第50話
「……そう、ね……こんな出逢いでなければ……私達……もっと違う関係だったかもね……っ」
エカテリーナはそう言って笑った。
「だけど…私を壊したのは、アルベルトよ……こんな気持ち、抱きたくなかった」
「………っ」
「でも……その破片を拾い集めて抱きしめてくれるのも…あなたしかいないの」
「わたしも、ですよ…っ」
そう言ったあと彼女と私は力一杯抱きしめ合う。
どちらからともなく顔をあげて見つめ合うと──
「エカテリーナ…最初で最後の愛を、抱かせてくれて…ありがとう……ございます」
お互いに愛を告げあう。
「……私こそ…これから先、来世がもしあっても──アルベルトが誰を愛そうとしても、私の死に顔がその邪魔をしてあげる」
「……私こそが、あんたの最期の女よ」
「…それを言うなら…っ、こんな男と一緒の道を選んでしまったこと───貴方の一生の後悔として、添い遂げてあげなくては、なりませんね…っ」
今この瞬間だけは、過去も未来も関係ない。
復讐も、運命も、呪いも、何もかも。
それらすべてが、どうでもよく思えた。
ただ目の前にいる彼女と過ごす、この一瞬だけが現実だった。
私はゆっくりと息を吐いた。
空気は重く、薄い。
呼吸のたびに肺が軋むように痛む。
この空間の酸素が、確実に尽きかけていることを私は理解していた。
だが不思議と、恐怖はなかった。
むしろ静かだった。
まるで、長い戦いの終わりに辿り着いたような、奇妙な安堵が胸の奥に広がっていた。
視線を横へ向ける。
そこに、エカテリーナがいた。
彼女は壁にもたれるように座り、静かに呼吸をしている。
蒼白な顔。
額には汗が滲み、呼吸は浅くゆっくりになっている。
それでも…その瞳は、まだ美しく光っていた。
私の知る彼女のまま。
どこまでも強く、どこまでも気高い。
「……」
私は、何も言えなかった。
言葉にすれば、この静かな時間が壊れてしまう気がしたからだ。
彼女も同じだったのだろう。
しばらくの間、私たちはただ抱きしめ合い、沈黙を共有していた。
遠くで瓦礫が崩れる音がした。
どこかで水滴が落ちる音もする。
だがそのどれもが遠く、曖昧に聞こえる。
この世界に残されているのは、私と彼女だけのようだった。
エカテリーナがふっと息を吐く。
そして、少しだけ口元を歪めた。
苦笑とも、諦めとも取れる表情。
「……最悪で、最高ね」
その言葉は、あまりにも彼女らしかった。
私は思わず小さく笑ってしまった。
「……ええ」
頷くしかなかった。
最悪だ。
状況はどう考えても救いがない。
逃げ道はない。
未来もない。
だがそれでも、彼女と共にいるこの時間は確かに幸福だった。
私は視線を彼女へ向けた。
エカテリーナも、こちらを見ていた。
その瞳の奥にあるものを、私は理解してしまう。
覚悟。
そして静かな愛情。
胸の奥で、何かがゆっくりほどけていく。
私はこれまで、多くの理屈で世界を理解してきた。
論理、計算、確率、未来予測。
だが、今だけはそれらすべてが意味を持たない。
ただ、彼女がここにいる。
それだけで十分だった。
そして、どちらからともなく引き寄せられるように
唇が触れた。
「ん……っ」
柔らかくて、温かい。
それだけで胸が締めつけられる。
長い時間のようでもあり、ほんの一瞬のようでもあった。
言葉は必要なかった。
唇の触れ合いだけで、互いの想いが伝わってくる。
彼女の指が、私の服を弱く掴んだ。
呼吸が少し乱れる。
そして、かすれた声が耳元に落ちた。
「ある、べると……」
言葉が途切れる。
息が続かないのだろう。
それでも彼女は、必死に続けた。
「だ……い……き、よ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が焼けつくように熱くなる。
私は返事をしようとした。
彼女の名前を呼ぼうとした。
その前に、エカテリーナの身体から力が抜けた。
「……」
彼女の瞼が、ゆっくり閉じていく。
呼吸も、さらに静かになる。
私は慌てなかった、理解していたから。
これは苦しみではない。
ただ、眠りに落ちていくだけだと。
そして、最後に聞こえた彼女の愛言葉
『……大好きよ』
その声は、とても小さかった。
けれど確かに、私の耳に届いた彼女の最後の言葉だった。
「……」
私はしばらく、何も言えなかった。
彼女の身体をそっと支える。
もう呼吸はほとんど聞こえない。
だが顔は穏やかだった。
苦しんだ様子もない。
ただ静かに、眠っている。
私は小さく息を吐いた。
「……来世では……」
声がかすれる。
だが、最後まで言いたい
「きっと、普通の人間として逢いましょう……エカテリーナ」
私はずっと、人ではなかった。
怪物だった。
そして彼女もまた、普通ではない運命に巻き込まれていた。
だからこそ思う。
もし次があるのなら
今度こそ何も背負わず、彼女とただ普通に同じ時間を生きたい。
私はゆっくり目を閉じた。
空気はさらに薄くなっている。
肺が重く、意識が遠くなる。
それでも苦しくはなかった。
彼女の体を、頭を、体温を腕の中で感じながら
(これでいい)
私は彼女と一緒に死ぬことを選んだ。
後悔はない。
低酸素に喘ぐこともなくただ、静かに
眠るように、私はエカテリーナとほぼ同時に目を閉じた。
まるで、長い夢の続きを見るように。




