第30話
「……は?」
思わず呆気に取られて、私は顔を上げた。
この底なしの絶望の中、彼女が投げ込んできたのが
こんなにも能天気で、突拍子もない解決策だとは思わなかった。
「だって! アルベルトさんがどこのスラム出身なのか分かれば、何か見つかるんじゃないですか? 記憶のかけらとか! 昔のご家族とか!」
興奮気味に両手を広げる彼女を、アルベルトは冷めた目で見つめ、即座に否定した。
「見つかるわけないでしょう。そんな、簡単に」
至極真っ当な理屈だ。記憶もなく、名前すら奪われ
ただ「スラム」という漠然とした情報の海から、二十年近く前の痕跡を探し出すなど。
「故郷、帰ってみたくありません?」
ダイキリはさらに身を乗り出し、横に座るアルベルトを真っ直ぐに見つめた。
彼は突然の提案に対し、処理落ちした機械のようにわずかに首を傾けた。
いつも通りの動作のはずなのに、ほんの一瞬
その瞳が微かな期待か、あるいは恐怖で揺らいだ気がした。
「故郷、ですか」
呟くような低い声。
そこに明確な感情は読み取れないが、少なくとも
これまでの彼なら即答したであろう「無意味です」という拒絶はなかった。
「……無駄足になったらどうするおつもりです?」
「そのときはそのとき、善は急げです!早速明日出発しましょうよ!」
「ちょっと、決断が早すぎるわよ。それにスラムなんて行ったことないし、アルベルトの家が具体的にどこにあるのかだって……」
「それなら大丈夫です! 私、スラム行ったことありますし! 案内できますよ!」
「え、本当ですか……?」
アルベルトの問いに、ダイキリは元気よく胸を張って頷いた。
「はい! お母様とお父様が、前にスラムで暮らしてたことがあって、そこから故郷を探したことがあるんです! だから、少しは役に立てますよ!」
「……え、お父さんって……私の、あの父のこと?」
「はい! だから、私に任せて欲しいです!」
「ダイキリ……」
その言葉に、私は一瞬、胸が詰まるような思いがした。
彼女もまた、父の複雑な事情の中に組み込まれた犠牲者なのだ。
「……まあ、スラムということしか、手がかりがありませんしね」
現状、私たちの手元にあるヒントは尽きかけていた。
テープの解析も、資料の読み込みも、もはや限界だ。
ならば本人をその場に連れていき、五感──
匂い、空気、音──
その全てを使って強制的に記憶の深層を刺激するのは、案外、筋の通った作戦なのかもしれない。
特にアルベルトの場合、記憶は「消えた」のではなく、養父の手によって「塗り潰され、眠らされている」だけなのだ。




