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女神のうっかり落とした涙一粒のせいで、あの帝国全体が「脳内多幸感物質の過剰分泌病」に侵されていたなんて。
「はた迷惑」という言葉すら生温かい。私の今までの葛藤、友人たちのバカップルぶりに抱いていた苛立ち、そして一人取り残されたような激しい孤独感——それらすべてが、天界の女神の生理現象に起因していたのだ。
あまりの脱力感と怒りに私がワナワナと震えていると、目の前に鎮座する巨大な光の蛾——モルフォニエルは、二本の美しい触角をふわりと揺らした。その頭部(と思われる部分)から、どこか楽しげな、悪戯が成功した子供のような声が頭の中に響いてくる。
『まあ、そう腹を立てないでおくれよ、アウレリア。だがね……だからこそ、私は君に強い興味を抱いたのだよ』
「……なんですって?」
呆れ果てていた私は、思わず眉をひそめた。
「興味って……私に?」
『そうさ』
モルフォニエルがそう呟いた瞬間だった。
「きゃっ!?」
唐突に、私の体がふわりと浮き上がった。
足が黒い大理石の床から離れ、まるで重力が消失したかのように、体がゆっくりと空中に持ち上げられていく。姿こそ見えないが、目に見えない優しく温かな「手」のような力——魔法に包み込まれているのだ。
「ちょ、ちょっと!? 何をするのよ、いきなり! 降ろしなさいよ!」
空中でバタバタと脚を泳がせながら抵抗する私を無視して、モルフォニエルは私の体をぐんぐんと自分の顔——あの家一軒分もある巨大な白い蛾の顔面近くへと引き寄せた。
目の前に、巨大なふさふさとした純白の毛並みと、深く澄み渡るような神秘的な漆黒の瞳が迫る。そこから放たれるのは、恐ろしさではなく、息を呑むほど幻想的な神聖さだった。
『暴れないでおくれ。落としたりしないからね』
「落とす落とさないの問題じゃないわよ! 説明しなさいって言ってるの! なんでいきなり持ち上げるのよ!」
『君に説明するためさ。距離が近い方が、話が届きやすいだろう?』
どこまでもマイペースな元天使に、私は空中で地足掻きするのを諦め、半ば投げやりな姿勢で空中に浮かんだ。
モルフォニエルは私を見つめるような仕草をしながら、静かに言葉を続けた。
『先も言った通り、あの帝国はシャラゼリスの涙によって、精神そのものが愛の過剰反応を起こすように歪んでいる。そこに生きる人間は、遅かれ早かれ特定の他者に異常なまでの執着と愛を抱くように運命づけられているんだ。……だが、君は違った』
彼の声は、いつの間にかいつもの冷徹な「ルキウス」のトーンから、どこか優しく、甘い響きを帯び始めていた。
『君の魂は、シャラゼリスの強力な祝福を、見事に弾き返していた。帝国中の男も女も全員が脳内物質の過剰分泌で狂っている中で、君だけが一人、まともな理性と自意識を保ち、周囲の異常さに毒づいていた。……シャラゼリスの涙の影響を受けない魂を持った人間なんて、地上を探してもそうそういるものではない。私は最初、その異質さに興味を持った。単に「興味深いサンプル」として、君の観察を始めたのさ』
「……最初はいつも通りサンプルだったわけね。知ってたわよ。貴方が冷血な学者気取りだったのは」
私がツンと顔を背けると、モルフォニエルはくすくすと頭の中で笑った。
『ああ、最初はね。だがアウレリア。君という存在は、私の予想を遥かに超えて魅力的な人間だったんだ』
「というと……?」
『「愛人を作ってもいいか」という、君は諦めるどころか、本気で愛人を探そうと街へ繰り出していっただろう? 分度器で生クリームの角度を測る騎士や、ジュースをこぼした令嬢に即落ちする男、さらには抜け毛に名前をつける異国の変態にまで遭遇して、本気で怒り、落ち込み、それでも挫けずに私に挑みかかってきた』
「う……うぐっ……! 思い出させないでよ……!」
モルフォニエルは愛おしそうに触角を揺らした。
『君は私という「冷血な婚約者」を理解しようと努力し、過去の記録を調べ上げ、私の不可解な行動の真相を突き止めるために、先祖伝来の秘宝まで引っ張り出してきた。……一ヶ月間も不可視化の術を使って、私の後を追い回すストーカーになっていたね』
「ストーカーって言わないでよ!! 私は公務として……! 円満な結婚生活のための相互理解の一環として……っ!」
『どっちでも同じようなものさ。そして極めつけは』
モルフォニエルは、広大な大殿堂と、窓の外に吹き荒れる吹雪の氷結空間を視線で示してみせた。
『人間なら誰もが恐怖で逃げ出すような不気味な絵画の歪み(ゲート)を潜り抜け、あまつさえ「地獄」にまで私を追いかけてきた。……あそこまでの怪奇現象と寒さを突きつけられながら、腰を抜かしつつも逃げ出さず、私の前に立ち塞がって「ルキウスなの?」と立ち上がって問いかけてきたんだ。……こんなにも健気で、勇敢で、愚かなほどに一途で愛おしい人間に、私が惹かれないとでも思ったかい?』
「な……っ!?」
空中に浮いたまま、私は言葉を失った。
彼の語る言葉の重みと、そこに込められた感情の密度。
冷酷で、理屈っぽくて、私のことなど「扱いづらい婚約者」としてしか見ていなかったはずの男が、私の泥臭い悪戦苦闘のすべてを、そんな風に見ていたなんて。
『私はね、アウレリア。君という人間そのものに……完全に魅了されてしまったのだよ』
モルフォニエルの漆黒の瞳が、柔らかい真珠色の光を帯びて私を射抜く。
『君のことが、好きだよ。アウレリア』
——ドクン。
胸の中で、何かが激しく弾ける音がした。
「……っ!?」
耳まで真っ赤になるのが自分でも分かった。顔から火が出そうなくらい熱い。全身の血液が急激に頭へと沸き登っていく。
頭の中に直接響いた、そのストレートで誤魔化しのない告白。
夢にまで見ていた言葉。
周囲のバカップルたちが毎日のように交わし合っていて、私だけが一生言われることはないのだと半ば諦めていた、「私という個人」に向けられた、完璧で情熱的な愛の言葉。
(な、なになになにこれぇぇぇぇぇっ!?)
私の脳内が大パニックを引き起こした。
照れくささと、困惑と、そして胸の奥から湧き上がってくる圧倒的な嬉しさが混ざり合い、感情の処理が追いに追いつかない。
「な、何を言ってるのよ急に!? バ、バカじゃないの!? 変人! 元天使の建築おたく!」
支離滅裂な暴言を吐き散らかす私に対し、モルフォニエルは優しく笑うと、魔法で浮いていた私の体を、そっと自分の「顔(頬)」へと引き寄せた。
「ひゃっ!?」
私の体は、彼の触角の根元にある、あまりにも巨大でふんわりとした白い毛並みの中へと埋もれるように密着させられた。
「ちょっと! 離しなさいよ! 何するのよ!」
私は慌てて手足を動かし、押し付けられた彼の頬から逃れようと少しだけ抵抗した。……だが、次の瞬間、私は抵抗する手をピタリと止めてしまった。
(……え?)
温かい。
そして……恐ろしいほどに、モフモフしている。




