンが、冷徹な笑みを浮かべてそこに立っていた。

 二人の怒りは、もはや誰にも止められない、不敵で傲慢な「正義」へと昇華されていた。


 エドワードとの一件で家門を揺るがす大騒動を引き起こした翌日。アレンとリリアーヌは、追手から逃れるように王都の喧騒のさらに先、入り組んだ下町の路地へと足を踏み入れていた。


「……セバスとベルが、あちらで足止めをしている間に、少しだけ距離を置くぞ。共感の鎖が、……奴らの監視のマナまで拾い上げて不快だ」

 アレンは、実家の古い倉庫で見つけたという、くたびれた平民の外套をリリアーヌに投げ与えた。


「な、なんですの、このゴワゴワした布切れは……! 私にこんな、埃を固めたようなものを着ろと仰るの!?」

「黙れ。最新のドレスなど着ていれば、一分で連れ戻されるぞ。……行くぞ、ゴールドベルク嬢。今日は貴様に、本当の『自由』というものを教えてやる」


 アレンが向かったのは、きらびやかな宝石店も、魔導具の専門店もない、庶民の活気に満ちた市場の隅だった。

 一〇〇銅貨。アレンの手のひらに載せられた、たった一枚の硬貨。


「……これで、何が買えますの? 私、こんな端数、チップにも使ったことがありませんわよ」

「いいから黙って僕の感覚に集中しろ。……ほら、食え」


 アレンが買い与えたのは、焼きたての『黒パンの蜂蜜がけ』。何の変哲もない、下町の安価な軽食だ。

 リリアーヌが渋々それを口に含んだ瞬間、契約の回路を通じて、アレンが幼少期に感じていた「純粋な喜び」の感覚が、鮮烈な彩りを持って彼女の脳内を駆け巡った。


「っ……!? な……、何ですの、この……素朴で、不気味なほどに『温かい』味は……!」

 自分の舌が感じているのは、確かに粗末なパンの味だ。だが、アレンの回路から伝わってくるのは、高級フルコースの何百倍も濃密な「楽しさ」と「安らぎ」。一〇〇銅貨を握りしめて歩く、ただそれだけのことが、これほどまでに心を躍らせるのか。


「おーっほっほ! 意外と、悪くありませんわね! むしろ、ゴールドベルクの投資対象として検討してもよろしくてよ!」

「……ふん。一〇〇銅貨の価値を、ようやく理解したか」


 二人は追手の目を盗み、狭い路地の階段に腰を下ろした。

 回路を通じて伝わってくるのは、お互いの「偽りのない解放感」。

 家門の重圧も、商会の利益も、伝統の重みも、今はどこにもない。

 一〇〇銅貨で買った自由。

 二人の心音は、不器用ながらも、軽やかなステップを刻むように跳ねていた。


「……アレン様。あんたのその、安っぽい楽しさ……。……少しだけ、伝染しましたわ」

「……貴様の、その単純な歓喜もな。……悪くない」


 夕暮れの路地裏。

 二人が分かち合ったその弾むような高揚は、贅沢な宮殿の喧騒よりも、ずっと鮮やかに輝いていた。


 ゴールドベルク商会の特別鑑定室。そこには、アレンがヴォルザード家の蔵の奥から持ち出した、一振りの古びた儀式用の短剣が置かれていた。

 リリアーヌは商会の熟練鑑定士を下がらせ、自ら最新の魔導分析器を起動した。


「……ヴォルザード様。あんた、これがただのなまくらだと言っていましたけれど、分析結果を見なさいな」


 リリアーヌが示した数値に、アレンは息を呑んだ。

 その短剣の芯には、現代の技術では再現不可能なほど高密度に圧縮された『蓄魔鋼』が使われていた。没落の過程で「ただの古い鉄」だと思い込まされていたそれは、実は歴史的価値と実用性を兼ね備えた、一国の予算に匹敵するほどの家宝だったのだ。


(……僕が、ずっと守ってきたものは、……間違いではなかったのか)


 アレンの胸の奥から、静かに、しかし力強く込み上げてくる感情があった。

 それは、長年の飢えや屈辱が報われた瞬間の、純粋な『嬉しさ』だった。回路を通じて、その温かなマナの拍動がリリアーヌの中へ流れ込む。


 リリアーヌは、アレンが感じているその深い安堵と、自分自身を肯定できた瞬間の誇らしさを、自分のことのように実感していた。

 いつもなら「金になるわね」と笑うはずの彼女だったが、アレンの魂が震えるほどの喜びを共有したことで、彼女の目にも不意に熱いものが込み上げた。


「……よかったではありませんこと。これで、誰もあんたの家を『空っぽの箱』だなんて言わせませんわ」


 リリアーヌは、照れ隠しに厳しい口調を保ちながらも、回路を通じてアレンに「心からの祝福」を送り続けた。アレンは、リリアーヌが自分のためにここまで熱心に鑑定を行い、自分の成功を自分のことのように喜んでくれている事実に、言葉にできない感謝を覚えた。


 二人の間には、不本意な契約以来、初めてとなる穏やかな空気が流れていた。

 伝統が認められたことへの誇りと、それを分かち合える相手がいることへの幸福感。

 

「……ゴールドベルク嬢。……礼を言う。貴様がいなければ、僕はこれをただのゴミとして売っていたかもしれん」

「おーっほっほ! 感謝なさいな。あんたの家の価値を見抜けるのは、世界で私くらいなものですわよ!」


 二人は不器用な言葉を交わしながらも、回路を通じて伝わってくる「互いへの信頼」に、これまでにない確かな充足感を感じていた。


 学院の応接室。そこには、火花を散らす二人の「父」が向かい合って座っていた。

 アレンの父、ヴォルザード前当主は、継ぎ接ぎの目立つ礼装を纏いながらも、岩のような威厳で伝統の価値を説く。対するリリアーヌの父、ゴールドベルク商会長は、指輪の宝石を光らせ、冷徹な数字を突きつけていた。


「……ヴォルザード殿。時代遅れの格式に固執し、娘の将来、ひいては我が商会の資産を泥に沈めるつもりか」

「金で買えるものに価値を見出す貴殿に、我が家の矜持を理解しろとは言わん。だが、子供たちの魂の契りを、損得勘定で汚すことだけは許容できん」


 親たちの間に渦巻く、激しい「怒り」。

 その負の熱量は、契約の回路を通じて、傍らに控えるアレンとリリアーヌの神経を直接灼き始めた。


(……くっ、熱い。父上の、この頑なまでの拒絶が……脳内に突き刺さる……)

(私のパパもですわ……。この冷え冷えとした計算高い憤り、私の胃をキリキリと締め付けますのよ!)


 アレンの回路には、伝統を汚されたことへの「激昂」が流れ込み、リリアーヌの回路には、不利益を被ることへの「苛立ち」が逆流する。

 二人はあまりの不快感に顔を歪め、震える膝を必死に押さえていた。

 背後では、セバスとベルがそれぞれの主人の親の影に立ち、微動だにせず沈黙を守っている。だが、二人の従者の間でも、目に見えないマナの火花が、主人の誇りを懸けて激しく衝突していた。


「――いい加減にしろ、父上!!」

「パパも、お黙りなさいな!!」


 ついに耐えかねた二人が、同時に机を叩いて立ち上がった。

 その瞬間、アレンとリリアーヌのマナが、怒りに狂う親たちの圧力を跳ね除けるように、一つの強固な防壁となって室内に広がった。


「……僕たちの『繋がり』は、貴方たちが議論するような、家柄や金の問題ではないのだ……!」

「そうですわ! 私たちの感覚を、あんたたちの古い価値観で振り回さないでくださる!?」


 二人の「同期した憤り」が、一瞬で部屋の空気を支配した。

 呆気にとられる親たち。それまで沈黙していたセバスとベルが、ようやく一歩前へ出て、それぞれの主人を支えるように静かに頭を下げた。


「……旦那様。坊ちゃま方のマナは、既に我々の理解の及ばぬ領域で結ばれております」

「ええ、会長。……これ以上の介入は、商会にとっても『損失』となるでしょう」


 親たちは二人の気迫に押され、毒気を抜かれたように黙り込んだ。

 回路を通じて伝わってくるのは、親への怒りを共有したことで生じた、不本意ながらも強固な連帯感。

 二人は肩を並べ、騒がしい家門の衝突を、一つの「憤り」として乗り越えようとしていた。



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