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香炉  作者: 伯修佳
七月某日 参
13/13

男の悪夢

話の後半で残酷(猟奇)描写が入ります。


苦手な方はご注意ください。

「こんな都合の付き方は甚だ不本意だがね。田川が言っていた、話とは一体何だ。忙しいから手短にしてもらおうか」

 苦虫を潰した表情はそのままに、取り出した手帳を元の懐に仕舞う。

「マアそう急く事もないじゃありませんか。府民の憂いを取り除くのが、旦那がたお役人の仕事でしょう──如何です?」

 津野坂は更に顔をしかめて、箱から一本突き出された煙草の前に手をかざした。

「俺は煙草は吸わん」

「きっと旦那のお役に立てるネタがあると思いますよ」と、その一本を自らに取り出して伊村は笑った。「なあ啓さん」

 驚いたのは啓之助である。

「伊村さん、あんたもしかして」

「どうした? 俺は何も知らないぜ。手紙を渡すんじゃなかったのかい」

「それはそうだが……」

 大仰に眉を上げる様子がどうも態とらしい。釈然としなかったが、啓之助はズボンのポケットから取り出した茶封筒を警部に手渡した。

「知人から預ったものです。差出人も中に書いてあります。読んでくださればわかると思いますので」

「……君は?」

「僕は結城啓之助と申しまして、此処の院長の甥に当たります。怪我の治療に滞在しておりました」

 津野坂は封筒をしげしげと眺めていたが、「わかった」と頷いて手帳とは別のポケットにそれを突っ込んだ。

 今開けられなくて良かったと、啓之助は胸を撫で下ろす。

「もしかしたら、こちらから後日連絡する場合があるかもしれない。君は暫くこの屋敷にいるのか?」

「は、はい。当分の間は」

「そうか。用事がそれだけなら、私はこれで失礼するよ」

「ああ、そう言わずに旦那。お茶でも飲んで、もう少しゆっくりなさっても罰は当たらないでしょう」

 やけに近寄って引き止める伊村を冷ややかに眺め、既に戸口に向かっていた津野坂は振り返る。

「都民日報の伊村ってのは、芸能記者だと聞いていたが。社会面に野心でもあるのかね」

「いやいや、田川の仕事を手伝おうかと思ったまでで。奴には借りがあるんでさ」

「ほほう。記者連中とは随分と義理がたいものだな」

「それにねえ、仮にも俺もこの病院の患者ですからね。何が起こったのかわからないまま入院するのも気味が悪いってもんじゃないですか? 強盗たたき殺人ころしなら、落ち落ち寝てもいられねえや」

 計った様に周囲から「そうじゃそうじゃ」と声が上がる。

「お、おい君達。止さないか」

 傍で聞いていた啓之助は慌てた。直に嫌な目にあったわけではないが、警察には深く関わらない方が身の為だ。何かあれば「公務執行妨害だ」などと騒がれるのが関の山ではないか。

 だが目の前の警官は冷静そのもので、相変わらず不機嫌そうだが特に態度が変わる気配はなかった。

「……どうという事でもない。入院患者が一人亡くなった、ただそれだけの話だ」

「じゃあ旦那はどうして出張って来たって言うんです?」

「話す必要はない」

 そりゃねえよ、と不平を鳴らす男を完全に黙殺して、津野坂は今度こそ病室から出て行った。

「ちっ。こりゃ院長によほど邪険にされたに違いないぜ」

 忌々しげに呟くと、不貞腐れた様に伊村はベッドに身を投げ出し何やらぶつぶつと思案している。

「真逆吾妻の息子じゃねえよな……社会部に持って行かれちゃ、おまんまの食い上げだぜ」

 囁きは吐き出される煙よりも幽かに、瞬く間に虚空に広がり消えていく。

 どういうわけかやけに耳に沁み込み不安をかき立てたが、賢明にも啓之助はテエブルにあった中村の梅干をつまみ食いする事で気を紛らしたのだった。


※※※※


 その日の結城邸の晩餐は、いつにも増して寒々しい雰囲気の中で行われた。

 普段なら翼や啓之助に何かしら──例えあまり愉快でもない内容にしても──話しかける清太郎はむっつりと黙り込んで何も言わず、時折話題を提供する事もある翼でさえも何処か物憂げにただ食事を進めるばかりだった。

──昼間の出来事が原因なのだろうか。

 亡くなった患者への興味は消えるどころかますます強くなっていくばかりだ。件の男は無事な様だし、今晩辺りでもまた様子を伺いに行ってみようと彼は密かに思った。

「私、勉強がありますのでお先に失礼します」

 薔子はいつもの如く食事が終わるとさっさと席を立ってしまった。その声音から、彼女がさも不機嫌である事がよくわかる。

 無理もない、と彼は多少の同情を以てその後姿を一瞥した。こんな食卓では、食べ物の味などわからないだろうと。

 自分がどこか他人事なのは、啓之助が清太郎の息子ではなく、この屋敷に縛り付けられていないからだ。傷が癒えたら、もしかしたら癒えなくともある程度の時期が来たら自分は此処を去る。叔父に対する果たすべき義務の何ものをも、親戚の礼儀以上に今は持ち合わせていない。

 考えてふと、彼は右側に座ってフォークを動かす当の清太郎が黙っている事に違和感を覚えた。

──いつもなら、文句の一つでも言っていたじゃないか。今日はどうしたんだ?

 あまり気に留めていなかったが、そう言えば顔色も心なしか冴えない。

「叔父さん、何処か具合でもお悪いのですか?」

 返事はすぐには返って来なかった。酷く億劫そうに清太郎は料理から視線を動かしたが、そんな事はない、と短く答えただけだった。

 翼が意味ありげに義父を見守っているのに気づき、啓之助が次いでそちらを見る。

──何だ?

 理解しがたい表情だった。最初は婿として部下として、清太郎を案じているのではないかと思ったが、そうではなく──もっと何か、責めているといった──温度の低いものを感じさせる。こんな表情を、何処かで誰かがしているのを見た事がある気もするが、思い出せない。

 翼は彼が見ていると気づくと、顔を戻して食事を再開した。さっきの表情は消えている。

──何か知っているのか。

 それはそうかもしれない。彼は娘婿である以上に、この若さで内科の部長を任されているのだ。叔父の関心は今も昔も病院経営にしかない。何かあるとすればそれは、病院に関わる事に違いなかった。

 とまで考えて、啓之助は自らの詮索を恥じて考えるのを止めた。

──これではまるで、伊村さんと同じではないか。

 彼は仕事だから兎も角として、平生記者なるものを軽蔑していた自分があれこれ嗅ぎ回るなど。さては毒されてしまったのかと、内心苦笑する。

 津野坂警部が帰った後も、あの伊村は啓之助が何かを知っていると勘付いた様子ではあったものの、特に情報を引き出そうとしたりはしなかった。中村老人が持っていたトランプでポーカーをしようと言い出し、ルールを知らない老人二人に教えるのが面倒だと結局ババ抜きになった──いつもと何ら変わらない午後。

 とは言え、自分が関わった事を途中で投げ出すのは良くないなどと言い聞かせ、第三病棟に行くのは止めない啓之助だった。

──十一時にはまだまだ時があるな。

 家人が寝静まる時間帯からしても、その頃が妥当と彼は仮眠を取るつもりでいた。

 客間から、穏やかなピアノの音が聞こえて来るまでは。

 瑞々しい音の連なりに誘われて客間に近寄るが、奥にあるグランドピアノを弾いているのが麻耶だとわかると通り過ぎて少し離れた場所に立ち止まった。

──モーツァルト、だったかな。

 ピアノソナタの、何番だったか。音楽はどうも記憶が働かない彼に、従妹が何度も曲名を教えてくれたのにやっぱり覚えていない。評論家だか愛好家だか知らないが、タイトルに番号なんか付けるから不可いけないんだ、とその度に嘯いたものである。彼女が好んでよく弾く曲だというのだけはわかった。

 ショパンやラフマニノフは難しくて、と麻耶は言うが、これだけ弾ければ充分じゃないかと思った。

 立ち去りがたくてついそのまま聴いていると、玄関ホールから人の話し声が聞こえて来る。

「……英文学者や学校の先生も興味深いのだけど、私はこれからの婦女子も国際情勢に明るくなくてはならないと思うんです。今いる中等部ではそういった事にはあまり触れないし。女性の外交官ってどうしていないのかしらって。所謂フェミニストと呼ばれる方々に賛同するわけではないけれども、これだけ各界に女性が進出しているのですもの。そろそろ出ても可笑しくはないのではありませんか? 先生はどうお思いになって」

 明朗快活そのものの、歯切れの良い自信に満ちた話し声。薔子だとすぐにわかった。会話の相手が翼だという事も。

 二人はまるで仲の良い兄妹の様に寄り添って、こちらに向かい歩いてくる。

「女子英学塾は確かに語学に堪能になるには最適な女学校だと思いますね。ただ、外交官となると中々難しいと聞いています。薔子さんの成績なら初進出を狙えるかもしれませんが」

「本当? 嬉しい! これも先生に勉強を教えていただいたお陰です」

 この館に来て初めて、啓之助は薔子の娘らしい弾んだ声を聞いたと思った。

「しかし薔子さん、医学の道を志すのでは駄目なのですか? お義父さんも喜ばれるでしょう」

「前にも言った通り、家を手伝う気はありませんの。──それは先生を見ていると、お医者様も悪くはないとは思いますわ」

 尚も何かを言おうとしかけた翼だったが、廊下の向こうに啓之助の姿を見つけると、すぐに客間に向かって歩いていった。振り返りざま、

「もし気が変わったらいつでも言ってください。医学校でしたら勉強面でも力になれると思いますので」

 言い置くと中に入っていってしまった。他者を拒絶するかの如く閉められた扉の前で、薔子はしばらく唇を噛み締めて立っていたが、啓之助の姿を認めるとくるりと背を向けて足早に遠ざかる。厨房から盆を掲げ持ってきた房枝とぶつかりそうになり、仰天させていた。

「お嬢様? 客間で紅茶を召し上がるのではなかったのですか?」

「要らないわ!」

「どうなさったのですか」

 薔子の声は震えていた。

「長女というのは気楽なものね! 何も出来ないからきっと悩む事も少ないんだわ」

「お嬢様、その様な仰りようは不可ません。若奥様は元々お体が弱いのですから」

 房枝の言葉を無視して、彼女は乙女らしからぬ荒々しい足取りで階段を駆け上っていった。

──やれやれ。

 年頃の娘にありがちな人間関係だな、と彼は溜息をついた。それこそ中村がいつも熱く語る映画の内容に似ている。完全無欠のお兄様、は翼の方だ。

 鳴り止まないピアノの音に後ろ髪を引かれる思いを振り切って、今度こそ彼は階段に足を向けた。勿論反対の書斎側に、だったが。


※※※※


 手紙を渡したと言ったにも関わらず、件の患者は啓之助を信用しようとしなかった。否、信用するしないの以前に本当に狂人なのではないかと思わせるほどの狼狽ぶりだった。

「もう駄目だ、僕もその内に殺される! あの気違いがいなくなった今、奴が僕を生かしておく必要なんてない……!」

 助けてくれと鉄格子に縋って、涙で顔を汚す男を宥めるのは大層骨が折れた。

「シッ、静かにしてくれよ。……助けたいのは山々だが、だったら此処に閉じ込められている理由を教えて欲しいね。『見てはならないもの』とは一体なんだったのだ?」

「そ、それは」

「言えないというなら助けようがないな。君を此処から出すには、狂っていないという証明が必要だ。原因もわからずに証明なんて出来ないよ」

 男は血走った目を所在なく辺りに彷徨わせ、暫くの間答えなかった。

「じゃあ、僕の役目ももう終わったみたいだし」

 啓之助は傍らに置いてあったランタンを取り上げる。勿論演技だった。

「ま、待て!」

「話す気になったかい」

 それでも男は悲しげに眉をひそめて躊躇っている。

「……奴は鬼畜生だった。だから此処に入れられていたんだ」

「奴?」

「こないだ死んだ、三〇五号室の患者だよ。警察が来たとわかった時、すぐに思った」

 男の言葉に隣の角部屋を見る。元から灯りのない病棟ではあるが、それこそ亡霊でも見そうな黒い窓に慄然とした。

「──きっと院長に始末されたのだと。自業自得だ。あいつはこの世に生きていてはいけない人間だった」

 不気味さを助長させる、低くかすれた声。

「お、おい」

「五年前の事だった」

 当時自分は新米の外科助手だったと、男は語った。

 雨の酷い晩だったという。当直で詰めていた彼の元に、女性の患者が緊急で運び込まれて来た。どうやら川で溺れたらしく、水を吐かせたもののかなり衰弱して意識は混濁していた為に、処置室から病室に運ぶ準備をする事となった。しかし人手の少ない深夜の話、看護婦を一人付き添いにして男──稲垣と言う苗字らしい──は病棟に向かった。廊下を駆けていた途中、また別の患者が運び込まれたのを見たという。今日は溺水患者が多いな、とだけ思った。

 その日に限って一般の女子病棟はベッドに空きがなく、一時的に特別病棟に置くかどうかで長い時間揉めてしまった。榎本部長を呼び出すか、屋敷の院長にお伺いを立てなくてはならないだの何だの。先輩医師の一人が意を決して屋敷に連絡を取り、特別病棟に運ぶ許可が出たのは何と、運ばれてから一時間も後の話だった。

 今思えば、と稲垣は苦悶に顔を歪めた。

「娘さんの身形は明らかに労働者階級のものだった。院長は処置室に来て様子を見ていたにも関わらず、許可が下りたのは訝しいと思うべきだったんだ」

 けれども当時は疑わなかった。恐らく誰もが思ったであろう、温情ある英断だと尊敬の念を抱いたのだと語った。数分後体温の快復を確認する為に、看護婦の一人と共に病室に訪れるまでは。

 何がどうなったのか、最初稲垣には理解出来なかったという。

 不快極まりない音が聞こえて彼が我に返った時、辺りは一面の血の海だった。彼を現実に戻してくれたのは、隣にいた看護婦の口からほとばしる恐怖の絶叫だったらしい。

「……地獄絵図というのは……ああいうのを言うんだろう……」

 皮膚を掻き毟りそうに落ち着きなく手を這わせて、彼は悶える。

 ベッドの上に横たわる娘の上には、男が馬乗りになって前かがみに頭を垂れていたと言う。暗闇の中、雨に濡れたのか髪からも服からも水滴が滴り落ちていて、でも稲垣達はサイドテエブルに近寄って電灯を点けるどころではなかった。

 看護婦が持っていた非常灯の薄い明かりだけで、男が濡れていたのはほとんどが、おびただしい返り血のせいだとわかったから。

 同じく朱に染まった寝台の手前に、手術用のメスがやはり血まみれで転がっていたのを覚えている。娘の胸元にぱっくりと大きな裂け目が開いていて、『其処にあるべきもの』がなく、中身が千切れて外にはみ出していた事も。

「……赤い……ぬらりとした角みたいなものが、少しだけ裂け目から覗いていた。捻じ曲げられた肋骨だと、その時は気づく余裕もなかった」

 男の顔は注視出来なかった、と稲垣は新たに涙を零す。見たら自分まで殺されてしまう、そう思い逃げる事しか頭になかったと。だが。

「こっちを見たんだ、そいつが」

 闖入者は顎を動かして、何かを食べている様だった。──ぶちぶちと、執拗にものを噛み砕く音がした。暗闇にただ白い両眼だけが、獰猛な二つの光となって浮き上がっていた。

「何を食べているのか、考える必要はなかった」

 恐怖に理性のたがねが外れ、稲垣は再び我を忘れた。

 気を失ってしまった看護婦を顧みる余裕もなく、腰を抜かした状態のまま、両手の力を使って病室から逃げ出そうとした。しかし、背後からやって来た人物に捕まって、彼はそのまま連れ去られてしまったのだった。入れ違いに屈強そうな男達が数人、病室の中に入っていった。

「……院長だったよ」

 連れて行かれたのは院長室だった。榎本医師ともう一人、見覚えのない壮年の男がいた。

 職員として病院に勤務してまだ七ヶ月。決して笑顔など見せない上司ではあったが、この時ほど険しく恐ろしい表情をした事はなかった。

「僕と、一緒にいた看護婦の胸倉を掴みあげて奴は凄んだんだ」

──この事を誰かに口外したら、病院勤務どころか一生働けない身体にしてやる。

「僕は誰にも言わなかった!!」

 不意に稲垣は激して鉄格子を指が白くなる程に強く握り締め揺すった。啓之助は慌てて口に指を当てる。

「し、静かにしないか。落ち着いて」

「なのにあいつは、院長どもは……! 看護婦が逃げて刑事が来たからって、僕まで疑って此処に閉じ込めたんだ! 死んだ奴が鬼なら奴らは悪魔だ!!」

 余りの衝撃に返す言葉を失って、啓之助は呆然と窓の外に立ち尽くしていた。

 ──看護婦が逃げて。

 ──刑事が来た。

「もしかして、その時の刑事っていうのは──」

 いつの間にか両手で自らの顔を覆って俯きながら、男はああ、と呻いた。

「君に伝言した人だよ。……津野坂さんは、五年前にも此処にやって来て捜査を担当した刑事さんなんだ。真逆こんな形で再会するとは思わなかった……」

脚注:女子英学塾→現在の東京都千代田区にある津田塾大学の前身。当時は麹町区一番町という地名だった。

モーツァルトのピアノソナタ:第11番イ短調K.331のAndante graziosoを弾いています。文章で雰囲気が伝われば幸いです。

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