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記憶の檻

ヴァルノアを発って二日目の朝、陽はまだ東の山影から半分しか顔を出していなかった。宿場町を出てから、北東に延びる交易路を二人は無言のまま進んでいた。

 このあたりの街道は整備こそされているものの、人影は少なく、道沿いには低木がまばらに点在するだけだ。空気は乾き、時折吹く風が頬をなでるたび、どこか金属を焦がしたような匂いが混じる。ベンはその匂いを鼻の奥で感じ取るたび、胸の奥に得体の知れぬざわつきを覚えた。


 昼を少し過ぎた頃、シルヴィアが前方に視線を凝らし、足を止めた。

「……あれを見て。」

 彼女の声は低く、しかし抑えきれない緊張が滲んでいた。


 丘の頂まで歩き、二人は眼下の光景に息を呑む。

 そこには、草も花も存在しない、黒く焦げた大地が広がっていた。まるで地表が焼き払われたように、地面は波打つように隆起し、亀裂が蜘蛛の巣のように走っている。亀裂の間からは乾いた白い粉がのぞき、それが陽光を受けて鈍く光っていた。

 風が吹き抜けると、その粉が微かに舞い上がり、目に見えぬ膜となって二人の視界を覆う。鼻腔に焦げ臭さと鉄の匂いが入り混じり、喉の奥がひりついた。


 その中心に――黒い門があった。

 高さは人の倍ほど、半ば土砂に埋もれ、傾きながらも圧倒的な存在感を放っている。形は単純な矩形だが、素材は石でも鉄でもない。鈍い光沢を持つ滑らかな表面は、陽光を反射しすぎず、むしろ闇そのものを吸い込むようだった。


 ベンは無意識に足を進めていた。

 門の表面に指先が触れた瞬間、ぞわりと鳥肌が立つ。炎天下にもかかわらず、氷を握ったような冷たさが皮膚から骨まで伝わり、背筋を駆け上がる。

「……これは……」

 息が漏れる。言葉にならない。

 シルヴィアは門の縁に刻まれた奇妙な文様に目を留めた。曲線と曲線が幾重にも絡み合い、まるで生き物のように流れる線は、この世界の文字とは明らかに異質だった。


 ベンはその文字を凝視するうち、こめかみに鈍い痛みを覚えた。視界の端が揺らぎ、耳の奥で低い唸りが響く。そして――意味が、脳裏に直接流れ込んできた。


 DANGER — RADIATION AREA. ENTRY FORBIDDEN.


「危険……放射区域……立入禁止……?」

 口が勝手に動き、知らぬはずの言葉が漏れた。

 シルヴィアが眉をひそめる。

「今……何語で言いました?」

「……いや、なんでもねぇ。」

 ベンは視線を逸らしたが、心臓の鼓動は速くなっていた。これは単なる遺構ではない――理屈ではなく、肌でそう感じた。


 その時、背後から砂利を踏む音がした。

 振り向くと、背を曲げた老人が杖をつき、ゆっくりと近づいてくる。

 老人の衣は色褪せてはいるが、胸元には円と直線を組み合わせた奇妙な金属の飾りが光っていた。ベンは無意識にそれを目で追った。

「旅の方々、その門には近づかんほうがいい。」

 老人の声はかすれていたが、妙な響きがあった。

「あの向こうには……“光の嵐”が眠っておる。」


 ベンは眉をひそめる。

「光の……嵐?」

 老人はしばし沈黙し、遠くを見るように門を見つめた。

「かつて、空から落ちてきた破滅のかけらだ。人も獣も草も、すべて光の中で溶け、骨すら残らん。だが、それは消えず、今もあの向こうで息をしておる。」


 風が吹き、老人の外套が揺れる。その瞬間、胸元の飾りが光り、シルヴィアが小さく息を呑んだ。

 老人は門に視線を戻し、唇を動かす。声は聞こえないが、その動きは祈りではなかった。指が空中で印を結び、それは儀式の一部のようだった。

「……我らの務めは、封を保つこと。開く者があれば、その者は光と共に消えるだろう。」


 そう言い残すと、老人は背を向け、荒地の向こうへと消えていった。

 残された静寂の中、シルヴィアが低く呟く。

「……今の紋章、見ましたか?」

「ああ。教会で見た印に似てたな。」

 二人の間に、説明できない不安が漂った。


 天空の城の会議室は、城内でも最も外気に近い位置にあった。

 長方形の広間の片側はすべて大窓で、その向こうに広がるのは無限に続く雲海。朝と昼と夜、その表情を変えながら果てしなくうねり、風に乗って静かに流れていく。

 今は夕刻。薄い橙色の光が雲を金色に染め、その照り返しが会議室の白い石壁に淡く映っていた。

 だが、室内の空気はその美しさとは裏腹に重く、張り詰めていた。


 長机の片端にはパウルが立っていた。

 長身を背筋までまっすぐに伸ばし、両腕を組んで窓の外を見つめている。

 その姿は、見ようによっては落ち着き払っているようにも見えたが、目の奥では何かを計算する光が静かに明滅していた。


 対する反対側にはナナ。

 その背後には十数人の子供たちが固まって立っていた。年齢はさまざま――まだ幼い者から、もう成人に近い者まで――だが、誰もが怯えた瞳で二人のやり取りを注視している。

 ここへ来るまでに見た惨状の記憶が、彼らの表情から笑みを奪い去っていた。ナナはその視線から逃げず、ただ庇うように両腕を広げて立っていた。


「……地上に戻すつもりなのか?」

 沈黙を破ったのはパウルだった。

 その声は低く、温度を感じさせない。まるで机上の駒の配置を問うかのような調子だった。


 ナナは一瞬ためらった後、まっすぐに答えた。

「はい。この子たちには帰る場所が必要です。家族がいるかもしれない。もし無事なら……会わせてあげたい。」


 パウルはゆっくりと振り返る。

 その瞳に、微かな嘲りが宿っていた。

「“もし無事なら”、だと? 地上はもう安全じゃない。お前もあの夜を見ただろう。」


 ナナの脳裏に、あの日の光景が蘇った。

 燃え落ちる屋根。炎に照らされた街路。耳をつんざく悲鳴と、血と煤の匂い。

 抱えた幼子の軽すぎる体温。

 それでも彼女は唇を噛み、目を逸らさずに言った。


「……それでも。ここは、この子たちの居場所じゃない。空の上で一生を過ごすなんて、普通じゃない。」


「普通……」パウルは低く笑った。その笑みには皮肉と、わずかな悲哀が混じっていた。

「この世界に“普通”など存在しない。もしあったなら、この子たちは最初からこんな目に遭っていない。」


 窓の外、雲間から冷たい風が吹き込み、室内の燭火が揺れた。

 影が壁を這い、パウルの横顔を一瞬だけ鋭く見せた。


 パウルは机を迂回し、子供たちの前に立つ。

 その視線は一人ひとりの瞳を確かめるように巡った。

「……あの夜の光景を、この子たちが一生忘れられないまま地上に戻したら、どうなると思う?」


 ナナは答えられなかった。

 怯えと喪失を抱えたままの子供が辿る道――それがどれほど脆く危ういか、彼女も理解していた。

 だが、それは――


「……記憶を改ざんする。」

 パウルの言葉は淡々としていたが、その奥には硬い決意があった。


 ナナは息を呑む。

「そんなこと……できるの?」


「できる。」パウルの声は即答だった。

「恐怖と絶望を消し、代わりに穏やかな日常の記憶を植え付ける。地上で生きられるように。」


 その言葉はあまりに冷たく、しかし同時に残酷なほど優しさを孕んでいた。

 ナナは躊躇した。そんなことをして良いのか――いや、してしまうべきなのか。


 彼女はふと、パウルの目の奥に深い影を見た。

「あなた……誰かを……失ったことがあるの?」


 パウルの表情が一瞬だけ硬くなった。

 視線を逸らし、短く答える。

「……守れなかった。まだ、あの頃は力も覚悟も足りなかった。」


 沈黙が落ちた。

 やがてナナは、小さく、しかし確かに頷いた。

「……お願いします。」


 パウルは右手を掲げ、古代語を低く紡ぎ始めた。

 掌から淡い蒼光が溢れ、波紋のように広がって子供たちの額を優しく包む。

 光が触れるたび、硬く強張っていた表情が和らぎ、怯えが薄れていく。

 代わりに、穏やかな村で過ごす夢のような記憶が静かに流れ込んでいった。


灰色の雲が垂れ込める朝、あの夜の惨状を思わせる廃墟の外れに、一台の馬車が停まっていた。

 四頭立ての黒馬が、冷たい息を白く吐きながら蹄を鳴らす。車体は厚い板で覆われ、外側には魔除けの符が幾重にも貼られていた。


 ナナは馬車の入口に立ち、震える子供たちを一人ずつ乗せていった。

 天使たちが降り立ち、この子らを天へ連れ去った夜の記憶は、もう彼らの中から消えている。

 パウルが施した記憶改ざんが、恐怖と混乱を静かに封じていた。

 代わりに――「どこか遠くの安全な町に疎開する」という、穏やかで無害な記憶が埋め込まれている。


 その様子を、少し離れた瓦礫の影からリエラは眺めていた。

 彼女は黒い外套に身を包み、風の中でも一切揺れない冷たい眼差しを保っている。

 任務は子供たちの護送ではない。特別作戦統括官ヤミノミコタマ直々の命令――「避難民の搬送経路を監視し、受け入れ先の様子を記録せよ」。

 形式上の依頼主はパウルだが、報告はすべてヤミノミコタマに直送されることになっていた。


 ナナの表情には迷いがなかった。送り出すことへの葛藤は、すでに覚悟の奥に沈んでいるのだろう。

 子供たちは全員、無言で馬車の奥に吸い込まれていく。だがその瞳に怯えの色はない――恐怖を忘れさせられた者特有の、どこか夢の中のような穏やかさが漂っていた。


 御者が軽く手綱を鳴らすと、黒馬たちが一斉に首を振り、蹄鉄が凍った地面を叩く乾いた音が響く。

 リエラは瓦礫の影から馬車の最後尾へと移動し、無言でその後を追った。

 監視対象は護衛の兵もつかない。町に向かう一本道を、ただ淡々と進んでいくだけだ。


 山道を抜けると、やがて灰色の空の下に、雪を頂いた尖塔が見えてきた。

 斜面に広がる家々の中央に、白い石造りの教会がそびえている。

 尖塔の上部に施された円と直線の組み合わせの装飾が、リエラの視界をかすめた瞬間、脳裏に小さな棘のような違和感が刺さった。

 ――どこかで見たことがある。

 しかし、その記憶の引き出しは固く閉ざされたままだ。


 馬車は町の石畳を進み、教会前の広場で止まった。

 扉が開き、年配の神父がゆったりと現れる。

 白い法衣、柔らかな笑み、しかし瞳は鋭く、獲物を値踏みするように一人ひとりの子供へと視線を流していく。


 「避難民の子供たちを受け入れる準備はできております」

 声音は温和だが、その抑揚の奥には妙な均質さがあった。まるで感情を計算で再現しているかのような。


 御者が名簿を差し出すと、神父はそれを受け取り、袖口から銀の腕輪が覗いた。

 そこには、尖塔で見たのと同じ意匠が刻まれている。偶然か、必然か。

 リエラは表情を変えず、ただ心の奥でその一致を記録した。


 子供たちは神父に導かれ、教会の扉の向こうへ消えていく。

 香炉の煙が漂い、鉄と焦げの匂いが鼻先をかすめた。

 リエラはその匂いを、視線の奥底に留める。


 ――記録は終わりではない。

 報告するべきなのは、この町の空気の温度、その匂い、そして目に見えぬ流れのすべてだ。


 神父と子供たちが教会の奥へ消えていったあと、リエラは広場の片隅に身を潜めたまま、周囲の様子を静かに観察した。

 町の人々は一瞥をくれるだけで、誰も馬車や子供たちの行く末に関心を寄せていない。

 それは、無関心というより――慣れ切った日常の一部として受け入れている態度だった。


 教会の扉が再び開き、神父が一瞬だけ外に視線を走らせた。

 その瞳がリエラの潜む路地の影をかすめたように見え、背中の筋肉がわずかに緊張する。

 だが、神父は何も言わず扉を閉ざし、再び静寂が戻った。


 リエラは馬車が再び動き出すのを確認すると、尾行を解いた。

 目的は護送の完了と受け入れ先の状況確認――それ以上の介入は命令されていない。


 町を離れ、山道に入ったところでリエラは外套の内側から黒い水晶片を取り出す。

 掌に乗せると淡い光が灯り、水晶の中に波紋のような揺らぎが広がった。


 『……報告を』

 低く落ち着いた女の声が、直接頭の中に響いた。


 「リエラです。任務対象、全員無事に受け入れ先へ到着しました」

 『受け入れ先の施設は?』

 「町中央の教会です。尖塔に特異な意匠、円と直線を組み合わせた紋章が確認されました」


 短い沈黙。水晶越しに、相手が何かを考えている気配が伝わる。

 『……他には?』

 「迎え入れた神父は穏やかな態度でしたが、子供たちを一瞥した際、その目が――選別する者のように鋭く光りました」

 リエラは少し言葉を選びながら続ける。

 「また、礼拝堂の香炉から、通常の香とは異なる、焦げた鉄のような匂いが漂っていました」


 水晶の光がわずかに強まる。

 『了解。詳細は帰還後に聞く。引き続き現地の動きを監視せよ』

 「……承知しました」


 光が消え、水晶はただの黒い石片に戻る。

 リエラはそれを外套の内側に仕舞い、雲の垂れ込める空を一瞥した。

 この任務の本当の意味を知るのは、まだ先になる――それは彼女自身も、感じ取っていた。


その頃、白尖塔の教会の奥――礼拝堂の祭壇裏。

 古びた木製パネルを、老いた手がゆっくりと押し開けた。軋む音とともに、冷え切った空気が流れ出す。湿った匂いが鼻をかすめ、奥へと続く石造りの螺旋階段が闇の中に口を開けていた。


 階段は長く、何十年もかけて染み込んだ水分が壁面を光らせている。踏みしめるごとに足裏へ冷たさが伝わり、遠くから聞こえる水滴の音が、下方の暗闇をさらに深く感じさせた。


 やがて階段は途切れ、天井の低い石造りの広間に出る。

 壁一面に無数の燭台が並び、赤い炎がゆらめきながら黒石の壁面に歪んだ影を刻む。中央の床には円形の文様――幾重にも重なり合う円と直線が絡み合った、異様な紋章が刻まれていた。その溝には銀色の粉が丁寧に埋め込まれ、燭火を受けて生き物のように呼吸するかのように明滅している。


 広間の奥には黒衣を纏った神父が立っていた。昼間、子供たちを迎え入れたときの穏やかな笑みは欠片もなく、代わりに、氷のように冷ややかな光が瞳の奥で輝いている。

 その前にひざまずくのはフードを深くかぶった老人。胸元で揺れる金属飾りは、黒い門の前でベンたちが目にした、円と直線を組み合わせた奇怪な紋章と同じだった。


「……子らはすべて運び込まれたか」

 神父の声は低く、広間の石壁に鈍く反響する。


「はい。外部からの介入はありませんでした」

 老人が静かに答える。


 神父は頷き、祭壇脇に置かれた古びた書物を開く。

 羊皮紙には、黄金の仮面を戴く者の姿と、その周囲に放射状の光――いや、破壊の波が描かれていた。


「……王は目覚めを急がれている」

 神父は視線を上げ、老人を射抜くように見据える。

「準備は整いつつある。あの方の御意志に背くことは許されぬ」


「しかし……光の嵐が再び解き放たれれば、この地は――」

「それが望みだ」

 神父の口元がゆっくりと歪む。

「選ばれた者だけが、新たな時代の息吹を受けられる」


 その瞬間、燭火が不意に大きく揺れ、銀粉の円が淡く脈動した。

 その光は、生き物の瞳のように、広間の二人をじっと見返しているかのようだった。


 同じ頃――地上ではリエラが馬車を見送った後、教会の外周をゆっくりと歩いていた。

 礼拝堂の壁に沿って尖塔の根元を通り過ぎたその時、足元の石畳が、ごくわずかに震えた。


 リエラは足を止め、息を潜める。

 地中から低く鈍い響きが伝わってくる。間隔は一定で、まるで深い地底で打ち鳴らされる巨大な太鼓のようだ。


 壁に手を触れると、冷たい石の向こうから微かな声が漏れてくる気がした。

 はっきりとは聞き取れない。だが、その抑揚と間には、祈りとも命令ともつかない、重苦しい響きが潜んでいる。


 リエラは眉を寄せた。

 ――気のせい……か?


 尖塔の影から礼拝堂の正面を見やる。

 昼間は白く輝いていたその建物が、灰色の雲の下で沈黙を保ち、まるで巨大な生き物が息を潜めているかのように見えた。


 深く息を吸い、背を向ける。

 任務はあくまで避難民の護送ルート監視――それ以上は指令の範囲外だ。

 だが、胸の奥に、小さな棘のような違和感だけが残り、消えなかった。

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