第48話 四面廻廊2
確固たるイメージがあると、執筆が早いかもしれません。あとは、子ども達関係かなぁ……。
ギリシャのフォキア地方にあるパルナッソス山。その南山麓に位置する都市国家がある。
かつて古代の王達が重大な政治的決断をするにあたって、神意を問うた場所。その神殿を含む聖域が今も息づく街。それが、デルフォイであった。
街の都市機構と隣接する神域には、常に地底から立ち上る霊気に包まれた聖域がある。そこでは、選ばれた巫女達が神憑り状態で語る謎めいた詩の神託が下される。
神託が下りる際、周囲には神の権威を顕すかのように甘い香りが立ち込めるという。現代人であれば、その甘い蒸気が地震を引き起こす二つの断層から立ち上るエチレンガスであり、神憑りとは意識異常を引き起こしているものだと解るだろう。
神話の時代、ゼウスが決めた世界の中心として名前を知られた場所には、今も滾々と湧き出る聖なる泉があるのだと言う。名高いカスタリアの泉を有する聖域は、幾世代にもわたってギリシャの魔術師達によって守られてきた。
オスマン帝国による三百年以上に亘る支配と、不平等な共存の歴史を辿りつつ、近代化していく他の欧州と袂を別つ道を選ばなければならなかった都市。
そこには、帝国の支配に抵抗する勢力と難民として西欧州に逃れる者達とがあった。
魔術師である者達の多くは、聖域を守るためデルフォイに留まる途を選んだ。
やがて戦乱にあけくれる激動の時代に生まれたヘレナにも、若さと苦悩に揺れる日々があった。
『まやかしだ!』
強い口調で非難する魔術師の声が、聖域内の託宣所に近い場所で響いた。その声は、高い女性特有のものだ。
『口からでまかせじゃないか!』
『ヘレナ! 神託を疑う気か!?』
非難を受けた事を不服とする男性の声が反論する。しかし、その言には同僚を諌めようとする声色が含まれていた。
見方によっては、まるで彼女に同情している男性であった。その態度は、仕方ないと幼子を宥める親のようでもあった。
それでも、彼女の非難は止まらない。激しい感情が、彼女の内で煮えたぎる怒りとなって爆発している。そんな激情が伺えた。
『あなたたちは、故意に神託の内容を曲解してるんだ!! でなきゃ、私が選ばれない筈が無いじゃないか!』
アポロン神が下す神託は、アテネを中心とするエーゲ海全域において特別な意味と権威を誇っていた。
日常の諸問題から国家的な政治問題まで、神託による神の啓示は広く市民の信用と賛同を勝ち得ていた。
古代から中世にかけては、敵を騙すために巫女達が敢えて間違った内容を流布したこともあった。しかし、多くは戦争で相手を怯ませ、または敵を油断させる目的のため意図的に流されたものだ。
有名なところでは、かのトロイ戦争しかり、オイデュプス王の悲劇しかりだ。
興奮しきりといった様子のヘレナは、納得できないとばかりに同門の男性魔術師に怒りの矛先を向けていた。
『ヘレナ、神殿の決定は他ならぬプロフェーテスが神官に伝えたのだぞ。お前は、それを疑うつもりか?』
不意の声を探して、ヘレナ達四つの眼が向けられる。
長めのローブを纏った男性魔術師が、彼女に声を掛けていた。
身なりの良い衣服に合わせて、育ちの良さが伺える。精悍な顔付きに、鋭い灰色の眼を持っている。その男は、若さと力を併せ持つ俊英だった。
同門のヘレナでさえ、彼には一目置いている。互いに技を競い、自分に次ぐ実力の持ち主だと認めているからだ。
『バルベイトス!? どうして? まさか実家の権勢を振りかざすつもり? いくらあなたでも……』
『口を慎め。家は関係無い。名家の権勢など、神官を勤めるクレフテス様が相手にするとでも思うのか? あの方は合理的な考えを好み、法と秩序を重んじる方だぞ』
非難の矛先を向けられた男は、理路整然と彼女の誤解を指摘して解きほぐしていく。
論理的な思考と頭の回転の早さは、優秀な魔術師である証拠でもあった。
『神殿の決定は、何より神託の祭儀を取り仕切るプロフェーテスを勤めた師も認められたことだ』
『違う! 我が師ダイダロスが認める筈がない!』
論理より感情が、彼女自身の心が現実を認めようとはしなかった。認めてしまえば、二度と覆る事は無いと解っていたのだから。
唇を噛むヘレナの様子をバルベイトスと呼ばれた男は見ていた。
その眼差しには、某かの覚悟が窺える。揺るがない視線は、彼女に向けられていた。
『ヘレナ、神託の内容は巫女達こそが証人だ』
説き伏せようとする行為は、時に相手を過度に刺激することもある。その行為が、尊いものであっても、だ。相反する感情が、要らぬ邪推を生む。それが普段どんなに聡明な者であってもだ。
正に、ヘレナがそうであった。
『我が師は、私こそ相応しいと仰ってくださったんだ!』
両手を広げ、必死に訴える姿は彼女の苦悩を体現していた。乱れた髪が、彼女の心の揺れを伺わせた。
『昔から、祭事の大役だけは実力さえあれば女にも与えられてきたんだ!』
力が入った指先が震えていた。
『なんで今年に限って男だけに渡さなきゃならない? ホシオイは五人もいるんだ! 去年までは女も許されていたよ!』
ヘレナの言葉は、女性魔術師が直面する類いの問題だった。それは一人の女傑が奮闘しても、簡単には覆せないほどの慣習という重みを持っていた。
神託の祭儀は、神官の名の元に一人のプロフェーテスが立ち会い、五人の補佐役たるホシオイ達が巫女達を聖域の最奥へと導くものだ。
『我が師の元で、聖器と聖獣の扱いを習ってきたのはホシオイになりたいからなんだ。それなのに……』
『ヘレナ、神託は安易に疑いを差し挟んでいいものじゃない。お前にはホシオイに選ばれる力はあるんだ。時期を待て』
優しく諭すバルベイトスの言葉は、ヘレナには届かない。
『ダメなんだよ……』
聞き取れないほどの小さな声だった。
次いで彼女の本心を現した言葉は、激情をして叫んでいた。
『それじゃ、ダメなんだよ!』
震える肩は、必死に嗚咽を抑えていた。
『今年の巫女には……。あの娘が……、妹がいるんだ!』
男を見上げる視線に、強い決意が漲っている。
『妹がいるんだよ!』
其処まで言って、ヘレナは崩れ落ちるように地面に膝を落としていた。
感情が理性を突き崩したのか、抑えていた涙が頬を伝う。
『私が守らなきゃ、妹には何の力も無いんだよ! あるのは母様から譲られた魔力だけ……。他国から来る帝国貴族の誰かに目を付けられたら、あの娘は……』
ヘレナの口元に、ぎりと歯を噛み締める音がした。止めどなく流れる涙が、ヘレナの頬を伝い落ちる。
元々、姉のヘレナと妹のアグライラとは仲の良い姉妹であった。
親を亡くしてからは苦労しながらも支え合って、励まし合い生きてきた二人であった。
見目麗しい妹は、輝くばかりの金髪と魔力持ちという素養によって今年の巫女に選ばれていた。
だが、後見の無い若い巫女には決して薔薇色の未来ばかりではなかったのだ。
貴族に目をかけられ、半ば愛人として囲われる事もあった御時世だ。意に染まぬ人生を他人に決められるとあれば、生まれ持った美しさなど呪いでしかなかった。
まして可愛い妹は、先日ヘレナに恋しい人が出来たとはにかみながら教えてくれたばかりだったのだ。
彼女が神託の儀式に関わる祭儀の大役に選ばれたなら妹を守れるだけの発言力を持つ事ができる。妹の幸せを願う姉は、そのために血を吐くような思いで修行に明け暮れてきたのだ。
ヘレナの気持ちを知ってか知らずか、バルベイトスが彼女の肩に手を置いた。
『巫女達は我等が必ず守る。ヘレナ、お前は……』
温かい筈の手は、彼女の自尊心を逆撫でしていた。
『触るんじゃないよ!』
怒りに任せた炎が上がり、聖域の空を焦がした。
それは、あまりに迂闊だった。怒りに任せて魔力を扱ったヘレナは、その手に火を宿してしまった。その火が、罪となって彼女自身を責める。
自らの失態に固まるヘレナの眼に、炎を避けるバルベイトスが映っていた。
後悔が、彼女の胸を過る。
『ヘレナ!』
叱責する同門の魔術師が彼女の名前を叫んだ時、すでに彼女の姿は走り去る罪人のように小さくなっていた。
その日の暮れ、魔術を志す同門の門弟達が集う学舎に入る人影があった。
丁重な扱いを受ける男の影は、そのまま学舎の奥へと進んでいく。周囲を動き回る者達の影も、男を敬い下にも置かない態度を示していた。
学舎の主人、ダイダロスが帰って来たのだった。
彼は固く口を結んだまま、或る一室で待つ弟子との面談を行っていた。
薄暮に傾く西陽が、空を茜色に染めはじめていた。
『そうか。やはりな』
『はい。申し開きもございません』
獣油を使った灯りの火が微かに揺れた。
窓辺から射し込む西陽が、二人の男性魔術師がいる室内を赤く照らす。
夕焼けを眺めながら、背の高い壮年の魔術師は小さく嘆息した。疲れのせいか、陽にやけた顔には憔悴の色が見える。今年のプロフェーテスを務めたダイダロスその人であった。
ヘレナ達を始めとする魔術の一門を率いる彼は、相応の悩みに顔色を曇らせていた。その事を知る弟子も彼の前で跪き、頭を垂れたままだ。
叡知を湛えた瞳に、強い決断の色があった。沈黙の後で、彼は漸く重い口を開いた。
『戦の影が近付いている。大事な巫女達を護るためであった』
寡黙な師を仰ぐ弟子は、他ならぬバルベイトスであった。
師の言葉は、誰に向けて話したものだったか。その表情に疲労を滲ませたダイダロスが、傍に控えた弟子を呼んだ。
『はい、我が師ダイダロス』
『しかしヘレナには、私亡き後に弟子達を率いてもらいたかったが……。人の心だけは、うまくいかぬ』
重い口からは、人生の全てを魔術に捧げた男の悲哀にも似た慚愧の想いが短く洩れた。
数刻前まで祭儀の全てを取り仕切っていたのだ。彼でなくても全身に倦怠感があるはずだ。まして精神的にも疲れを増す事があったばかりだ。
『バルベイトス』
師は、厳かに弟子に告げた。
『はい、我が師よ』
弟子は顔を上げて師を仰ぎ見る。その崇拝者にも似た若者を見て、ダイダロスは決意のほどを弟子に語った。
『研究中の結界魔法をお前に引き継ぐ。明日から忙しくなるぞ』
驚きを隠せない弟子に、ダイダロスは深い叡知を湛えた瞳を向けた。
『……は、はい!』
教えを乞うに足る者と己の成果を託すに足る者とが、師弟の縁を強くした瞬間だった。
しかし、この決断は周囲に多大な影響を与えることとなる。彼等に起因する影響が具体的に現れたのは、それから間もなくのことであった。
『己の好きな場所へ行き、好きに生きよ』
突然の師の言葉に、ヘレナは驚愕せざるをえなかった。尊敬する人物からの追放宣言に、彼女は動揺した。
『今、なんて?』
それだけしか、聞くことが出来なかった。
『ヘレナ。お前はあまりに名誉欲が強すぎる』
『ダイ、ダロス様……』
魔術の同門を顕す生なりのローブが揺れた。
『私が、師から受け継いだ秘法を授けるには向かないだろう。魔術の研鑽はもう十分だ。自由にするといい』
『そんな! 私が何をしましたか!?』
食い下がるヘレナに、師は深い叡知を湛えた瞳を向けた。
『聞こえなかったのか!? ヘレナ、お前は追放だ!』
高弟達の責めるような叱責がヘレナに突き刺さる。
既に決定事項として受け止めた周囲の状況に、彼女の理解だけが追い付いていなかった。彼女を助ける者は無く、厳しい視線だけが向けられた。
共に学ぶ志を共有した筈の仲間達が、手のひらを返していた。
其処に、灰色の眼をした魔術師がヘレナの見知った人間を連れて来た。
『お待ちを!』
『バルベイトス!!』
高弟達が厳しい視線を向ける。
そこには、同門のバルベイトスだけでなく美しい金髪を揺らす巫女の一人が連れ立っていた。駆けつけた二人の息が上がっている。
『御姉様! 待ってください! 話が……』
『あなた、アグライラ?』
どうして此処に、とヘレナは妹を見遣る。問い質す事は出来なかった。
妹の手が、隣にいる男の袖を掴んでいた。
師が口を開いた時、彼女は更に驚くことになった。
『ヘレナ、妹のアグライアの後見のために彼女の縁組みを決めた。バルベイトス家を嫁ぎ先として決める予定だ』
後見の無い巫女のため、神官などが親代わりとなって良縁を結ぶ事は珍しいことではなかった。ただ、姉であるヘレナが知らなかっただけだ。いや、知らされていなかったと言うべきか。
『……今、なんと?』
その視線は、師へと向けられていた。事の真偽が、俄には信じられなかった。
『二人も同意している。お前達が持つ優秀な血筋は、次の世代へと繋げなければ……』
師の言葉もヘレナに届いていなかった。
『幸いバルベイトス家も快く快諾してくれた。もう心配ない』
可愛い妹。二人だけで支え合って生きてきたかけがえのない存在。
ダイダロスの高弟達に見出だされるまで、明日の生命も不確かな時を過ごしてきた。ヘレナにとって、たった一人残された血を分けた家族。
最近、恋しい人が出来たとはにかみながら教えてくれた妹。その花のような笑顔に癒されたおかげで、厳しい修行にも耐えられた。
今、目の前で寄り添うように立つ二人を見て、彼女は理解していた。
『私だけ……。私だけを除け者にして、全て決められていたのですか?』
姉を見ていた妹の顔が、曇る。
『師よ!!』
震える声が、止められなかった。
『お答えください! 私は不要ですか?』
涙に滲む視界が歪んで、もう何も見えなかった。
『好きに生きよ、我が弟子ヘレナ』
『……!』
絶望と呼ぶべき衝動が、全てを粉々にしていた。
それから後のことは、よく覚えていない。きっと、録なことがなかったのだろうとヘレナは思う。
バルベイトス家の者達が、何度も彼女の居場所を探しては訪ねて来た。やがて妹が結婚し、幸せを掴んだと風の噂に聞いたこともあった。
かつての仲間達が、帝国による圧政に抵抗して戦死したとも聞いた。
どうでもよかったのかもしれない。彼女にとって、魔術だけが寄る辺となった。
それから幾百、幾千の昼と夜を過ごしたか、ヘレナは覚えいない。
『火刑に処されるのかい?』
巡回に来た獄吏に、彼女が尋ねた。
『魔女狩りに捕まるとは……。ハッ! 私も焼きが回ったね』
何も答えない獄吏に愛想を尽かして、ヘレナは長い息を吐いた。
『目指す異国の果てまで行きたかったが、ね』
遠くを見ているような眼は、多くのものを失った孤児のそれに似ていた。
足首に付けられた鎖が、ジャラリと鳴った。
『なんだい? 雁首揃えて! 聞かれても、秘法は喋らないよ!』
政府の人間とやらに、怒りをぶつけた。彼女が操る結界魔法は、かつての師のそれを超えたと言われていた。畏怖の対象となっていた魔法は、彼女の誇りでもあった。
『最後の晩餐と、懺悔の機会はあるのかい? ちっ、シケたところだよ!』
数日後、巡回に来た獄吏と牧師の二人をヘレナは睨み付けていた。
ボソボソと聖句を唱える牧師は、彼女の顔を見ないまま胸の前で十字を切った。
その日の彼女は、特に機嫌が悪くなった。
『それでも、この国の夜には魔力を感じる。あんなに星々の力を感じるというのに……』
全ての者が等しく眠る夜に、ヘレナは小さな窓にのぞく星を見ていた。
『私は掴めないのかい?』
星は小さく、遠くにあった。
『また、この手からこぼれてしまうのかい……?』
見つめる手は、皺が増えて細っていた。手枷を付けられ、自由はなかった。
もう一度見上げた小さな夜空には、星が瞬いていた。その星が、ひどく頼りない存在に思えて、彼女は息を吐いた。
星夜の記憶が、魔術師ヘレナの最後の記憶となった。
固有魔術に関するエピソード、という視点でまとめたかった話でしたが思わぬ方向に……。引き続き、アルカナをよろしくお願いいたします!




