おかえり
玄関のチャイムが鳴ったのは、午後四時を少し過ぎたころだった。
雅代は台所で、大根の皮をむいていた。
煮物にはまだ早い時間だったが、夕方になると手元が見えづらくなる。
先に済ませておこうと思っただけだった。
二度目のチャイムが鳴る。
宅配にしては間が長い。
近所の回覧板なら、勝手口から声をかけてくるはずだ。
手を拭き、エプロンの裾で指先の水気を取りながら、玄関へ向かった。
扉を開けた瞬間、そこに立っていた女を、誰だかわからなかった。
痩せていた。
年齢のわりに老けて見えるのは、頬がこけているせいか、目の下に深い影があるせいか。髪は肩口で切り揃えられていたが、素人が切ったように不揃いだった。
薄いグレーのコートは季節に合わず、袖口だけが擦り切れていた。
女は、雅代の顔をじっと見た。
責めるでもなく、
懐かしむでもなく、
確かめるような目だった。
「……お母さん?」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
その声だけが、古かった。
雅代は扉の縁に手をかけたまま、指先に力を入れた。
「どちらさま……」
言い終える前に、女は小さく笑った。
「そうなるよね」
笑ったとき、左の肩がわずかに上がった。
昔からそうだった。
透子は笑うときだけ、左肩が上がる。写真にも何枚か残っている。なぜだろうと何度も思った。本人に聞いたことは、一度もなかった。
雅代の口が開いたままになる。
「……透子?」
女は答えず、視線を足元へ落とした。玄関のたたきに脱ぎ散らかされていた和夫の革靴と、亮介のスニーカーが目に入る。
しゃがみ込み、二足をそろえ、端へ寄せた。
雅代の背中に冷たいものが走った。
透子は昔から、靴をそろえる子だった。
家の中がどれだけ荒れていても、自分の靴だけはきちんと揃えていた。
「入って、いい?」
その言い方も、責める色がなかった。
まるで、ここが自分の家ではないことを、最初から知っているように。
居間に通すと、透子は座布団の端に浅く腰かけた。
コートを脱いだ中のニットは毛玉だらけで、手首の骨が浮いて見えた。爪は短く切られ、指先だけ荒れていた。水仕事の手だった。
雅代は茶を淹れたが、湯呑みを持つ手が震えて、少しこぼした。
「連絡もなく……急に……」
「連絡先、知らなかったから」
それもそうだ、と雅代は思った。
二十年前に消えた娘の連絡先など、あるはずがない。
透子は湯呑みに手を添えたまま、飲まなかった。
「お父さんは?」
「仕事……もうすぐ帰るけど」
「亮介は」
「今日は休み。二階にいる」
透子は頷いた。
その頷き方まで、どこか見覚えがあるのに、雅代は認めるのが怖かった。
夕方、和夫が帰宅し、玄関先で大きな声を上げた。
「誰だ、おまえ」
雅代が慌てて出ると、透子は居間から立ち上がり、廊下の向こうにいた。
「……ただいま」
和夫の顔色が変わった。
「ふざけるな」
低い声だった。
「透子なわけがない」
亮介も階段を下りてきて、廊下の途中で足を止めた。
姉の記憶は、中学生の姿で止まっている。目の前の女と結びつかないのは当然だった。
「母さん、警察呼んだほうがいいんじゃないの」
雅代は何も言えなかった。
透子も言い返さなかった。
ただ一度、家族三人の顔を順番に見た。
その視線だけが、妙に落ち着いていた。
夕食は、妙な静けさの中で始まった。
透子は箸を持つと、誰より先に「いただきます」と言った。
味噌汁をひと口すすり、黙って七味を振った。
雅代の手が止まる。
透子は子どもの頃から、味噌汁にだけ七味を入れる癖があった。
家族で一人だけだった。
和夫が箸を置く。
「偶然だ」
誰に言うでもなく呟いた。
食後、誰もテレビをつけなかった。
透子は立ち上がり、居間の隅の棚へ向かった。
迷いなく、一番下の引き出しを開ける。
中から古いアルバムを取り出した。
雅代の喉が鳴る。
そこにしまったことを、誰にも話していない。
透子は座り直し、膝の上にアルバムを置く。
ページをめくる。
ぺり。
透明なフィルムの貼りつく音。
ぺり。
亮介がスマホをいじるふりをする。
和夫は新聞を開いたまま、一文字も読んでいない。
雅代だけが、透子の横顔を見ていた。
幼い透子。
運動会の透子。
誕生日の透子。
写真の中の娘は、いつも少し端にいた。
透子が、あるページで指を止めた。
家族四人で海へ行った日の写真だった。
父が笑い、母が帽子を押さえ、亮介が砂を撒いている。
透子だけ、少し泣いた顔で写っている。
「この日」
透子が言った。
「私、熱あったんだよね」
部屋の空気が、音をなくした。
雅代は覚えていた。
でも、行った。
和夫がせっかく休みを取ったから。
亮介が楽しみにしていたから。
透子ひとりくらい、車で寝かせておけばいいと思った。
覚えていた。
忘れたふりをしていただけだった。
透子はページを閉じ、アルバムを膝の上で撫でた。
「……私、ちゃんといたんだね」
誰も返事をしなかった。




