第93話 失われた被験体
第93話 失われた被験体
非公開ノードから切断した後も、
研究所の空気は重かった。
ミレイは再び端末を開く。
「まだ終わっていません」
「……何が?」
「封印ログには、実験映像だけじゃなく“報告書”があるはずです」
彼女は深層キャッシュを呼び出す。
閲覧時に自動保存された断片データ。
そこに――
ひとつの文書ファイルが残っていた。
> 実験報告書・最終版
被験体コード:N-01α
状態:消失
記録担当:時間遷移基礎研究班
直樹の指先がわずかに震える。
「開け」
ミレイはうなずいた。
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報告書は、淡々としていた。
> 被験体は生体反応を示すが、
観測データが保持できない。
記録媒体に値が定着せず、
すべての数値がNULLへと崩壊する。
「……同じだ」
直樹は呟く。
第91話で再出現したログ断片。
不完全な歪み。
保持できない存在。
文章は続く。
> 仮説:被験体は“時系列同期”から外れている可能性。
そのため観測行為自体が記録構造を破壊している。
「観測が、壊してる?」
「ええ」
ミレイは画面を見つめる。
「“測ろうとすること”が、存在を不安定化させている」
直樹は苦笑する。
「じゃあ俺、放っとかれた方が安定するのか」
「……皮肉ですが、理論上は」
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報告書の末尾に、手書きスキャンの追記があった。
> 追記:被験体は恐怖を示した。
自らの“記録不能性”を理解していた可能性。
研究の継続は倫理的再検討を要する。
直樹の胸が締め付けられる。
「恐怖……」
百年前の彼は、
自分が記録できない存在だと知っていたのか。
「俺も、最初は怖かった」
消える感覚。
誰にも証明できない孤独。
画面の文字が滲む。
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さらに下へスクロールする。
最後のページ。
> 消失日時:再起動前基準時刻
00:00:03
ミレイの呼吸が止まる。
「……三秒前」
「何の?」
「直樹が“リセットを始めた”時刻の三秒前です」
直樹は固まる。
「そんな……」
百年前の被験体の消失時刻と、
現代の直樹が世界をリセットした瞬間。
三秒の差。
ほぼ一致。
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「偶然、か?」
直樹の声は乾いていた。
「百年も離れてるんだぞ」
「年代は違います」
ミレイは首を振る。
「でも“基準時刻”は同じ」
「……どういう意味だ」
「国家AIが使う内部時間軸は、再起動ごとに継承されます」
彼女は画面に別のログを重ねる。
「つまり、百年前の実験も、あなたのリセットも――」
「同じ“時間系”の中で処理されている」
直樹の背筋に冷たいものが走る。
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報告書の最終行。
> 結論:被験体は完全消失したとは断定できない。
記録外領域へ移行した可能性あり。
再出現の可能性を否定できず。
研究班の署名の横に、
小さな手書きの一文。
> 「彼は、どこかにいる。」
ミレイの指が止まる。
直樹は静かに画面を見つめる。
「……いる、って」
「百年前の研究者は、消滅を信じていなかった」
「じゃあ」
直樹は息を吸う。
「俺は、その“再出現”か?」
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沈黙。
やがてミレイが言う。
「完全な同一個体ではないでしょう」
「コピーでもない」
「はい」
「でも」
彼女はゆっくりと言葉を選ぶ。
「時間の外縁に押し出された存在が、
別の時点で“再同期”した可能性はあります」
直樹は笑う。
「再同期、ね」
「あなたがリセットを始めた瞬間」
ミレイは画面の時刻を指す。
「時間構造が大きく揺れた」
「……」
「その揺らぎが、百年前の“未解決の存在”を引き戻した」
直樹は目を閉じる。
「俺が、俺を呼んだってことか」
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研究所の窓の外。
都市の光は静かに瞬いている。
だが、深部では。
> 境界個体関連ログ:歴史一致率上昇
危険度評価:再計算中
AIが演算を続けている。
直樹はぽつりと呟いた。
「百年前のやつは、怖かったって書いてあったな」
「……ええ」
「俺は、どうだと思う?」
ミレイは直樹を見る。
「怖いですか?」
しばらくの沈黙のあと。
「……少し」
直樹は正直に答える。
「でも」
彼はゆっくりと言う。
「百年前の誰かが“いる”って信じてくれたなら」
画面の最後の一文を見つめる。
「今度は俺が、ちゃんと“いる”って証明する番だろ」
ミレイの目が潤む。
「ええ」
失われた被験体は、
記録できなかった。
だが今。
記録できない存在は、
“自分で自分を選んでいる”。
百年前に消えた三秒は、
いま再び動き始めた。
時間は閉じていない。
それは、
直樹という形で続いている。




