7 竜の剣(前編)
決行の日は、日曜になった。
最初に伝えていた土曜は、敵に知られているかもしれない。その可能性を考えてのことだ。
人族の集落からは、一斉に人が居なくなる。
多くの男達が、中には女も子どもも混ざるかもしれないが、カザート王ヴォルテスを倒す為に、妖精族が暮らす町の中心部へと歩を進めるのだ。
人族は全てが人族の集落に居るわけではない。
妖精貴族の個人の奴隷として、町の中心部で働いている者も居るし、もちろん城の内部にも居る。味方となるか、敵となるかは、今の時点では分からなかった。
なるべく被害が少なくて済むよう、仲間の人族には騒ぐことを頼んでいる。そう、ただ騒ぐだけだ。実際に敵を討つつもりで向かう必要はない。妖精族は人族の力を甘く見ている。最初は騒ぐだけにして、とにかく町の中を混乱させる。敵を殺す役は、ルカがひとりで受け持つつもりだった。
王を見つけて倒せば、後はこっちのものだ。
妖精族は夜目が利く。ルカ達は黒く染めた外套に身を包み、明かりを付けずに進んだ。
妖精族の町を囲む外壁の外で待機する。
外壁の中から爆音が聞こえて来た。
開始の合図だ。
有力貴族の住居を爆破するよう、指示してあった。煙が壁を越えて漂ってくる。
中に妖精族が居れば、犠牲になったかもしれない。いや、住居なのだから、間違いなく居ただろう。
今は考えない方がいい。
ルカは首を横に振り、それから多くの仲間と共に外壁の中へ突入した。
「反乱じゃ! 奴隷どもが城に向かって来おる」
大臣がそう言いながら、部屋に飛び込んできた。
イーメルは窓から外を見た。
人々が黒い塊となって、城へ向かって来るのが分かった。
「第一の門を壊された」
「入って来るぞ。早く、王と王妃をお守りするのだ!」
外で口々に騒ぎ立てる声がする。
始まったか。
イーメルは隣で喚く大臣を無視して、窓から下を眺めていた。
ルカはどこに居るのだろう。いくら視力が良くても、これ程人数が多い中からひとりを探すのは難しい。
新しい侍女達は、皆がおろおろしているばかりで、イーメルを守ろうとするような気丈な者は居ないようだった。
「王女!」
部屋に、また新たな客人が飛び込んできた。オーヴィアだった。大臣よりは頼りになりそうだ。だが、今は逆に、その忠誠心が邪魔だ。
「王女、ここは危険です。脱出用の通路がありますから、どうぞそちらの方へ」
「そなたらだけで逃げよ。人族の狙いは、わらわら王族であろう。わらわが一緒では、逃げ切れぬぞ」
「しかし」
「行けといっておる。ほら、大臣も」
大臣の服を掴んで、オーヴィアの方へ向け、背中を押す。
「人族には手を出すな。人族は竜の剣を持っておる。あれを使われたら、皆死ぬぞ」
侍女が小さく悲鳴を上げる。
オーヴィアが顔を顰めた。
「では、大臣、この者達を頼みます。私は王女をお守りしなければ」
オーヴィアが言うと、大臣は侍女達を連れて部屋から出て行った。
「そなたも行け」
「姫をお守りするのが、騎士の務めです」
まだ敵が近くに居るわけもないのに、オーヴィアはそう言うと、大きな槍を構えた。
ありがたいことだが、オーヴィア程の使い手になると、人族の方が危険すぎる。イーメルは人族の味方をしたいのだ。
「オーヴィア、そなたの忠義感謝する。だが、今は不要じゃ」
手のひらをオーヴィアの背中に向かって突き出す。
イーメルの言葉に振り返ろうとしたオーヴィアは、首を途中まで回したところで吹き飛ばされた。
「何をなさる」
槍を支えにして、オーヴィアが立ち上がった。
「言うことを聞かぬからじゃ。わらわを置いて逃げよと言うておる」
「王女ひとりで残すわけには参りません」
部屋に、また誰かが入ってきた。妖精族ではない。
人族の子どもだ。おそらく、城で給仕をしている少年。この騒ぎで逃げ惑ううちにここに辿り着いたのだろう。
だが、それが誰かを確認する暇もなく、オーヴィアがその槍で少年を突き刺した。
「何をする!」
少年の腹から、血が噴出す。もう死んでいるだろう。
「人族は敵です」
「まだ子どもではないか!」
「ただの奴隷です。王女が気になさる必要はありません」
オーヴィアは少年の腹から槍を抜き、少年を蹴飛ばした。
イーメルが手に力を集中させ、オーヴィアに向かって放つ。先ほどよりも強い力を込めたから、オーヴィアがぶつかった壁に亀裂が走った。
オーヴィアが咳き込みながら、また立ち上がる。
「私は王女の味方です。わたしは敵である人族を殺しただけだ。なぜ味方である私を攻撃なさるのですか」
立てないはずだ。あれ程の力をぶつけたのだ。いくら妖精族と言えど、普通は。
「人族は敵ではない!」
「妖精族の王女ともあろうお方が、何をおっしゃいます。この世界は妖精族が支配してこそ平穏に保たれるのです。命の短い人族には、その権利はない。それを覆そうとするのであれば、我々の敵です」
今更、イーメルを諭そうとしているのだろうか。
オーヴィアは十五年の間イーメルに仕えてくれた。だが、それだけのことだ。非が自分達にあることは、揺ぎ無い事実。オーヴィアに言われても、イーメルの気持ちは変わらない。
イーメルは首を横に振った。
人族は敵ではない。
「なぜそこまで人族に肩入れするのですか」
オーヴィアの瞳に、イーメルの眉根を寄せた顔が映っている。
「あの男ですか? ルカとかいう。王女は、あの男に会ってから変わられた」
イーメルの表情が少し動いたのを、オーヴィアは見逃さなかった。
「そうなのですね。あの男が、王女の気持ちを変えたのですね。私には、できなかった」
オーヴィアは言って、槍を一旦下ろした。
利き手に持ち変える。
「ですが、あの男にできないことで、私にできることがあります。あなたは裏切り者だ」
槍をイーメルに向かって突き出した。ルカにイーメルは殺せない。イーメルを殺せるのは、自分だけだ。
だが、当たらない。
イーメルの腹の横に、槍の先はあった。
イーメルがカザートの裏切り者であることは、間違いないことだった。しかし、オーヴィアがそう判断するには、まだ早すぎる。
裏切りというのは、カザートに対してではなく。
頭を過ぎる考え。
構わず、イーメルはオーヴィアにもう一度手のひらを向け、力を使った。
「おおイーメル、まだこんな所に居たのか?」
すでに壊れた扉から、ヴォルテスが顔を出した。
それに気を取られ、イーメルの力はオーヴィアに命中しなかった。だがオーヴィアは力の影響を受けて、ヴォルテスの足元で気を失っているようだった。
オーヴィアに槍を向けられたときよりも恐ろしい、背筋が凍るような思いが、イーメルを駆け巡った。
先ほどの台詞は、別にイーメルを傷つけようとする物ではなかったというのに。
「他の者はおらぬのか」
横目でオーヴィアが倒れているのを見てから、イーメルに視線を戻す。
「それは丁度よかった」
ヴォルテスが唇の端を上げた。
「やっとお前を殺せる。今なら、お前が死んでも人族がやったと思われるからな」
逃げなければ。
人族に殺されるのならば構わない。ルカが決めたことだ。
だが、王に殺されるのは嫌だ。
戦うという選択肢は、イーメルにはなかった。父の強さと残酷さは、よく知っている。イーメルが勝てるわけがない。
王が手を、イーメルの方へ向かって掲げた。
力の波動が、イーメルの真横を通ったのを感じた。
「王女、お逃げください!」
オーヴィアが、ヴォルテスの体にしがみ付いていた。
震える足を自分で殴りつけて、イーメルは別の出口を通って部屋を出た。
オーヴィアが暫くの間なら時間を稼いでくれるだろう。
走れ。
走れ。
自分の足音。息を吐く音。一杯に。もっとうるさく。
嫌だ。
オーヴィアが。
妖精族の聴力が優れていることを、この時ほど呪ったことはない。
オーヴィアの悲鳴が聞こえてくる。何度も、何度も。何をしているのだろう。一息に殺せばいいのに。なぜ、わざと苦しめるようなことをするのだろう。
イーメルがオーヴィアを心配して戻るとでも思っているのだろうか。
イーメルは脱出用の通路に走りこんだ。
ルカが竜の剣を振るうと、その刃に触れた妖精族は一瞬で灰になった。
最初はルカを狙って飛び込んできていた妖精族の兵士も、次第に近寄らなくなった。それで暫くは進みやすくなったが、次は人族の兵士が出てきた。
分かっていたことだ。
人族同士で争わせるのが一番、妖精族にとっては被害が少なく、楽に済むのだから。
今度はルカではなく、仲間の人族が前に出て、手に持った武器で敵の人族に襲いかかる。
殺さないように、とは最初に言ったが、この状況ではどうなっても仕方がない。
城の城門を壊しているのは陽動部隊だ。
ルカ自身は途中から別の道へ入った。昔イーメルから渡された地図。王族専用の脱出通路が描かれていた。あれを、ネルヴァが完璧に覚えていた。
出口にはそれぞれ人族を配置している。王以外の妖精族や人族は無視し、王が出てきたら狼煙を上げて連絡するように伝えてある。
ルカは近場の通路から、数人の仲間と共に城の内部に入った。
既に避難したのか、城の中は静かな物だ。
王を探してうろうろしていると、城の中が騒がしくなった。陽動で城門を壊していた仲間が、本当に城門を壊して中に入ってきたのだ。
えらく簡単に入れたのは、おそらくイーメルが前もって、城の警備が少なくなるように根回ししていたのだろう。
城の窓から外の様子が時折見えた。
ところどころで炎と煙が上がっている。
火事は嫌いだ。けれど、目を背けてはいけない。やれと言ったのは、自分なのだから。
正確に、それぞれ離れた場所で火事が起きている。消火に人手を割かせる為だ。消火に当たるのひとの中には、ルカの仲間も入っている。消火を本気でしてもらわなければ、この乾燥したカザートだ。どんどん燃え移って余計な被害が出る恐れがある。消火に当たる人々を鼓舞し、先導してもらう為に送り込んだのだ。
ヴォルテスは、イレイヤはどこだ。
広い城内を闇雲に探した。もちろん、探しているのはルカだけではない。他の仲間もそれぞれに探している。
途中で見かけた妖精族は、仲間が捕らえて縄を掛けた。捕虜に乱暴はするなと言っておいたが、いつの間にか見知らぬ人族も仲間に混ざっていて、伝達がうまく行っているとは思えない状況だった。
ヴォルテスを倒せば、それで終わるのに。
二階へ上がる。
ひと影が見えて、それを追いかける。追いつけるかと思ったが、その前にそのひと影は部屋に入った。
閉じた扉の前にそっと近寄り、中の様子を伺おうとする。
「もう、無理です。降参しましょう、ヴォルテス王!」
当たりだ。
中には、さっき駆け込んだ男の他に、ヴォルテスが居る。
「奴隷共に屈せよと言うのか」
ヴォルテスの声だ。
「しかしヴォルテス王、この状況では皆殺しにされてしまいます」
「泣き言をいうでない!」
「ぐわぁっ!」
男の悲鳴が聞こえた。
剣を構えて、部屋の扉を開ける。
扉の横に、さっきルカが後をつけた男の死体が転がっていた。
王の護衛の兵士たちが、ルカ目がけて攻撃してきた。ある者は剣を振り上げ、またある者は力を使う為に手のひらをルカに向けて。
「邪魔だ」
ルカはそれを、竜の剣を使って一気に灰にした。
胸が痛まなかったわけではない。だが、復讐の相手を目の前にした時、他の妖精族の命は些細な物に思えた。
残るのは、ルカとイレイヤ公のみになった。
「伝説の聖剣、ディガー・ソードの封印を解きおったか」
「ああ。試練とかあったけど、あんたを倒すために全部クリアしてきた」
「あの時殺しておくべきだったか」
ヴォルテスが笑う。人族に城を攻め滅ぼされようとしている、この状況になっても。ひとりでも何とかなると思っているのだろうか。
「今度は、俺があんたを殺す。あんたが、俺の両親や、故郷を奪ったように、俺があんたの命を奪う」
ルカは剣を持ってヴォルテスに走り寄った。
ヴォルテスは、ルカに手のひらを向けた。それから、目を閉じる。
ヴォルテスの掌から、波動がルカに向かって来た。
ルカの体が宙に浮く。一瞬だ。その後、そのまま入り口の方へ向かってルカは吹き飛んだ。
妖精の使う力は、やっかいだった。剣で切れるものではないし、盾で防御できるものでもないのだから。だから、
我慢するか、避けるか、だ。
ルカは思った。
立ち上がろうとすると、体がバキバキ音を立てた。関節がどうかしたらしい。それでも、なんとか動く。
避ける。どっちへ向いて避ければいい?
ルカは自分に聞いた。
妖精の使う力には、色や形があるわけではない。避けようにも、どこまでその波動が来るのかわからないのだ。人族ならば。
ルカは半妖精だ。妖精の力には、確かに色も形もないが、ルカには空気の歪みが見える。空気が歪むのは、力が及んでいる範囲だけだ。
「見切ったぜ」
ルカは言った。
「もう一度、力を使ってみろよ」
挑発だ。ヴォルテスが挑発に乗ってくれるか、それはわからない。しかし、ルカが攻撃を仕掛けてから力を使われたら、ルカに勝ち目はなかった。
ヴォルテスが、ルカに向かって歩いて来る。
ある程度まで近くに来ると、不意に王は掌を向けずに、力を使った。
やばい!
忘れていた。
別に手のひらを向けなくても、体から波動を出せば、力を使えるのだ。一点から力を放出するのに比べ、威力は弱くなるが。
また、ルカは吹き飛んだ。今度はすぐ後ろに壁があったから、壁にぶつかった。
手のひらを向ける、という予告があれば避ける準備もできるが、予告がなければ、いつ攻撃に移ればいいのかわからない。
ヴォルテスがルカの近くに来なくては、竜の剣も使えない。
ルカは竜の剣を石の床に叩き付けた。
キーン
剣の刃が床に当たって、音が廊下に響いた。
何年もの間ダイゴラス・トーチスに眠っていた剣は、刃がもろくなっていたのだろう。床に当たった部分が欠けた。
「剣に頼るのはやめたのか?」
ヴォルテスは余裕のある声で言った。
ルカは立っているのがやっとの状態だ。
ヴォルテスは、壁に入り口の近くの壁に掛けてあった、宝剣を手にとった。宝剣は魔よけのために入り口に飾るもので、あまり剣としての役割を果たすことはない。しかし、竜の剣をルカから遠い所に持って行くのには役立った。
ヴォルテスとて、剣に触ることは避けたい。だから、宝剣を鞘に入ったまま廊下の竜の剣に向けて滑らせ、剣同士で弾いて遠くへやったのだ。
「どどめをさしてやろう。ルカ、とか言ったか。おまえが居なくなれば、こちらの被害も少ないうちに反乱は収まるだろう」
ヴォルテスはルカの首を締めた。
「う……」
敵を褒めている場合ではないが、それにしても、すごい力だ。息を止めさせて殺すのではなく、女であれば首をへし折ることさえできそうだ。
ルカはバランスを崩して、床へ倒れ込んだ。
一瞬、ヴォルテスの、ルカの首を締めている手が緩んだ。
しかし、すぐに元のように強い力を込めた。
「お……わり…だ」
ルカが途切れ途切れに言う。
「まだ喋れるのか。ふん、生意気な。だが、確かに、おまえももう終わりだな」
ヴォルテスのその言葉に、ルカは唇の端を上げた。
「何がおかしい」
そう言ったヴォルテスの腕に、赤い筋が浮き上がっていた。
「何!?」
赤い筋は、切り傷だった。小さく、浅い傷だが、確かに剣の傷。
血が灰に変わる。
傷口から徐々に、灰が流れてきた。
王の片腕が全て灰になると、それから先は早かった。一瞬で、全てが灰になった。
ルカは立ち上がって、体に付いた灰をはらった。
ルカの手の中には、竜の剣の刃のかけらがあった。
ルカは王の遺品を集めると、後から来た仲間に渡した。竜の剣で切られると、何も残さずに体は灰になってしまう。王が身に着けていた衣服や装飾品が、王を倒した証だった。
ルカは城から出たところで、別の仲間に呼び止められた。
先に王の死を知らせに回った人が居たらしく、辺りは歓喜に包まれている。
「ルカ様、捕らえた妖精族の処刑をします。ぜひおこしください」
ハンスだ。確か、ジージルドとよく一緒に居る。
「処刑?」
聞き返す。妖精族を仕切っていた王が居なくなれば、人数で勝る人族が妖精族を恐れる必要はないはずだ。こちらに抵抗する場合はできるだけ殺さずに捕らえろと言っておいたが、それは後で処刑する為ではない。
「王家の者達を捕らえたので、今から処刑するのですよ。もう皆勝手に始めてしまってますが、ルカ様がおいでにならないで、どうするんですか」
ハンスが笑顔で言う。
王家の者……。王は倒した。残っているのは王妃と、イーメルくらいのものだ。ハンスの言葉は『者達』と複数形になっていた。
「誰を処刑するんだ!」
ハンスの胸倉を掴んで聞く。
辺りがうるさくて、これくらいしなければ聞こえない。
「へ? そりゃ、王妃と王女を――」
「場所はどこだ」
「前に裏切り者を処罰した丘ですが」
ルカはハンスを離すと、城の門を抜け外に出た。
人族とも妖精族ともつかない死体が転がっている。それも気になったが、それどころではなかった。
イーメルが、殺されてしまう。
ルカが守りたかった物が、ルカのせいでなくなってしまう。
「ルカ!」
ネルヴァが馬に乗って来た。
「大変だ。人族が王女を処刑すると騒いでいる」
「ああ、聞いた。その馬借りるぞ」
ネルヴァと交代で馬に乗り、ルカは馬屋の前の丘を目指して馬を走らせた。
イーメルは丸太に縛り付けられて、丘の上に転がされていた。
人族が大勢で、丘に穴を掘っている。丸太を立てるためだ。何かに取り付かれたかのように掘り進め、瞬く間にその場に丸太が立てられた。
丸太の根元に、飼葉が積まれる。
横を見ると、王妃になって間もなかった女性が、イーメルと同じように丸太に縛り付けられていた。
イーメルは抜け道を通って外へ出た瞬間に、待ち伏せていた人族に捕らえられた。味方だと主張するつもりはなかった。
その場で殺すのかと思ったら縄を掛けられ、ここまで連れて来られた。
逃げる機会は何度かあったが、逃げるつもりもなかった。今、イーメルが抵抗すれば、先に逃げた侍女達にも人族からの制裁が加えられるかもしれない。
人族は、捕まえた妖精族を酷い目に合わせようとしているわけではない。
ただイーメルと王妃だけが、彼らにとって特別なのだ。彼らを押さえつけていた王の、直接の関係者だから。
自分を見上げる人族の目は、狂気に満ちていた。最初は、こんな目はしていなかったと思う。
穴を掘っている辺りからおかしかった。
イーメル達を殺す為にいつの間にか団結したことで、次第に狂ってしまったようだった。
だがイーメルと王妃が死ねば、彼らは元の善良な人間に戻るだろう。
石が飛んできた。
人族の子どもが投げた物のようだった。
他の人達も、それに釣られて石を投げ始める。殆どは当たらなかったが、幾つかはイーメルに当たった。
頬に当たって、血が流れたのが分かる。
力を体全体から放出すれば、この縄も切れる。下に居る人族の何人かを吹き飛ばせば、狂気に満ちている頭も冷えることだろう。
それでも、わらわは、彼らの裁きを受けることを選ぶ。
父が犯した罪。
それによって傷つけられた人々の心が、イーメルを殺して晴れるのならば。
それでも、ルカが王になるところを見たい、と思うのは贅沢だろうか。敵である妖精族の王女のくせに。
ルカは血の繋がりはなくても、イーメルの弟だ。
弟でなくても、イーメルがこの世でただ一人、全てを投げ打ってでもついて行きたいと思ったひとだ。
「火をつけろ!」
誰かが言った。
次々と飛んできていた石の雨がやみ、一瞬静かになった後で、人々が『火をつけろ』と叫び始めた。
「やめろ!」
火をつけろという声に混ざって、それを否定する声が一つ聞こえた。
その声に、イーメルは目を開け、声の主を探した。
足元に集まっている人族の輪の一番外側に、馬に乗ったルカが居た。
だが、ルカの声は人族の喧騒に紛れて、誰にも聞こえていないようだった。
「やめろと言ってるんだ。聞こえないのか!」
ルカは叫んだ。
ルカの目の前に居た人族が、ルカを振り返った。
「もう遅い。火はつけられた」
その男を凝視し、ルカはイーメルの方へ視線を戻した。
赤く炎が燃えているのが僅かに見える。
「くそっ。やめろ!」
ルカは馬から下りた。
人族の輪の間に押し入る。この状況では、誰もルカに気付かないだろう。
人族は、憎い妖精族が死ぬところをなるべく近くで見ようと、前へ前へと押し寄せる。
火がついていてそれ程は近づけないので、逆に外へ押し出されていく人も居る。中央に近付くにつれ、火による熱さが強くなっていった。
「邪魔だ、どけ!」
ルカがなんとか最前列に出たとき、火は相当大きく燃えていた。
足元を見たが、火を消す為の水は用意されていなかった。
それでも、ルカは飛び出そうとした。
後ろから誰かに体をつかまれる。
「何してるんだ。あんたも死ぬぞ」
顔を見たが、見知らぬ男だった。
振りほどこうともがくと、近くに居たほかの人までルカを止めに入った。
「離してくれ。イーメルは、俺の大事なひとなんだ!」
炎の向こうのイーメルに向かって、手を伸ばす。
炎を見ると、嫌でも昔のことを思い出す。炎にまかれて死んでいく町の人々。守りたくても、幼いルカにはどうすることもできなかった。
今やっと、誰かを守れるくらい強くなったはずなのに。
悔しくて、涙が出た。
「イーメル!」
雨が降り始めたのは、突然のことだった。
カザートの各地で起こした火事や、今この処刑で発生した煙が、天に昇って雨雲を呼んだのかもしれないが、理屈はどうでもよかった。
何日分もの雨水を溜め込んでいたかのようなどしゃぶりの雨が降って、イーメルの足元に燃えていた炎は消えた。
ルカを押さえ込んでいた人々が、呆気にとられた顔で空を見上げている。ルカを押さえる力が弱まったので、ルカはそこから抜け出した。
「お姫さん」
まだ燻っている飼葉の上を歩き、焦げた丸太を上る。
縄を解いていると、煙で気絶していたイーメルが気付いて、ルカを見た。
「そなた……来てくれたのか?」
煤で汚れた顔を涙が伝い、頬に模様を作る。
「すまない、ルカ。わらわは死ぬべきだったのに」
「何言ってるんだ。俺は、あんたが居ない世界なんて考えられない」
縄を切って、二人で下に降りる。
一部始終を見守っていた人族が、イーメルを再度捕らえようと向かってくるかと思ったが、ルカ達を出迎えたのは歓声だった。
「ルカ様、ばんざーい!」
「イーメル様、ばんざーい!」
何事かと思ったら、どうやらネルヴァとセイロンが煽って言わせているらしい。
降り続く雨が、二人の涙と、人々の荒れる心を洗い落とした。
暫くしてやっと雨がやみ、我に返った人々は、ルカとイーメルの周りに集まった。怒っているのではなく、皆笑顔だ。隣で一緒に処刑されようとしていた王妃も、今は下に降ろされ、介抱されている。
ルカは事情説明に追われて気付かなかったが、空には大きな虹がかかっていた。




