【第六部:日常の極致と「背水の陣」の予感】前編
マグヌス祭という狂乱の幕が降り、学院には表向きの平穏が戻った。だが、アレンとリリアーヌにとっての「日常」とは、平穏の同義語ではない。
週明けの早朝。新設されたばかりの『学術特別奨励金』の公示を巡り、二人は掲示板の前で最悪の再会を果たした。
「……どけ、ゴールドベルク嬢。没落した我が家にとって、この奨励金は死活問題だ。成金の貴様が端金を求めて枠を埋めるな」
「あら、ヴォルザード様。投資効率を考えれば、将来性のある私にこそ権利がありますわ。あんたのような『歴史の残骸』に無駄金を投じるほど、学園も愚かではありませんわよ」
アレンの指先から、掲示板の周囲を物理的に固定する『伝統の斥力』が放たれる。それに対し、リリアーヌは黄金の指輪から、周囲の物体を強引に引き寄せる『最新の引力』を起動した。
相反する二つの力が、掲示板の石柱を支点に激突する。
その瞬間、契約の回路を通じて、互いの「執着」が不快なノイズとなって脳内を駆け巡った。
(……くっ、この女、またこんな強引なマナを……! 座標が、軸が歪む!)
(あんたのそのネチネチした固定魔法、私の邪魔をしないでくださる!? 吐き気がしますわ!)
互いの術式の反動が、共感覚を通じて直接「肉体的な苦痛」として跳ね返ってくる。アレンは内臓を絞られるような痛みに顔を歪め、リリアーヌは頭蓋を金槌で叩かれるような衝撃に呻いた。
「「――退けと言っている!!」」
二人が同時に吠え、最大出力を叩き込んだ。
精密な斥力と暴力的な引力が一点で爆発し、逃げ場を失ったエネルギーが掲示板を支える大理石の石柱へと向かう。
ミシミシ、という不吉な音の直後。
祭りのために新調されたばかりの巨大な石柱が、根元から無残にへし折れ、掲示板ごと地面に轟音を立てて崩れ落ちた。
「…………」
「…………」
土煙が舞う中、折れた石柱を挟んで二人は立ち尽くした。
周囲にいた一般生徒たちが、驚愕のあまり持っていた教科書を落とす。
「……また、やったな」
「……あんたが、意地を張るからですわよ」
契約の鎖を通じて伝わってくるのは、達成感ではない。次に学園長に呼び出された際、どのような罰が待っているかという「共通の絶望感」だった。
掲示板は粉砕され、奨励金の公示も紙屑となった。
アレンの空腹は加速し、リリアーヌの苛立ちは最高潮に達する。
祝祭が終わり、より一層「壊れやすく、鋭くなった日常」が、再び二人を飲み込み始めていた。
学院図書館の閲覧室。窓から差し込む午後の光は穏やかだが、アレンとリリアーヌが並んで座る長机の周囲だけは、極寒の結界が張られたような緊張感に包まれていた。
二人の間には、机の表面をナイフで刻んだかのような「境界線」が一本、引かれている。
「……一ミリでもこちらの領土に魔力を漏らすな。貴様の成金臭いマナは、僕の思考を汚染する」
「こちらの台詞ですわ。あんたのその、湿っぽい古書の匂いが契約を通じて私の脳にこびり付くんですの。消えてくださる?」
アレンは羽ペンを走らせ、境界線のギリギリまで精密な『遮断術式』を編み上げる。リリアーヌも負けじと、黄金の文鎮に魔力を込め、金貨の重圧を思わせる『物理障壁』を押し立てた。
かつては文字による筆談で罵り合っていた二人だが、共感覚が深まった今、言葉を交わすよりも「マナの圧力」で相手を不快にさせる方が手っ取り早くなっていた。
アレンが術式の密度を上げれば、リリアーヌの肌にチクチクとした不快な痛みが走る。リリアーヌが障壁の出力を強めれば、アレンの鼓動が不自然に加速し、呼吸が苦しくなる。
(……くっ、この女、また力任せに……。僕の領域を、金の力で侵略するつもりか!)
(あんたのそのネチネチした魔法、私のプライベートな空間を削り取らないでくださる!?)
互いの自尊心を懸けた押し合いは、次第に机の上の「静かな攻防」では収まらなくなった。
アレンがマナを『楔』のように打ち込み、リリアーヌの障壁を抉り取る。リリアーヌはそれを力ずくで押し返そうと、膨大な魔力を一点に集中させた。
ミシリ、と重厚な木材が悲鳴を上げた。
精密な『削り』と暴力的な『押し』。相反する力が一点に凝縮され、逃げ場を失った衝撃が机の芯を貫く。
――パァン!
乾いた破裂音と共に、数世代にわたって学生たちに愛用されてきた樫の木の長机が、境界線に沿って真っ二つに裂けた。
アレンの本とリリアーヌの魔導具が、左右に分かれた机と共に床へ滑り落ちる。
「…………」
「…………」
静まり返る図書室。
遠くで司書が立ち上がる気配がした。アレンとリリアーヌの脳内には、契約を通じて「逃げ場のない破滅の予感」が同時に駆け巡る。
「……ゴールドベルク嬢。貴様の、その……加減を知らぬ蛮勇のせいだ」
「あんたが……あんたが、一ミリも引かないからでしょう……。どうしますの、これ。弁償代、あんたの家の屋敷が建ちますわよ?」
机を壊した衝撃は、共感覚によって二人の指先に痺れを残していた。
破壊されたのは家具だけではない。二人の「知的なライバル」という体裁すら、今や物理的な瓦礫の中に埋もれつつあった。
二人は司書が怒鳴り込んでくる前に、磁石の反極のように反対方向へと逃げ出した。
それは、連日の「いがみ合い」と無理な特訓によって、二人の魔力回路が限界を迎えた朝のことだった。
一限目の講義室。席についた瞬間、アレンは猛烈な眩暈に襲われた。自分の体内を流れるマナの感覚が、不自然に「甘ったるく」変質していたからだ。
(……くっ、何だ。血の代わりに、砂糖菓子を流し込まれているような感覚は……)
原因は隣のリリアーヌだった。彼女が朝から最高級の栄養剤をガブ飲みした結果、その「過剰すぎるエネルギー」が契約の回路を逆流し、空腹のアレンの空っぽな回路を暴走させていたのだ。
アレンの目には、黒板の文字が金貨のようにキラキラと明滅して映る。
「……ヴォルザード様。あんた、そんなに青い顔をして……。私の方こそ、あんたの『苦くて渋いマナ』が逆流してきて、吐き気がしますわ……」
リリアーヌもまた、机に突っ伏していた。アレンの慢性的な魔力不足――「節約」という名の飢餓状態が彼女に伝わり、いくら食事をしても埋まらない空虚感と、氷のような冷たさが彼女の四肢を支配していた。
他者の魔力特性に、自らの神経が侵食される『魔力酔い』。
アレンはリリアーヌの「富の重圧」に酔い、リリアーヌはアレンの「貧の執念」に酔う。
「……ゴールドベルク、嬢……。貴様の、その……騒がしいマナを、止めろ。脳が……溶ける……」
「止められるなら、とっくに止めてますわ……。あんたのこの、……『一〇〇銅貨を惜しむドロドロした呪い』を、私の中から追い出しなさいな……っ」
二人は互いに縋るように、しかし嫌悪を露わにして相手の腕を掴んだ。
魔力の揺らぎを抑えるために、無意識のうちに互いのマナを循環させ、中和しようとしたのだ。だが、それは火に油を注ぐ結果となった。
「っ……あ……!」
「きゃ……っ!」
アレンの精密な制御がリリアーヌの熱量を加速させ、リリアーヌの熱量がアレンの術式を暴走させる。
講義室の窓ガラスが、二人の共鳴するマナに耐えきれず、不協和音を奏でて一斉にヒビ割れた。
「……二人とも、そこまでよ」
イザベラ先生が割って入った。彼女の手から放たれた沈静魔法が、二人の混濁したマナを無理やり引き剥がす。
アレンとリリアーヌは、糸の切れた人形のように同時に床へ崩れ落ちた。
「……重度の魔力拒絶反応ね。あんたたち、喧嘩のしすぎで自分と相手の境界線を見失っているわよ。……このままじゃ、心が混ざり合って廃人になるわよ?」
廃人。その言葉に、二人は朦朧とする意識の中で、同時に激しい嫌悪感を抱いた。
こいつと混ざるなど、死んでも御免だ。
だが、倒れ込んだ床の上で、二人の指先はまだ、お互いの魔力の残滓を求めて微かに震えていた。
学園の屋上へと続く重い扉を、アレンはひとり押し開けた。
魔力酔いの余韻が残る頭を冷やすため、人気のない場所を求めて辿り着いたそこには、先客がいた。
「……あら。あんたも、マナの混濁を鎮めに来たのかしら」
フェンスに背を預け、夕闇に沈む街を見下ろしていたリリアーヌが、力なく声をかけてきた。
二人の間には、いつもなら火花を散らすはずの罵声がない。
契約の回路を通じて、互いの「本音」が剥き出しになって伝わってくるからだ。アレンの胸に響くのは、実家の没落をひとりで背負う少年の、折れそうなほどの孤独。リリアーヌの肌を撫でるのは、金に囲まれながらも、誰も自分自身を見てくれないという少女の、凍てつくような寂寥。
「…………貴様が、これほどまでに脆いとはな、ゴールドベルク嬢」
「……うるさいわよ。あんたこそ、そのボロ制服の中に、どれだけ血を吐くような執念を隠していますの」
二人は一歩も近づかなかったが、契約の鎖が、互いの「見せたくない部分」を優しく、そして残酷に繋ぎ合わせていた。
一瞬、アレンが何かを言いかけた、その時。
扉の陰から、派閥の偵察者たちの微かなマナの揺らぎを感じ取った。
「――チッ。野次馬か」
「……無粋ですわね。見られてはいけないところを、見られたかしら」
二人の瞳から、一瞬で「素顔」が消えた。
「ゴールドベルク嬢! 貴様のその、救いようのない傲慢な顔など二度と見たくないと言ったはずだ!」
「こちらの台詞ですわ、ヴォルザード様! あんたのその貧乏臭いツラ、屋上の景色が汚れますわよ!」
二人は同時に魔法を起動した。
アレンの精密な斥力と、リリアーヌの暴力的な衝撃波。
だが、その狙いは互いではなく、背後のフェンス、そしてそこに潜んでいた偵察者たちに向けられた。
ドゴォォォンッ!
轟音と共に、学園の屋上の頑丈な鉄製フェンスが、数十メートルにわたって根元から吹き飛ばされた。偵察者たちは悲鳴を上げながら、魔法の余波で校舎の内側へと叩き落とされる。
「…………やりすぎたか」
「…………施設破壊の追加ですわね、これ」
破壊されたフェンスの先、遮るもののない夜景が広がっている。
二人は互いに背を向け、それぞれの従者が待つ場所へと別れた。
屋上の静寂は、破壊という名の「口封じ」によって守られたが、二人が共有してしまった一瞬の「弱さ」だけは、契約の回路に消えない澱として残された。
学園の廊下を、アレンとリリアーヌは互いの肩を支え合うようにして――実際には、契約による「魔力酔い」で互いの重心が狂い、不本意にぶつかり合いながら歩いていた。
そこへ、アレンの友人カイルが、鼻息も荒く立ちはだかった。その手には、泥水のように濁った液体が詰まった巨大な樽が握られている。
「アレン、リリアーヌさん! 二人のシンクロが乱れている原因は分かっているぞ。……『野生の闘争心』が足りないんだ!」
「……よせ、カイル。貴様のその『良かれと思って』は、常に僕を死の淵に……」
「黙ってこれを飲め! 俺が魔物森で仕留めた『暴れイノシシ』の骨を砕き、秘伝の野草と練り上げた、特製魔導プロテインだ!」
カイルは強引に、アレンとリリアーヌの口にその液体を流し込んだ。
その瞬間、二人の脳を突き抜けたのは、言葉を絶するほどの「獣臭さ」と、泥を煮詰めたような「苦み」、そして喉を焼くような「野草のえぐみ」の三重奏だった。
「っ……、ぶ、ぶはぁぁッ!?」
「ごふっ……げほっ、何ですの、この……死の味がしますわ……っ!」
一人が味わえば、もう一人には二倍の鮮烈さで伝わるのが、共感覚の契約の呪い。
アレンの喉を通る泥のような感触がリリアーヌの胃を掻き回し、リリアーヌの絶叫がアレンの鼓動を狂わせる。カイルの「親切」は、契約の回路を介して、史上最悪の味覚攻撃へと変貌を遂げた。
「おい、アレン! 顔色が土色だぞ! もっと飲むか?」
「……殺す……。カイル、貴様だけは……絶対に、許さん……」
アレンは口の周りを泥まみれにし、リリアーヌはあまりの臭気に鼻を押さえてその場に蹲った。
二人の「同調」は、カイルの特製ドリンクによって、かつてないほどの「拒絶反応」を引き起こす。
アレンが吐き気をもよおせば、リリアーヌも同じリズムで嘔吐き、リリアーヌが涙を流せば、アレンの視界も涙で歪む。
「……セバス。カイルを……今すぐ地平線の彼方へ飛ばせ。……そして、僕の味覚を……切り捨ててくれ……」
「おーっほっほ……。ベル……、私の……、私の口内から、この『野蛮な伝統の味』を、一滴残らず……消毒なさいな……っ!」
カイルは「お、二人とも同時に元気になったな!」と満足げに頷き、空になった樽を担いで去っていった。
後に残されたのは、かつてないほどの強固な「共通の恨み」を抱いた、憔悴しきった二人であった。




