1 新たな、町の住人
赤く燃え盛る炎の前に、耳の先の尖った少年が立っていた。その少年の手をきつく握っているのは少年の姉だった。
「母さん。父さん」
少年は目の前の炎に呼びかける。
燃えているのは、少年が住んでいた町だった。
姉は何も言わなかった。ただ、今にも炎の中に飛び込んで行きそうな弟の手をしっかりと握っていた。
姉に掴まれた少年の手に、水滴が落ちた。見上げると、それは姉の涙だった。
***
先ほどまでとは違う、涼しい空気の流れを感じる。
助かったのか?
生きるか死ぬかという状況に陥ることは今までに何度もあった。別に殺し合いをしてきたわけではない。単に、喉が渇いて腹が減って、動けなくなる。それが青年にとっての、ここ数年の生きるか死ぬかだった。
ゆっくりと目を開けると、自分を覗き込んでいる少年と目が合った。
「気がついたんだね」
少年の顔が綻ぶ。短めに切った癖のある茶色い髪に、深い青色をした瞳。砂漠の中の町には似つかわしくない、象牙色の肌の少年だった。
横から挿す光が眩しくて、青年は左手で目の前に影を作った。日に焼けて茶褐色になった自分の腕が見える。
「ここは?」
腕の向こうに見える天井を見つめたまま、青年は少年に尋ねた。
「ここはカザート。ヴォルテス王が治める平和な国だよ」
そう言って、少年は青年が横たわっている寝台から離れて行った。
すぐに足音が戻ってきた。
「それからこれ、確かめさせてもらったよ。武器にはなりそうにもないし、返すね」
少年は言って、青年が寝ている横に、小さなナイフと麻布でできた巾着袋を置いた。
青年が起き上がって、ナイフを手に取る。ナイフの刃の部分は青年の掌よりも小さく、両手で掴むとナイフ自体が隠れてしまう大きさだった。金色の鞘に収められていて、その鞘には首に掛けられるように、鎖が繋いである。
「これは両親の形見なんだ」
青年はそう言って、ナイフを首に掛けた。
巾着袋を開けて中身を掌に出し、確認する。特に盗られた物はないようだ。
改めて、少年を見る。まずは助けてもらった礼を言わねばならない。
「ありがとう。おかげで命を失わずに済んだ。俺の名前はルカ。ここより西の地から来た」
寝台から降りて、少年に向かってお辞儀する。
立って見ると、少年は自分よりもかなり背が低かった。
「どういたしまして、と言いたい所だけど、あなたを助けたのは僕じゃないんだ。僕の名前はセイロン。あなたを見つけたのは、僕の妹だよ」
セイロンはそう言って笑った。
ルカにミルクが入ったカップを渡す。
「西から来たって言ったけど、紛争地域から来たの?」
ルカは首を横に振った。
「別に戦争はしていなかったな。俺も適当に歩き回ってるから、特にどこがどうとか知らないんだ」
今はカザートに居るが、別にカザートを目指して歩いていたわけではなかった。ルカが探しているのは町では無いのだから。
「そうなんだ。じゃあ何の為にカザートに来たの?」
「姉を探しているんだ」
ルカが言う。
「俺が六歳の頃、住んでいた町が妖精族の軍隊に襲われて、両親を亡くした。その時、一緒に逃げていた姉とはぐれてしまったんだ。それからずっと、俺は姉を探して歩いている」
首に下げたナイフを握り締める。
ルカの町を襲った妖精族は、町に火を放った。姉とはぐれて、どこへ行けば良いのか分からなかったルカは、焼け野原になった町へ戻り、そこでこのナイフを見つけたのだ。
町で金物を作る仕事をしていた父親。その父が作った玩具のようなナイフ。
「俺は小さな町で両親と姉の四人で暮らしていたんだ。それを、あのエルフが……!」
握り締めた拳に力が入る。
思い出すと、今でも悔しい。
あの時の自分はまだ幼かった。助けを求める声に耳を塞いで、ただ姉に手を引かれて逃げることしかできなかった。その姉さえも、居なくなってしまった。
「それは良いから、ルカのお姉さんのことを教えて? 名前とか、年齢とか」
セイロンの声で、ルカは我に帰った。
「一緒に探してくれるのか?」
言って、そんなお人好しが居るわけないと思う。しかしセイロンはあっさりと頷いた。
「うん。僕はここで人の出入りを管理する仕事をしているんだ。もしかしたら、ルカのお姉さんもカザートに来ているかもしれないよ。僕が知ってるのはここ数年の分だけだけど、それより昔の記録も調べられるし」
ルカは目の前に立つ少年を見た。見た目には随分若そうだが、しっかりしている。頼りになりそうだった。
「そうなのか。姉の名前はユディト。年齢は……あれ?」
思い出そうとして、年齢がさっぱり分からないということに気付く。名前だけははっきりと覚えているのだが、それ以外が曖昧だった。身長はルカよりかなり高かったが、何しろルカが六歳の時の話だから、それも当然のこと。顔は? 髪の色は? 肌の色は? 姉なのだから、ルカと似ているのかもしれない。しかし、父親似のルカと違い、ユディトは母親似だったかもしれない。
「どうしたの?」
セイロンが訝しげに、ルカを覗き込んでいる。
「あ、いや、うん。名前はユディトで間違い無い」
「そっか。小さい頃の話だもんね。もう忘れてても仕方ないよ。ユディトって異国風な名前だね。珍しい名前だからそんなに該当する人は居ないと思うし、問題ないよ」
セイロンが笑顔で言う。
珍しい名前と言われると、確かにそうなのかもしれない。
ルカは、自分が生まれた町の名前も場所も知らない。場所は大雑把な方角を覚えているくらいだ。世界には他にも沢山町があることや、町を含んだ『国』という物があることも、六歳だったルカは知らなかった。
ルカが生まれた国は、この砂漠の国であるカザートではないはずだ。この前に居た西の国とも違うはずだ。
夏は暑く、冬には雪が降る、そんな場所だった。
「暫くこの町に居ると良いよ。大きな町だから、沢山人族が居る。妖精族もね」
セイロンが言う。
「そうさせてもらうよ」
ルカは頷きながら答えた。
改めて、部屋を見回す。木の床と壁。窓の外には見渡す限りの畑が見えている。扉の向こうは台所のようで、同じ木の壁に開いた小さな窓から向こう側の流し台が見えていた。
「ルカ、もっと寝てなよ。お医者様がね、君は栄養失調だって言ってたよ」
西日がきつくなって来たからか、セイロンが窓にカーテンを引きながら言った。
「あとその目、光に当てない方が良いんだってね。新しい包帯くれたから、夜になったら替えておきなよ」
寝台の枕元にある棚に、包帯を置く。
ルカは、布切れを巻きつけた自分の右目に手をやった。
「この町には、医者が居るのか」
医者なら、この布の下を見たに違いない。そう思ったが、手で触れてみる限りでは、自分が巻いた時のままのように思えた。
「うん。本当は馬や牛を専門に診てるんだけどね。ソルバーユ様と言って、妖精族だけど人族も診てくださってるんだ。元々は別の国で人族と妖精族の治療をしてたって言ってたよ。ヴォルテス王がその国をカザートと併合したから、その時に王室に呼ばれたんだって。でもソルバーユ様はそれを断って、断っちゃったから、元々の仕事じゃなくて牛や馬の専門にされたみたい」
セイロンが説明する。
人族にとって妖精族は、自分達を支配する憎い相手だが、そうではない妖精族も居るということだ。
それにしても、医者が診たなら何でこの目をそのままにしてるんだ?
かなり長い期間、この包帯代わりに使っている布切れを替えた覚えがない。医者でなくても、勝手に交換しようとする者が居るのが常だ。医者なら尚更、怪我をしているのかもしれないと、包帯を取って見るものだ。
まあ、見られてないなら、それでいいか。
ルカを栄養失調だと診断したということだから、病気が専門で、怪我は基本的に診ない医者だったのかもしれない。
ルカは寝台に入って寝ることにした。
「こんにちは!」
家の外から声が聞こえて、その後、扉を開け閉めする音が二回聞こえて、声の主がルカとセイロンが居る部屋に入ってきた。
セイロンと同じ栗色の髪に青い瞳。一目で、セイロンの妹だとわかる。
「ルカ、さっき話した、僕の妹だよ」
セイロンがルカに耳打ちした。
寝台からもう一度出て、立ち上がる。
「ああっ、無理しちゃ駄目よ!」
少女が叫んで、ルカを寝台に押し付けるように座らせた。
「君が、助けてくれたんだってね。ありがとう」
少女に礼を言う。
「なんだ。わたしたちと同じ言葉で喋るのね」
いきなり残念そうな顔をして、少女が言う。
何を期待されていたというのか。ルカは困惑した。
「ごめんね、ルカ。妹のマギーだよ。マギーは、君が東の国から来たと思ってたみたいで、それで残念がってるんだ」
セイロンが言う東の国というのは、相当遠くにある東の国のことだろう。そこには、ルカと同じように黒髪黒眼の、まったく言語が異なる人種が住んでいるらしいから、そこから来たと思われたのだろう。
「じゃあ、一体どこから来たのよ」
マギーが口を尖らせる。
「西から来たんだ」
最初にセイロンに説明した時と同じように言う。生まれた町の名前を知らないから、直前に居た国や町の名前、もしくは方角で説明するのが常だった。
不機嫌そうな顔をしていたマギーが、今度は突然笑顔になった。
「西? 西って、海がある方でしょ? 海ってどんな所? 大きな水溜りだって聞いたわ!」
実際に海沿いに住む人が聞いたら笑ってしまいそうな質問だが、人族は基本的に、生まれた国の外へ出ることは無い。カザートは砂漠の国で、首都であるこの町もやはり砂漠の中に無数にあるオアシスの一つだから、ここに住む人族は町の外へ出ることすら無いと思われた。
「水溜りは地面に囲まれてるけど、海は逆だな。海の中に陸地があるって感じだ」
「へぇ〜」
マギーが真剣な顔で頷く。
「あと、海の水はしょっぱいんだ」
「それ知ってる! それに、海はいつも揺れてるの!」
横で話を聞いていたセイロンがとうとう笑い出した。
そのセイロンの方へ顔を向けて、マギーが言った。
「なによ。お兄ちゃんだって、海を見た事なんてないでしょ」
「そりゃ、本物を見た事はないけど。でも知ってるよ。だいたい、海が揺れてるわけじゃない。マギー、波があるから揺れてるって思ったんだろ」
「違うの? 大きな器に塩水が入ってて、それがいつもゆらゆら揺れてるんだと思ってたんだけど」
眉をしかめて、マギーが言う。
あながち間違いでも無いように思うが、物知りなセイロンと違って、ルカは上手く説明できる気がしないので黙っていた。
「さてと。じゃあ、わたしもう帰るね」
セイロンと二人で海について話していたマギーが言った。
「おじさん、いつまでここに居るの?」
ルカの方を向く。
ルカは自分を指差した。
「『おじさん』?」
まだ『おじさん』と呼ばれるほど歳は取っていないと、自分では思っている。
「僕らから見たら十分『おじさん』だよ」
セイロンが笑いながら言う。その言葉を遮るように、マギーが言った。
「だって! 『お兄さん』だと、お兄ちゃんとどっちか分からなくなるじゃない。別に、おじさんが本当におじさんだからおじさんって言ってるわけじゃなくて……あれ、えーっと。だから、おじさんは多分お兄さんなんだけど、でもお兄さんじゃないから……」
早口に言う。しかし本人も途中で何を言っているのか分からなくなったようだ。
「うん。分かったよ。もう『おじさん』でも良いから」
ルカは困った顔をできるだけ笑顔にして言った。
「じゃあ、またね」
マギーは二人に向かって手を振って、帰って行った。
「兄妹なのに、別々に暮らしてるのか」
セイロンに尋ねる。
「仕事場が男女別だからね。マギーは羊の世話をしてるんだ。仕事が終わったら家に帰る人もいるけど、せっかくここに寝台や暖炉も用意して貰ってるし、僕はここで暮らしてるんだ。家に帰っても仕方ないしね。マギーも、一緒に働いてる人の所で世話になってるみたい」
家に帰っても仕方ないと言った。マギーの他に家族が居ないということなのだろう。
それでも、話しているセイロンの表情に翳りはなかった。今に満足している証拠だ。
「そうだ。明日には役人が来て、君の居住権の審査をするから。そんなに厳しい審査はないから、ちゃんと質問に答えてれば居住権が取れるよ」
セイロンが言った。
翌日の昼過ぎに、ルカの居住権の審査をする為に役人が来た。妖精族はある程度年齢を重ねるとそれ以上は老けなくなるから、年齢は分からない。それでも、なんとなく若そうに見えた。
「ネルヴァ様、お待ちしておりました」
セイロンが畏まって言う。
ネルヴァはセイロンに軽く頷いて、それからルカを見た。
「私はこの地域を担当しているネルヴァだ。病気だそうだね。座っていて良いよ」
見た目には、ルカと同じくらいの年齢に見える。
ネルヴァは本当に簡単な質問をルカに幾つかして、それで居住許可を出した。
「紛争地域出身じゃないから難民申請はできないんだ。動けるようなら、なるべく早めに仕事に就いて貰いたい。右目はどうだ? 包帯をしていれば大丈夫のようだが。君は正式な国民ではないから、多少きつい仕事になるかもしれないけれど、構わないか」
「構いません」
栄養失調だとか、右目を光に当ててはいけないなどど医者が言ったせいで、ネルヴァに気を使わせているようだ。妖精族に気を使われるというのは、逆に居心地悪く感じた。
ネルヴァが頷いて、石版に何かを書き始めた。書くと言っても、筆記具は必要ではなく、石版だけあれば、後は妖精族特有の力で彼らにしか読めない文字を刻むことができる。
セイロンがネルヴァに茶を出した。
「ありがとう」
少しだけセイロンを見て、また石版に視線を戻す。
片手で茶碗を持って少しだけ飲むと、また石版を眺めた。
「よし、できた」
ネルヴァが嬉しそうに言う。残っていた茶を一気に飲み干した。
石版に文字を刻む作業は集中力が必要だが、それほど大変なことではないはずだ。何を書いたのかと肩越しに覗き見たが、やはり文字らしきものは見えなかった。
「時間が掛かっていたが、何を書いたんだ?」
ルカが尋ねる。
妖精族に対する言葉遣いとしては、最低の部類だろう。だがネルヴァは意に介さない様子で、嬉々として答えた。
「私のサインだ。見せられなくて残念だよ。この円の部分を繋ぐのが難しくてな」
妖精族の力で、言葉以外に絵も伝えられる。目に見えるものではないので、読む相手が見ようとしなければ全く見えないのだが。
ネルヴァが石版を机の上に置いたので、ルカはそれを手に取って眺めた。
どうせ人族には読めないからか、ネルヴァは気に止めていないようだ。
「サインねぇ」
言いながら、どうでもいいことだと、ルカは石版をネルヴァの前に置いた。
外から複数の声が聞こえてきた。
何事かと、ルカは窓から顔を出して外を見る。窓の外には畑が連なっているが、その一角に人族が何人か輪を作るように集まっているのが見えた。
つられてか、セイロンとネルヴァも窓際に来た。
人々の輪は、畑を横切る畦道にできていた。輪の中に老人がひとり。畦道には従者を連れた妖精族の男。
「あのツェータも運が悪いな。今日はパロス総督自らがお出でなすった」
ネルヴァが言う。『ツェータ』は老人を敬って言う言葉だが、妖精族が人族に対して使うのは珍しい。そもそも妖精族には老人が存在しないのだから、老人を敬うという慣習も無いのだ。
セイロンには、人影は見えてもそれが誰かまでは分からなかった。
「そうですね。パロス総督が相手では、あの人たちも何も言えないでしょう」
人族の何倍も目の良い妖精族が言うことだ。あそこに居るのはパロス総督で間違い無いのだろうと、セイロンは思う。
パロスは代々続く貴族の家系で、そのくせ人奴隷は食費が勿体無いからと自分の奴隷を持たず、見かねた親類が貸した奴隷を、食事を与えるのは自分の仕事では無いと言い切り、死ぬまで扱使ったそうだ。
その噂が一言一句真実かと言われると定かでは無いが、それでも、そう言われるに値するだけのことはしているのだろう。
今も、年老いて歩くことすらままならなくなった老人に、「休むな」と言って鞭を打っているのだ。
周りを囲んだ人族は、パロスの仕返しを恐れて、何も言えない。
鞭の音は、離れた所に居るルカにも聞こえてきた。
あんなに弱った老人に鞭を打つなんて、何を考えているんだ? どうして誰も何も言わない。
ルカは、動き出した。
「ねえ、ルカ」
セイロンがルカに声を掛けた時、すでにルカはその場に居なかった。
「あのバカ」
ネルヴァが窓から下を見下ろして呟く。
セイロンもネルヴァの視線の先を追った。
ルカが走っている。窓から飛び降りたのだ。
人族が作った輪に、割って入る。
痩せた老人にさらに打ちつけようとした鞭を、ルカはパロスの手首を掴んで止めた。
「もうやめろ。このひとに必要なのは、罰じゃない。休憩だ」
ルカはパロスに向かって言った。
口髭を伸ばし、後ろに倒れそうなくらいに踏ん反り返ったパロスは、ルカが居る畑よりも一段高い畦道から、ルカを見下ろした。
「何を言っているのだ? 休みたいなら休めば良いが、その分、食事が減るだけだぞ」
パロスが言うと、老人はふらふらと立ち上がり、仕事に戻ろうとした。
人族の輪が解けて、それぞれの仕事場に戻り始める。
「そうじゃないだろう。働かせるなと言ってるわけじゃない。ちゃんと休憩を取らせるべきだと言ってるんだ」
ルカが言った。適度な休憩を入れた方が効率が良いことは、多々ある。
しかしパロスは、踏ん反り返った姿勢を崩すことなく言った。
「この男だけ年取っているからと休んで、ちゃんと働く他の人族と同じだけの報酬を貰ったとして、それで他の人族が納得するかね?」
「それは」
確かにそうかもしれない。けれど何か、根本的に間違っているような気がする。
ルカが生まれた町では、老人と若者は別の仕事をしていた。重労働は若者が引き受け、老人は知識と知恵で町民を導く。それで皆が納得していた。
「だから、働くにしてももっと別の、ほら、男女は別の仕事をしてるだろ、そんな感じでそれぞれの力量に合わせた仕事をした方が良いんじゃないか?」
ルカが言っている間に、パロスはもう踵を返し、自分の従者が担ぐ輿に乗り込んでいた。
「誰か、この煩い蠅を余所へ連れて行け」
ルカに向かって手を払いながら、パロスが言う。
残った二人の従者がルカの腕をそれぞれ掴んで、畑に突き倒した。
「ふん。人族は奴隷らしく、そうやって泥にまみれて暮らせば良いのだ」
鼻で笑って、パロスが言った。
輿を担いだ従者の妖精族が、掛け声を上げて進み始める。
畑から起き上がったルカは、進み始めたパロスの袖を掴んだ。
進む方向と逆に引っ張られたパロスが輿から畦道に落ちた。パロスが大きく呻いて、畑仕事に戻っていた人族がルカ達の方を見た。
従者の妖精族達も驚いた顔で見ているが、パロスを助け起こそうとする者は居なかった。
パロスが従者を振り返るが、それでも助けは無い。
パロスは起き上がると、ルカを指差した。
「誰か、こいつを捕らえよ!」
パロスの従者が、ルカの両手首を後ろで縛る。
パロスは畦道をゆっくりと歩き始めた。さすがに、もう一度輿に乗る気にはならないようだ。
「わしは先に城へ行く」
別の従者にそう告げて、パロスは残りの従者と共に畦道を進んだ。
パロスの姿が見えなくなるまで、ルカはその場に立たされたままだった。
それからやっと、ルカを捕らえている妖精族の男が歩き出し、ルカも歩き出した。
畑からセイロンの仕事場になっている家の横を過ぎ、また別の作物を植えた畑の畦道を通って、やがて大きな道に出た。
左右には赤い土壁で出来た建物が並んでいる。カザートに来たばかりのルカには、それが妖精族の家なのか、人族の家なのかは分からない。しかし暫く歩くうちに、ルカの周りに妖精族が集まってきた。
おもしろい見世物でも見るかのように、代わる代わるルカを覗き込んでいく。
ルカの縄を引くエルフは、わざとゆっくりと歩いていた。ルカの前を歩くエルフも同じだ。
ルカを指差し、妖精族の子どもが笑う。
どんな罪状になってんだ?
まだ罪が確定したわけでもないのに、もう囚人になったような気分だ。
妖精族に怪我させたら、無実ってわけにはいかないよな。
他人事のように、ぼんやりと考える。さっきルカを笑った妖精族の子どもは、連行されているルカの姿がおもしろかったわけではないだろう。その後にどんな刑を受けるか想像して楽しんでいるのだ。
実際のところ、パロスは大した怪我はしていないだろう。怪我をしていたとしても、すぐに治る。妖精族は人族よりも頑丈だ。ルカも、パロスが大怪我にならないよう加減した。
とは言え、奴隷階級である人族は本来、主である妖精族に逆らうことは許されていない。怪我や被害の度合いとは関係なく、主に反論しただけで絞首刑にされたという話もよく聞く。
ま、俺はパロスの奴隷じゃないし、そこまでってことはないだろうけど。
ルカはこれまでにも妖精族に反発し、捕らえられたことがあった。それでも今まで生きてこられたのだから今回も何とかなる。そう思った。
城に着くと門番らしきエルフが、ルカを連行しているエルフに
「今、王はおりません。代わりに王女がいらっしゃいますので、中でお待ちください」
と言った。
軽い怪我をさせただけだと思うが、王が出てくるような事態に発展しているらしい。実際のところ王は留守で、王女が対応するらしいが。
ルカは二人のエルフに連れられて、城の中へ進んだ。
廊下の角を何度か曲がって、やがて部屋に通された。
そこが裁判所であることは、同じような場所を何度か見た事のあるルカにはすぐに分かった。
パロスは既に来ていて、原告の座る席に踏ん反り返っている。
ルカは縄をされたまま、被告の席に立たされた。
暫くして、ルカが入った入り口とは別の入り口から妖精族の女が姿を見せた。それが王女かと思ったが、その女は入り口の横で歩みを止めた。
「裁判長代理、イーメル殿下」
女が高らかに言う。
同じ入り口から、豪華な装飾具に身を包んだ妖精族の女が現れた。
白に近い色の髪は、外からの光を受けて時折煌いている。カザートに来てから初めて見る髪色だ。身長はそれ程高くなく、少しばかり頭の比率が大きい為、人族の感覚では十四、五歳くらいに見える。
綺麗なひとだ。
ルカは思った。
着飾っているせいだけではないだろう。妖精族特有の大きな瞳も、先の尖った耳も、適度な大きさに収まっているし、人族の感覚では年老いて見えてしまう白髪も、妖精族であれば気にならなかった。
「この度は、裁判長である王が不在の為、わらわが裁判を執り行う」
透き通った声が部屋に響いた。
「被告は原告パロス殿に対し、暴力を振るい怪我を負わせた。これに異存はないか」
パロスに異存があるわけがない。
ルカも、イーメルが言ったこと自体はその通りであるから、異存はなかった。
「言いたいことがあるなら聞く。何か」
イーメルが言うと、パロスが立ち上がった。
「こやつめは、仕事に従事していた私を輿から落としました。他の奴隷どもが見ている目の前で、私を陥れようとしたのです。これからの仕事に支障が出るに違いありません」
パロスが席に座る。
イーメルが頷いた。それから、ルカに目を向ける。
「そなたは何か言いたいことはあるか?」
「俺は、別にこいつを陥れようとしたわけじゃないし、皆の仕事の邪魔をするつもりもなかった。ただ酷い目にあっていたツェータを助けたかっただけだ」
ルカが言い終わると、やはりイーメルは頷いた。
「判決を言い渡す。原告が被告に怪我を負わせた事は事実であるが、幸いその怪我も軽く済んだ。よって、原告は厳重注意を受けることを課す。以上で裁判を終わりとする」
イーメルの言葉にパロスは不満そうな顔を見せたが、部屋から出て行った。ルカを連れてきたパロスの従者も、パロスの後を追うように出て行く。
「厳重注意は別室で行なう。この者の案内に従え」
イーメルが言い、先に部屋から出て行った。
ルカの前に、入り口の横で待機していた女が来た。
「ついて来なさい」
青い長い髪を片側で前に垂らし、手には簡単な武器くらいにはなりそうな長い杖を持っている。簡素な服装からして位は高くなさそうだが、それでも髪飾りには金や宝石が使われているから、この城が豊かであることが分かる。
女の案内で別の部屋に移動すると、そこにはイーメルと数名の侍女、それに数名の兵士が居た。
「お前達は良い。下がれ」
イーメルが自分の傍に立っている兵士に言った。
「しかし、」
「構わぬ。たかが軽犯罪者じゃ。それに、人族ごときにわらわを傷つけることはできぬ」
言われて、兵士達は部屋から出て行った。
イーメルと向かい合ってルカは座った。
イーメルが先程の青い髪の侍女に何かささやくと、侍女はルカを縛っている縄を解き、またイーメルの後ろに戻った。
「いいのか?」
自由になった両手を動かしてみて、ルカは言った。
「そなたが厳重注意のみで済まされるのは、相手がパロスだったからじゃ」
ルカの問いには答えず、イーメルが話し始めた。
「他のエルフが相手であれば、懲役刑は免れなかったであろう」
「なんでだ? パロスもあんたらと同じ妖精族じゃないか」
「王女に向かって、なんという口の利き方を」
青い髪の侍女が横から口を挟む。
イーメルは侍女の前に手を延べて、身を乗り出した侍女を留めた。
「パロスが起こす裁判の数があまりにも多くて、こちらも困っておるのじゃ。しかも小さなことばかり。しかし法律で定めたからには、裁判を起こすなと言うわけにもいかぬであろう」
あまり困ったような顔は見せずに、イーメルが言う。
「とは言え、怪我をさせたのは事実のようだし、次にまた問題を起こしたらその時は命の保障はないと思え」
青い瞳が、ルカを見下ろす。
イーメルとルカは向かい合っているが、イーメルの方が高い位置に居る。妖精族はいつもそうだ。決して人族より目線を低くすることは無い。
「怪我をさせたことは悪いと思っている。でも、あの時ツェータが受けた痛みに比べれば」
「言い訳はもう良い。良いか? その老人が働かずして糧を得れば、必ず他の人族から文句を言われる。パロスのやったことは、度が過ぎていたかもしれないが、当然のことじゃ」
ルカが言いかけた言葉を遮って、イーメルが言った。
パロスも似たようなことを言っていたように思う。
「俺が生まれた町では、重労働は若者がやって、老人は蓄えた知識で町を守っていたし、ちゃんと敬われていた」
「老人を敬う? 百年にも満たぬ知識が一体何の役に立つ」
妖精族は人族と比べて長命だ。一般の妖精族でも百五十年ほど生きる。王族になると二百年を超えて生きることも多々あるのだ。
「なるほど。確かに、妖精族と比べれば人族は老人と言えどそれ程長く生きたわけじゃないかもしれない。お姫さんも若く見えるけど、本当は百歳超えてるんだろ? それじゃあ、老人も子どもみたいなもんだよな」
ルカが言い終わるのとほぼ同時に、イーメルが立ち上がった。
おもむろに、右手の掌をルカに向ける。
風を切るような音がルカの耳に聞こえた。
次の瞬間、ルカは後ろの壁に背中を叩き付けていた。
突然の事に、無防備に背中を強打したルカは咳き込んだ。
「わらわら妖精族がこうやって力を使って魔族を倒さなんだら、一体誰があやつらを退治する? 人族は魔族に皆喰われて、それで終わりじゃ」
目に見えない、妖精族特有の力。力が強く巨大な魔族と対抗するには、妖精族のこの力が不可欠。
「人族と妖精族は決して対等ではない。わらわらの力で人族は生かされているのじゃ。人族が妖精族の為に尽力するのは当然のことであろう」
違う。
ルカはそろそろと立ち上がった。
人族は守られるだけの存在ではないはずだ。
「お姫さん達が人族を扱使い続けるなら、人族は魔族に喰われるよりも辛い生活を送らなければならない」
イーメルの目が、ルカの頭の先からつま先まで見た。
しかし、そのまま踵を返してしまう。
「ちょっと待てよ。お姫さん、あんたはこんなとこに居るから知らないだろうけど、地方じゃ人族の反乱が起こってるんだ」
出口へ向かっていたイーメルの歩みが止まった。
ルカを振り向く。
「そなたは、他人の話ばかりするのだな。そなた自身はどうしたいのじゃ」
イーメルは静かに言った。
「俺は……」
服の上から、首から提げた小さなナイフに触れる。
許さない。俺の町を滅ぼしたあのエルフを。
ルカの町を滅ぼした軍隊を率いていたエルフを見付け、町の人たちの仇を討ちたい。それが、ルカの願いだ。
しかしそれを今言ってはいけないことくらい、ルカには分かっている。
「俺は、姉を探しているんだ。そうだ、お姫さん、もし心当たりがあったら教えてくれ。名前はユディトと言って――」
「わらわにそなたの姉探しをしている暇はない。人族がどうの、妖精族がどうのと言っておきながら、そなたがやりたいことは姉探しか。つまらん」
イーメルは薄く笑って、そのまま部屋から出て行った。
侍女達もイーメルの後を追うように部屋から出る。代わりに、兵士が一人入ってきた。
「セイロンの家まで案内する。付いて来い」
今度は縄を引かれるわけではないが、常に高圧的な妖精族の態度には辟易する。まだ町に来たばかりのルカの為に、城から自宅まで送ってくれるというのは親切なのだが、城へ向かう時と同じように晒し者になっているような気がした。




