第五十六話 遡るほどに未来は近づく
冬の海は、夏の海と同じ感覚で行くと、ほぼ全員が後悔する。
廃病院と同じで、決してノリで行ってはならない場所だろう。
あの焼けるような砂浜は、冬になると歩行を困難にする拘束具に変わり、夏は心地よかった海風も、冬は殺す気満々で吹きさらしてくる。
一瞬で楽しい気分を台無しにされ、最寄りの駅まで全力ダッシュする羽目になるのは当然の末路だ。
それでも冬の海には妙な魅力がある。
みんな寒さに耐えられず避けるから、景色をほぼ貸し切りにできる。
過酷すぎて死にそうになるのが難点だが、その分、人肌の温かさだけはやたらと身に染みた。
……だからだろうか。
隣にいる玲菜との距離が、今日は妙に近かった。
「以上があたしの知ってる二人の最後のエピソードだよ」
話を終えた少女は、チラリと俺と玲菜を見回す。
俺は思わず息を呑んだ。
陽が沈んだ冬の海辺の風なのに、寒さを感じさせないほど、頭の中だけが異常な熱を帯びている。
なんと言うか、壮絶な話だった。あのまま、話を進めていたら、俺はこの場で玲菜に殺されていた……らしい。
俺、赤羽春馬の最期。いや、雪城玲菜という最後まで諦めずに抗おうとした少女の話はあまりにも重い内容だ。
自分で望んだことは言え、玲菜にとんでもないことを押しつけたのが痛いほどわかった。
玲菜は少しだけ体を震わせている。
視線を合わせることができずに俯いていると、割って入るように話をしてくれた少女が顔を覗かせた。
自然と目が合う……思わず、息を呑んだ。
玲菜によく似ていた。あの、射抜くような強気な瞳。感情の揺れがそのまま映し出される目元のラインまで、瓜二つだ。
しかし、俺の知る玲菜よりも少しだけ幼い印象がある。黒髪のロングヘアが肩から流れ、小柄な身体付き――身長は玲菜より少し低いくらいか。
だが、その華奢な肩幅に対して、胸元は主張が強かった。わかりやすく言うなら玲菜よりも大きい。
そして、全てが完璧に見える少女だが、何か引っかかる。玲菜とは違う、何かがあった。それがなんなのか、わからない。
その少女は俺を不思議そうに眺め、口を開いた。
「改めて、自己紹介をするね。あたしは雪城 柚葉。そこにいる雪城玲菜の娘だよ」
「玲菜……お前いつの間に……」
話の前に紹介を受けていたとは言え、何度聞いても驚いてしまう。
玲菜が顔を真っ赤にして口を尖らせる。
「冗談はやめてよね。私まだ17歳よ? 娘が仮にいたとしても、せいぜい2~3歳だわ」
「そのとおり。あたしは未来から来たんだよ」
柚葉は胸を張ってエッヘンと誇らしげな顔をした。
「……私の娘だなんてウソついて、なにがしたいの?」
「今日、これから起こることを、ここまで話しても信じないのか……」
「あ、当たり前でしょ……どこで情報を仕入れてきたかは知らないけど、わ、私が……っ、春馬に告白とかするわけないでしょ!」
「なるほど。そういう態度か。いいよ、わかった。じゃあ、ママの日記に書いてあったことを――」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。なにが書いてあったのか、先に私にだけ教えなさいよ。というか、私の日記なんだから、他の人に教える必要はないでしょ!?」
「え? だって、私が娘だって信じてないんでしょ? なら、作り話だから勝手に話してもいいよね――で、春馬さんを最初に意識し始めたのは――」
「黙りなさい! 柚葉って言ったわね。いいわよ。話を聞いてあげる。さっさと話しなさいよ!」
「えと、春馬さんを意識しだしたのは、高校一年の時――」
「――っ、そっちじゃないわよ! わかっててやってんでしょ?」
「ちょっと待て、高校一年の時ってなんだ?」
非常に気になる内容だったので、思わず玲菜を覗き込んでしまった。
耳まで真っ赤にしていた玲菜は、俺の顔を押しのける。
「アンタもつっこまないの。さっさと先に進めなさい!」
「えへへっ、ごめんね。こんなに動揺するママを見るのは初めてだから、なんだか楽しくて……」
柚葉はお茶目な笑みを零し笑う。
それを見た玲菜は呆れた顔をしてため息をついた。
「とんでもない爆弾を持ってるみたいだけど、アンタの目的はなんなの?」
「ママがそこの春馬さんを殺すという最悪の結末を回避したいだけだよ」
柚葉が俺を指差し、ニコッと笑みを零す。
挑発的な態度に、玲菜の眼がスッと細くなった。
「こんな人に構っている暇はないわ。行きましょう……春馬、時間は限られているのよ?」
「ちょ、お、おい」
玲菜にグイグイと押され柚葉に背を向けさせられる。
一刻も早く、この場を立ち去りたいようだ。
そんな様子を見ていた柚葉が大きく息を漏らす。
「あー、その時間をあたしが長くできるって言ったら信じる?」
「え……?」
俺を押していた玲菜の手がピタリと止まる。
玲菜はゆっくりと振り返り、柚葉を視線を向けた。
勝ち誇った笑みを浮かべる柚葉。
「あたしが春馬さんの脳にある侵食を治せるって言ってるんだよ」
まさかの発言に俺と玲菜は顔を見合わせる。
絶対に治らないと思っていただけに衝撃は大きい。
玲菜も口をパクパクとさせていた。
「そ、そんな……どうやって……?」
「おい。治せないんじゃなかったのか?」
俺の質問に玲菜がハッとした顔になる。
キッと音が出る勢いで玲菜は柚葉を睨んだ
「ええ。そうよ。治せるわけがないわ! 適当なことを言ってると――」
「詳しいことは知らないよ。でも、治せるって言ってたんだよ」
「誰よ、そんな無責任なことを言うのは……」
玲菜が呆れた声を零す。
しかし、柚葉はまるでその言葉を待っていたかのように笑みを浮かべる。
「未来のママ。つまり、あなただよ。これでも信じる気にならない?」
「私が春馬を治せるように……? そ、そんなこと……」
「とにかく時間が惜しいんでしょ。今は……雪城邸に行こうよ。春馬さんが治ったら、あたしもそれで帰るからさ」
柚葉が両手を合わせて拝んでくる。
逡巡した後、玲菜がこちらに視線を向けた。
「……どうする春馬?」
どうするもなにも、俺に選択肢はない。ないから殺されようとしてるんだ。
玲菜の娘という話が本当かはわからないけど、方法があるなら試してみたい。
ただし、一つだけ確認しておかなければならないことがある。
俺は体ごと柚葉に向けた。
「……その治療法とやらは関係ない人たちを巻き込む可能性があるのか?」
「ううん。術式を展開して、魔力的構造に干渉するだけだから、まったくそんなことないよ。まあ、失敗したら、あなたは死ぬかも知れないけど……」
「なら、断る理由はないな。ぜひお願いしたい」
その言葉を聞いて、柚葉は満面の笑みを浮かべる。
玲菜は大きくため息を吐き、柚葉を睨んだ。
「ただし、ウソだったときは覚悟しておくことね。――絶対許さないからっ!」
凄みのありすぎる玲菜の言葉に、柚葉だけでなく、俺まで身を強ばらせてしまう。
その時、手に持っていた袋の中で、カツンとマグカップがぶつかる音がした。それを聞いた柚葉が目を大きく開く。
「あっ! そのマグカップは今日買った物だったんだね」
「もしかして、未来の玲菜が使っていたのか?」
「いた? ううん。違うよ」
「だ、だよな……さすがに使うわけないか……」
「そうじゃない。使っているんだよ。ずっと大事に使ってる。黒のマグカップをね。ほんと、ダサいマグカップだよね」
「うっさいわよ。アンタに何がわかるの?」
吐き捨てるように呟いた柚葉に、玲菜が怒鳴った。
黙って見ていられず、思わずつっこんでしまう。
「お前もさっき、散々ダサいって言ってたけどな」
「やだな。ママ、怒らないで……ボロボロでプリントも剥がれて、それでもママは大事に使ってる。そんな姿を見てたら、ダサいなんて言えないよ……」
「だったら、一生黙ってなさいよ! ダサいなんて言葉、わざわざ口にするもんじゃないわ」
「……それをお前が言うのか?」
そんな未来の玲菜の話を聞きながら、俺たちは雪城邸に向かった。
※ ※ ※
俺たちが案内することもなく、勝手知ったる我が家という感じで、柚葉は不躾に玄関を開ける。
玄関には幽体となり、ぼやけた姿となったメルが出迎えてくれた。俺の顔を見て、メルの目つきが厳しくなる。
きっと、まだ殺してないのか、と思われたんだろうな。
俺も覚悟を決めて、ここを出ただけに、気持ちはわからないでもない。
そんな俺の様子など気にもとめず、キラキラと表情を輝かせて、柚葉がメルに歩み寄る。
「え? まさか……あなたが……メルさんですか?」
「はい。そうですが……あなたはさっきの……」
「うわぁ! メルさんだ! 会えてめっちゃうれしいです! あ、さっきは勝手に結界から出てきて、急いでたから何も言わずに逃げ出してごめんなさい!」
メルに会えたことがよほど嬉しいのか、柚葉がまくし立てる。
完全に押され気味なのか、メルが助けを求めるように玲菜を見た。
「あの……この方は?」
「なんか私の娘だって言い張ってるんだけど、どう思う?」
「そうですね……確かに玲菜様に似たものを感じますね。親戚かなにかですか?」
「さあ。柚葉なんて聞いたこともないわね……」
玲菜が息を吐き、柚葉を眺める。
ふと、思いだした顔をして柚葉がメルに頭を下げた。
「あたしは雪城柚葉。春馬さんの脳の侵食を治すため、二十年ほど先の未来からやってきたの。メルさんの力を借りたいんだけど、お願いできるかな?」
話を聞いて、少し考え込むメル。
ゆっくりと玲菜に視線を向ける。
ただ静かに玲菜は頷く。
「問題ないわ。第一優先事項だもの」
「玲菜様がそう仰るのであれば……私は何をすればよろしいですか?」
「まずはその体じゃ、魔力が微弱だから、きちんとした体に戻ってくれないかな? ちょっと魔力の負荷が大きいから、幽体じゃ難しいかも……」
「申し訳ありません。私は既に実体を無くしておりまして、残った魔力で延命している状態です。何か問題ありますか?」
「ええっ! ウソ……この時にはもうメルさんは、幽体になってたんだ……どうしよう……」
メルの答えを聞いて、柚葉は大げさに両手で頭を抑えて落ち込んだ。
それを見て、心配になったのか玲菜が柚葉に近寄る。
「なによ。どうしたの? メルがいないと春馬を治せないの?」
「うん。もっと前の日にちに戻らなきゃいけなかったんだ……春馬さんが死んだ日に戻れば大丈夫だと思ったんだけど……遅かったみたい……」
さっきまでの余裕は消え、柚葉はすっかり意気消沈している。
当てが外れたようで、玲菜もショックを隠し切れていない。
空気を変えるため、俺は思いついたことを口にする。
「メルなしでやるとどうなるんだ?」
「……成功は難しいかな。負荷も考えるとメルさんがこの場で消えてしまうかもしれない……」
玲菜の表情が固まった。
何かを言いかける。けれど、そのまま唇を閉ざした。
重苦しい沈黙が部屋を満たしていく。
そんな中、最初に口を開いたのはメルだった。
「玲菜様。私は構いません。どうせ、私もあと少しで消えてしまいます。それなら、少しでもお力になれればそれで……」
メルの答えを聞いても、玲菜はすぐには頷かなかった。
視線が床に落ちたまま、動かない。指先だけが、小さく握られている。
しばらく考えたあとに、玲菜は思いついたように柚葉に手を差し出す。
「……術式を見せてもらえるかしら?」
「あ、うん。これ……」
玲菜に言われて、柚葉が手を掲げるとぼんやりと浮かぶ魔方陣のような物が表示された。
それを見た玲菜が目を大きく見開く。
「……っ! なによこれ? 本当に私が組み上げたの? 天才すぎるわ……」
「自分で言うなよ」
あまりの自画自賛に思わずツッコミを入れてしまった。
「それくらいにすごいのよ。……でも、そうね。この出力の部分を……で、操作を私がやれば……」
「あ、そういうふうに読むんだ。じゃあ、ここはあたしが対応するよ」
「それでしたら、私への負荷もだいぶん抑えられますね」
完全に蚊帳の外だった。
「俺にできることも教えてくれ」
「アンタにはないわ。むしろ、魔力を抑えることに専念して欲しいわ」
玲菜は俺にそれだけ言うとまた二人の方に向き直った。
俺にできることはなにもない。ただ、三人を信じることだけだ。
※ ※ ※
頭の中に何か魔力を通されて、玲菜、メル、柚葉がもごもごと何かを始めてから、二時間もしないうちに治療は終わった。
正直な話をすると、ずっと眠っていたような感覚なので、治療中のことはよく覚えていない。
結果から言えば、侵食の完全除去はできなかった。
それでも大部分は取り除けたらしく、すぐに爆発するような危険な状況ではなくなったようだ。
完治しなかったのは残念だが、寿命が延びただけでも感謝しかない。
しかし、柚葉は納得がいかないらしく、応接室のソファーで沈み込むように俯いている。
「……失敗とは言えないけど、成功とも言えないね。ごめんなさい……」
手術が終わり、落胆しながら頭を下げる柚葉。
一方、俺の体をメルと一緒に診断していた玲菜が、ふむと息を吐いた。
「侵食は取り切れなかったけど、記憶が消えることはなくなった。進行を数ヶ月単位で遅らせることができたのは大きいわ」
玲菜の言葉に同調するように、メルも深く頷く。
「はい。本来なら、ここまで抑え込めるだけでも驚異的です。赤羽様、あなたのことを思って組み上げられた術式なのでしょう……」
メルの言葉に、玲菜は居心地が悪そうに顔を逸らした。
玲菜が自画自賛した術式。
それがどれほどすごいものなのか考えもしなかった。
俺を殺してしまったことを悔やみ続けた未来の玲菜が、何年も、何十年もかけて助ける方法を探し続けた結果だったんだ。
そう思うと、胸の奥が締め付けられる。
もう少し早く玲菜の気持ちに気づいていたら、違う未来もあったのかもしれない。
「それだけに、残念です。今の私にはきちんとした体がありませんから……もしも体を取り戻すことができていたら、あるいは……」
俺を見つめたまま、メルが自分を責めるようにつぶやいた。
この流れはよくない。みんな最善を尽くしたんだ。
「いや、心配してたメルが消えずに済んだんだ。今の状況なら十分すぎる結果だよ」
努めて明るく、メルに声をかけた。
玲菜も何かを察したのか、少し茶化すように乗っかってくる。
「そうね。消えたのは、毎日同じ話をしなきゃいけないっていうプレッシャーだけ。本当に良かったわ」
「やっぱ、あれ嫌だったんだな……」
「当たり前でしょ? 毎日毎日、同じ話をして同じ結論。頭がどうかしちゃうわよ」
俺と玲菜のそんなやり取りで、張り詰めていた空気は少しだけ和らぐ。
だが、それでも柚葉の顔色は優れなかった。
彼女はまた、ぽつりと後悔を漏らす。
「でも、治せるとか大見得を切ったのに……こんな結果にしかならなくて、自分が情けないよ……」
「メルの状況を知らなかったんだから、あんまり自分を責めるな。あと少しは生きられるって分かっただけで、俺は満足してるから」
「春馬さん……」
俺と柚葉のやり取りを静かに見ていた玲菜は、いつの間にか言葉を無くして俯いていた。
何かを深く考え込んでいるようにも見える。
声をかけようとしたその瞬間、玲菜はハッと顔を上げ、柚葉に鋭い視線を飛ばした。
「ねえ。さっき『戻る時間を間違えた』って言ってたけど……戻る時間って、自分で選べたの?」
「う、うん」
「もう一度、戻れないかしら?」
「……それは……っ、で、できるよ。あと一度だけなら戻れる!」
玲菜に質問されて、柚葉は明らかに一瞬戸惑った。
その表情から何かを隠しているのは明らかだ。
この状況で隠すことと言えば――
「待てよ。その一度ってのは……柚葉お前が未来に帰る分なんじゃないのか?」
「ま、まあ、気にしないで。色々やらかしてきた後だし、何も変えられてないんじゃ、帰っても地獄が待ってるだけだし……ね?」
ペロッと舌を出す柚葉。
まるでイタズラが見つかった子どものような顔だ。
「帰れないってどういうことだよ? 未来で何があったんだ?」
「あはは。すでに封鎖されていた雪城家の結界を、協会に黙って使っちゃったからね。一生、魔闘師たちに追われることになりそうだよ」
「封鎖? 協会? 魔闘師? お前、未来で一体なにをやらかしてんだよ?」
「時間移動魔法。なんかママの覚悟を見てたら、勢い余ってと言うか……」
「ママ? じゃあ、未来の玲菜も関わっているのか」
「え? ああ、そうそう。魔法を使うのに――」
柚葉が何かを言いかけたところで、玲菜が突然に体を乗り出す。
その表情には焦りと驚きを感じさせた。
「ちょっと待って! 柚葉こっちに来て」
話を遮られた柚葉は戸惑いを隠せない。
玲菜は立ち上がり、柚葉の手を取ると無理やりに部屋の外へ連れていこうとする。
「えっ。な、なに……?」
「いいから早く来なさい!」
玲菜に怒鳴られ、渋々といった様子でついて行く柚葉。
俺は表情も変えずに佇んでいるメルと目を合わせる。
しかし、メルはなにも口にすることはなかった。
しばらくすると玲菜たちが戻ってくる。
柚葉の顔は真っ青になっていた。一体何があったのだろうか。
「急に怒鳴ってどうしたんだ? 話は聞けたのか?」
「なんでもないわ……彼女の意思を確認しただけよ。そう、ただそれだけ……」
「そうなのか? 柚葉」
「う、うん。ママが心配してくれただけ……」
柚葉がぼそっと呟いて俯く。
何か歯切れが悪いが、これ以上聞き返しても教えてくれそうになかった。
ソファーに二人が戻っても、まだ空気が重い。俺は話の続きを促すことにした。
「え、と、過去に戻るとしたら、いつが良いんだよ?」
「柚葉は治せなかったのは自分の責任だって言ってたけど、それは違うわ。だって、この時間軸ではどうやっても春馬を助けることができなかったんだから……」
「え……?」
柚葉が驚いたを見せた。
玲菜が言葉を続ける。
「春馬が脳を侵食されたのは、メルが幽体になった後だもの。治しようがないわ」
「ああ。確かに……」
「本当に行かなきゃいけないのは、メルが体を失うきっかけになったあの日しかないわ」
「俺たちが魔界に閉じ込められた日だな」
「わかった。その日に戻って、メルさんを助けてくれば良いんだね! 詳しく教えて!」
身を乗り出し、今にも飛び出していきそう柚葉を、玲菜が冷ややかに見つめていた。
柚葉の能力を疑っているか、それとも身を案じているのかわからない。
ただ、玲菜に何か思うことがあるのはわかる。
メルを救出するには結界を壊し、魔力の供給源を絶った坂上を倒さなければならない。
坂上がどういう意図でやったのかは死んでしまった今では計り知れないし、謎が多い分、失敗率も上がっていくだろう。
何があるのかわからない危険なところに、柚葉を行かせるのは違う気がする。
「なあ、その時間移動の魔法って、俺は使えないのか?」
「うん。一応、血統魔法だから、あたしか、ママだけだね。結界にいる人を一緒に飛ばすことはできるけど……」
「一緒にって……さりげなく、重要な情報が出てきたな……」
「あ、でも、増えた分だけ魔力を多めに使うから、連れて行けてもあと一人か二人だけだよ?」
俺一人で過去に戻れるならそうしたい。
でも、それができないのなら答えは一つだ。
「なら、俺も連れて行ってくれ。最悪メルを助けられなくても、実体があるうちに治してもらえば良いんだろ?」
「なるほど。その方法もあるわね……」
俺の意見を聞いて、玲菜は満足げに頷く。
驚いた表情を見せたのは柚葉だ。
「え? 春馬さんも来てくれるの? 戻ってこられなくなるんだよ?」
「俺はどうせ、ここで死ぬ運命だ。戻ってこられなくても関係ないからな。一緒に行くよ」
「あ、ありがとう。春馬さん……」
驚き、そしてパッと表情を明るくする柚葉。
俺と柚葉のやり取りを見ていた玲菜が、窓の外に視線を逸らした。
時計の音だけが部屋の中に響き続ける。
何かを考えている玲菜の横顔を見ていると、軽々しく続きを促す気にはなれなかった。
やがて、玲菜が小さく息を吐く。
「……しょうがないわね。じゃあ、私も行くわ」
思い悩んだ末の答えなのだろう。握りこまれた拳から思いが伝わってくる。
でも、戻る方法がない過去になんか連れて行けるわけがない。
「ダメだ。玲菜お前は残った方が良い。いや、残るべきだ。お前には自分の人生があるんだからな!」
俺の言葉を聞いて、玲菜は眉間に大きくシワを寄せた。
「はぁ! ふざけたこと言わないでよ! 私の娘と二人で時空の狭間で駆け落ちでもする気なの? そんなの絶対に許さないわ……」
「な、何言ってんだよ。そんなわけ……」
「……もう嫌なの。春馬がいない人生を想像するのは……」
玲菜の眉間のしわがゆっくりと消えていく。
思い付きで言ってるわけでないのが痛いほど分かった。
「玲菜……」
「アンタが過去に閉じ込められるなら、私も一緒に閉じ込められるわ。全てを終えて、アンタが治ったら、その時は過去の私たちに会わないように、どこか遠くで暮らしましょう。きっとどうにかなるわよ」
玲菜がチラリと上目使い俺を見た。
俺だって玲菜と離れたいわけじゃない。
玲菜がそう言うなら、きっとなんとかなる。そんな気がした。
「けど、冬の海はもう二度とごめんだけどな。最期だから黙ってたけど、寒さで殺しに来てるかと思ったよ」
「そんなわけないわ。アンタを殺すときはとことん苦しめてからって決めてるんだから……」
「何気にひどいこと言ってるぞ?」
「当然でしょ。手を繋ぐためにわざわざお膳立てしてるのに、ポケットに手を突っ込んだままなんだから。こっちだって、手が凍って落ちるかと思ったわ」
「いや、寒いなら普通に手袋しろよ」
俺の言葉に玲菜は目を丸くする。
少しだけ頬を膨らませてから、玲菜が口を開く。
「アンタはロマンって言葉を知らないの!?」
「冬の海にロマン求める方が間違ってるだろ……」
「だったら、死にもロマンを求めないでね。死ぬのは痛くて苦しい。それだけなんだから……」
「だからって、苦しめて殺そうとしないで……」
「……それもそうね。苦しめるだけ苦しめて殺さないのが一番効くわよね」
玲菜はそう言って、思いっきり笑い声を上げた。
楽しそうな笑顔を見て、俺も思わず笑みを零す。
こんな時間がずっとこれからも続くといいな。
玲菜とずっと一緒にいられたら、どれだけ幸せなんだろう。
そう思ったら、思わず言葉が零れた。
「悪くないな。二人で暮らせたら、きっとどこでも楽しいよな。ダサいマグカップも、新しい場所で買い直そうぜ!」
「私があげたものが不満なの? ……でも、そうね。今度は、壊れないやつがいいわね」
玲菜は何かを思いついたように呟く。次に急激に頬を真っ赤に染めた。
そして、少し涙目になりながら玲菜が俺を見つめる。
なんだか気恥ずかしかった。だけど、考えられなくなっていた俺たちの未来が、急に目の前へ戻ってきた気がした。
そのせいだろうか。無性に笑えてきた。釣られて玲菜も笑い出す。
柚葉とメルは顔を見合わせ、目を細めるだけだった。
この時の俺は、自分が助かることしか考えていなかった。死を目前にして視界が狭くなっていたんだろう。
過去を変え、未来を救うということが、一体どんなことに繋がるのか、まったく考えることができていなかったんだ。




