エピソード22:父の記憶と氷の棺の誓い
嵐のような新体制への移行。
王として、指導者として、止まることを許されなかったナバールの歩みが、ようやく一つの区切りを迎えます。
張り詰めていた糸がふと緩んだとき、人は何を思い、どこへ向かうのか。
一人の少年が背負ったものの重さと、その奥に隠されていた「本音」に触れていただければ幸いです。
やるべきことをやり終え、俺はふと、父のいないこの国に、改めて深い寂しさを覚えた。
アルテオがしばらくいるとはいえ、彼もいつかは帰る。
俺は静かに一人、父との記憶を辿るように城内を歩いた。
今まで王になる身として、押し込めていた感情が溢れ出す。
父と剣の稽古をした中庭、夜遅くまで灯りがついていた執務室。
温かく、力強かったアラン王の面影が、城の至る所に残っている。
やがて、俺は城の最奥、厳粛な氷の棺の間へと辿り着いた。
部屋にはすでに、アイリス王太后、アルテオ、オーウェン将軍、そしてエドル特命官が集まっていた。皆、俺が築いた新しい体制を、一つの区切りとして故人に報告するために集まったのだろう。
彼らにとって、アラン王の死はまだ終わっていない。
俺は一歩一歩、棺に近づいた。
「父上」
俺は、氷の棺に手を置いた。その冷たさが、父の死という現実を、突きつけるように俺の掌を痺れさせる。
公務が終わった。
母上(王太后)も、アルテオも、オーウェンも、エドルも。
皆、新体制の下でそれぞれの役割を背負い、力強い歩みを始めた。
その全てを、この冷たい棺の中に眠る父に報告し終えた。
もう、王として、指導者として、やるべきことは全てやった。
これから始まる外遊の準備も、各国への布告の文面も、全て手配した。
俺は、一歩も動けなかった。
新王としての誓いも、今後の計画も、堂々と言い切ったはずなのに。
冷たい氷の棺に触れた手は、熱を失ったように感覚が薄れていく。
その代わりに、胸の奥底で押し殺していた「何か」が、堰を切ったように溢れ出しそうになっていた。
「……ナバール」
母上が、静かに俺の肩に手を置いた。
その手は、先ほど謁見室で俺を抱きしめてくれた時の、温かい、母の手だった。
俺は、公の場で母を抱きしめた時、ただ安堵していた。
父の死に打ちのめされることなく、気丈に振る舞っていた王妃が、ようやく「母」に戻ってくれたことに、安堵していた。
でも、本当は、母上と同じように、俺自身も王としての仮面を被っていただけだったのだ。
俺と母上の間には、言葉はなかった。
ただ、二人の間に流れるのは、亡き父を思う、静かな、しかし耐え難い悲しみだけだった。
ふと、父の顔が、棺越しにぼんやりと見えた。
幼い頃。
「ナバール、落ちるなよ!」
父は、太陽みたいに笑って、俺を大きな肩に肩車してくれた。
城の中庭にある、背の高い木の実を取るためだった。
俺の小さな手が、ようやく実を掴めた時の、父の「やったな!」という力強い声。
俺の視線は、いつも父の頭上にあって、世界はこんなにも大きくて、そして楽しかった。
あるとき。
父上は、護衛もつけずに俺と二人だけで森の奥へキャンプに出かけた。初めて二人きりで過ごす夜だった。
不器用な父が、火起こしに失敗して顔を煤だらけにしたこと。焚き火の煙に二人で咳き込んだこと。
夜空には、王都では見えない無数の星が瞬いていたこと。父の不器用さと、優しさを独り占めできた、最高の思い出だった。
思えば、あんなにバレバレな変装をしていたのに。
父は、髭を付け、ボロ布を被って、それでも隠し切れない威厳を漂わせながら、俺と一緒に城下町へ出かけた。
「父上、全然バレバレじゃないか!」
「ば、馬鹿者!これは変装だ!いいから、この菓子を買ってきてごらん。エドルには言うなよ」
そして、バレバレの変装は、案の定、城に戻ってすぐにエドルに見破られて、二人揃って大目玉を食らった。
あの時のエドルは、本当に怒っていたけど、その顔の奥には、俺たち親子の思い出を見守るような、優しい光があった。
父の笑顔。力強い手。温かい背中。
その全てが、今、目の前にある氷の塊となってしまった。
もう、触れられない。
「あ……」
声にならなかった。
喉の奥から、乾いた空気が漏れるだけ。
俺は、これまでずっと、父の死に際しても、一滴の涙も流さなかった。流す時間も、余裕も、許しもなかった。
俺は、王として、国を守るために、心を鉄で覆い続けてきた。
しかし今、その鉄の蓋が、軋んだ音を立てて弾け飛んだ。
「うっ……あ、ああ……っ」
俺は、その場に膝から崩れ落ちた。
冷たい石畳に、頭を打ちつけそうになる。
母上が、慌てて俺の身体を支えようとしたが、俺の身体は重かった。
「父上……お父さん……! なんで……!」
王としての威厳も、体裁も、全てがどうでもよくなった。
ただ、俺は、父を亡くした一人の息子だった。
「いやだよぉ……、さみしいよぉ……っ、うわあああああああ!」
嗚咽が、止まらない。
胸の奥から、腹の底から、絞り出すような悲しみが噴き出して、俺の体を激しく揺さぶった。
隣にいたアルテオが、そっと俺の背中を撫でてくれる。
オーウェンとエドルは、一歩下がった場所で、静かに顔を覆っている。
彼らも、王としてではなく、一人の人間として、アラン王を愛していたのだ。
俺は、遠慮なく、叫んだ。
「お父さん……っ、また……! また一緒に、星をを、みたかった……っ! 色んな話を、したかった……っ!」
まるで駄々をこねる子供のように。
国王でも、指導者でもない。ただ、父を失った、泣きじゃくる俺が、そこにいた。
母上は、何も言わずに、ただ俺の背中を、強く、強く抱きしめてくれた。
その温もりが、俺の凍り付いた心を、溶かしていくようだった。
どれくらいの時間、泣き続けたのか。
俺は、ようやく顔を上げることができた。
視界は、涙でぐちゃぐちゃだった。
鼻水も、涙も、全てを拭うことなく、俺は改めて氷の棺に眠る父を見つめた。
悲しみは、消えない。
だが、心の奥底で、何かが確かに変わった。
「父上。大丈夫だよ。俺は、もう泣かない。あなたが愛したこの国を、俺が守るから」
この涙と、思い出の全てを胸に。
俺は、再び立ち上がった。
必ず。
ヴェルガーの暴走を止めてみせる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、新王としての激務を終えたナバールが、ようやく一人の息子に戻って涙を流す、物語の大きな節目となる回でした。
父アラン王との肩車、キャンプ、バレバレの変装……。
楽しかった思い出を振り返るほど、今の静寂と冷たい棺が胸に刺さります。
しかし、心ゆくまで泣きじゃくり、心の蓋を外したからこそ、ナバールの瞳には「新王」としての真の覚悟が宿ったのではないでしょうか。




