第46話 破滅の予兆3
遅くなりました。アルカナ本編です!
「……なん、で?」
理解が追い付かない沙樹の眼前で、何の前触れもなく春香が消えた。
その余りの唐突さに、少女は現状を理解する事が遅れてしまった。そう、今其処にある危機さえ失念していたのだ。
その隙をつくように、ローブが揺れる気配が近付く。ただならぬ魔が、密やかに歩み寄ってくる。
『フフフ……。さあて、お嬢ちゃん』
冷たい、肝を冷やす声がかかる。
『私の星に相応しいか、確かめさせて貰うよ』
いつの間にか振り上げられた魔女の手に、片手斧の刃が鈍い光を湛えていた。
「あ……、う……」
自然に漏れてしまった声は、言葉を紡ぐことはなかった。
その怯えた表情を見て、魔女の口角が上がる。
『すぐに楽にしてあげる』
渾身の力を込めて、魔の手が高みから降り下ろされる。
一条の光が二人の間を裂くように走った。
「つぅ……」
掌に走る熱さ。
ぽたりと流れる赤い血の色。
激しい痛みによって、沙樹は自分の感覚が日常から解離していくのを感じていた。
彼女の心を抉る強烈な殺意の存在。
十代の少女に向けられる容赦の無い負の感情。それは、見えない猛毒のように少女の心を蝕み続ける。
(この人、本気で私を殺そうと……)
震える手で、出血を止めようと触れた自らの指先は、氷のように冷たい。
反面、焼けるように熱い傷口の感覚が、沙樹に非情な現実を告げてくる。魔女の一撃は、確かに沙樹の生命を狙って降り下ろされていた。
それは、紛れもない事実。
血が止めどなく流れる左手を肩の高さに保つ。握り締めて止めようとした血潮は、痛みのあまり触れる事さえ躊躇われた。
やむなく沙樹は左手首を握り締めて、止血を施していた。
『フフフ……』
古の魔女は、片手斧に付着した沙樹の血を眺めていた。
その瞳には、潤んだようなうっとりとした艶を含んでいた。まるで愛おしいものを見つめるように優しく、妖艶な目付きだった。
狂気に濡れる瞳を伏せて、魔女は感動していた。
『この血。この色。この艶といい、内包する魔力量といい……』
高鳴る胸の鼓動が溢れ、言葉には抑えきれない興奮があった。
『私の望む”星“に相応しい……。高貴なる青い血の血統に間違いない。ああ、最高じゃないか……』
片手斧を抱く魔女の姿は、愛し子を抱く母親のよう。
『甘い……』
魔女の白く細い指が、形のいい唇に触れる。
甘美な陶酔に酔いしれる様は、さながら娼婦のよう。
『痺れるような鈍い甘味を感じる。魔力が甘露となって、結晶化しているんだね……』
片手斧に着いた血を舐めとる様は、魔女としての顔に他ならなかった。
『堪らない……。』
脳髄まで痺れるような陶酔に、魔女は酔う。
それが、勝者にもたらされた供物であるかのように、再度赤い血を舐める。そして、感極まったのか瞳を閉じたまま快楽の余韻に首を反らしていた。
黒い髪が、その背に流れる。
『フフフ……』
魔女の胸中に込み上げてくるものは、いったい何だったのか。
『アハハハハハハハハハハハハ………………!!』
天井を見上げたまま、魔女が笑う。
狂ったように笑う件の魔女が見せる狂態に、沙樹の心は呑まれていた。
背筋に、ゾクリとしたものが走る。薄ら寒いものを感じる気味の悪い空気が、彼女の周囲を覆っていた。
それは、これ迄の人生で経験したことの無い強い感情の発露。いや、激情と言っても過言ではなかった。
あからさまで露骨なまでの敵意と、剥き出しの激しい殺意。
他人から向けられる敵意と暴力は、彼女ならずとも十代の精神の均衡を突き崩すほどに衝撃的だった。
(に、逃げなきゃ……。でも、春香が!?)
慌てて周囲を見回した沙樹は、誰の人影も見つける事が出来なかった。焦る気持ちのまま、今度は二階へと続く非常口を探して、そして断念する。
記憶が混乱しているのか。困惑する沙樹の額に、じわりと汗が伝う。
あるはずの出口が、見えないのだ。
講堂内に数ヵ所も設置されている案内板さえも、何故か何処にも見当たらないのだ。逃げ出そうにも出口がない現状に、沙樹は絶望的な悲愴感を感じざるをえなかった。
いつの間にか、気味が悪いと感じた不穏な空気が講堂全体に広がっていた。
だだっ広い空間に、静寂が降りる。
不安ばかりが増していく状況に、沙樹の心は言い知れない何かに塗り潰されていく。
「……逃げられない、の?」
笑い続ける魔女を視界に入れて、沙樹は胸の鼓動を抑えきれなかった。
知らずに、自分は追い詰められている。
漸く追い付いてきた認識は、沙樹に不利な状況を告げる。
元々、運動は得意なほうではなかった。今の沙樹にとって、魔女を出し抜いて逃げ出す算段を調えるなど不可能に等しいことだと思えた。
だとすれば、己の運命のために選ぶべき選択肢は自ずと限られていた。否、初めから決まっていたのだろう。
それが、最善か否かは分からない。それでも己にあるのは、たった一つの方法だけ。
あの日、自分から変わりたいと決意した時に運命は決まっていたのかも知れない。
幸い、召喚に関する魔法陣は覚えている。ならば、もうやるしかなかった。
(最初は確か、五芒星だった……)
頭の中で、彼女は必死に記憶を手繰っていく。
(それから、二重螺旋を表す楔が円周上に決められた配置で置かれて……)
具体的な心的表象が組み立てられていく。
床に屈み、素早く左手を動かす。右手に伝う血で何かの図形を描いていく。
護身用に教えられた簡易魔術。
近代に掲げられた魔術理論により再構成されたそれは、術者の魔力を唯一の鍵として狙う効果を発動させる。その効能は、なんと言ってもタイムラグを最小限にする事だ。
僅か数秒間の術式構築の最中、沙樹は知らず魔力を高めていく。本能的に察知した生命の危機に、彼女に内在する稀有の能力が呼応していた。
『何をしてるんだい?』
背後からの魔女の問い掛けに、身体がびくりと反応する。
「ひっ! あっ……」
咄嗟に叫んでしまった声は、裏返っていた。驚愕して立ち上がろうとした沙樹は、失敗する。
慌てて後ずさるように距離を取った頃には、魔女は足元の魔法陣を見ていた。正確には、魔法陣だったものをだ。
既に、構築していた魔法陣は踏み消されていた。
残された希望が砕け散った。誰の眼にも、そう思えた瞬間だった。
一瞬の静寂が、永遠に続くような錯覚があった。
何処からか吹き抜けたる風が、沙樹の黒髪を揺らす。
聞こえない筈の声が、少女を励ます。
見えない筈の手が、少女の肩を支える。
不過触の神聖な気配が、少女へ愛情を伴って現れる。
少女の危機に呼応する“特別な魔力”に火が灯る。
それは、彼女だけが持つ神秘の力。
それは、時に運命すら覆す力。
アルカナの魔力が、所有者たる沙樹にとって絶望的な状況を打破すべく動いていた。
魔の領域にある力が魅せる刹那の煌めき。その鮮烈な輝きが、講堂を覆う空気を塗り替えていく。
少女の傍らに、記憶の中に描いていた召喚魔法陣が再現されていく。炎のように赤く燃え盛る朱線が、魔法陣を改めて描き直す。
突然吹き上がった炎の幻影に、魔女が飛び退く。
眷族を召喚すべく女帝の力が発現していた。
流れる血潮を代償として、沙樹自身と所縁のある使い魔が、アルカナに引き寄せられていた。発動する魔法陣の中に現れるのは、白と黒の色彩を持つ蛇。それは、智恵者の姿を形どっていた。
浅い眠りから醒めたように、少女の使い魔が口を開いた。
「主人よ、此処は何処だ? それにコレは……」
使い魔の周囲には、既に見られたことで円環の魔術が発動している。不貞不貞しい態度に、揺るがない不屈の精神を宿した使い魔が顕現していた。
「ウロボロス! 来てくれたのね!! メフィストはどこ?」
急かすように少女が尋ねる。
「……聞いていないのか、主人よ? 奴は去った」
「えっ!?」
驚嘆する主人の疑問に答えるべく、錯視の蛇は端的に説明する。
「理由は分からぬ」
使い魔同士が感じる魔力の絆なのか、蛇の言葉には確信があった。
「だが、奴だけが持つ独特の気配が館から消えている。それは確かだ」
錯視の蛇の話しは、沙樹にとって俄に信じられないほどのものだった。
「元々、奴は先代の主人であった亜也の使い魔ではないのだ」
「そんなこと!?」
信じていた使い魔達への信頼が揺らぐ。蛇の言葉は、沙樹にとってそれほどの衝撃をもって受け止められていた。
奴は、と蛇が続ける。
「亜也のことを慕い、亜也のためにと当時混乱の極みにあった長崎を制圧しに来たのだ」
蛇の青い双眸が、知性の光を映す。
だが、その錯視の蛇の瞳に沙樹は何処か奇妙な違和感を感じていた。
魔眼を宿した少女の瞳を使い魔が見返している。
「少なくとも、当時我を創った魔術師達はそう考えていた」
自らの主人へと、使い魔は説明する。
「長崎に奴が居座り続けることがないようにと、奴の魔三角陣を調べるように命じられていたのだ」
「いったい誰に?」
沙樹の問い掛けに、錯視の蛇は淡々と答える。
「亜也を筆頭とした、そなたの家族からだ」
「そんな!? だって……」
あくまで冷静な蛇の物言いに、沙樹は落ち着きを取り戻していた。いや、むしろ少女は顔面蒼白となって、脱力したように話に耳を傾けていたと言うべきか。
その時だった。錯視の蛇の様子に、変化が訪れた。
「……どうやら今は無用な問答は控えたほうが良さそうだぞ、主人よ」
主人を気遣う使い魔の心配をよそに、事態が変転する。危険な魔力が音も無く近寄っていた。
『なんだい、この蛇は? さっきの幻は、お前の仕業かい?』
『下がれ、亜流の魔術師よ。主人の御前だ』
ギリシャ語で警告する錯視の蛇に、ヘレナが感嘆の声を洩らす。
『言葉は、分かるようじゃないか』
生なりのローブに描かれた幾何学模様が、目につく。揺れるローブの下には、少女のような手足が見えた。
だが、その堂々とした態度は熟練の魔術師のそれだった。
『他にも色々と知っているが?』
『言うね』
ニヤリと口を歪めて、魔女が笑う。
『コレは、お前の仕業か?』
冷静な使い魔の声が詰問する。その青い双眸は、些かも魔女を侮ってはいない。そして、魔女もまた警戒の色を見せていた。
沈黙する魔女に、不遜な錯視の蛇が言い放つ。
『たいしたものだ、亜流にしてはよくやる』
その挑発的な物言いに、ピクリと魔女の美しい眉が動く。感情の発露を隠しているのか、その表情からは魔女の内心は窺い知れない。
だが、剣呑とした空気が周囲に伝播していた。
『私の魔法は、偉大なる師の教え……』
『黴臭い古典だ。我が忘却の彼方に送ってやろう。光栄に思うがいい』
錯視の蛇の更なる挑発が、敵意を煽る。見る間に拡がっていく錯視の円環。
『……この私の魔術が、黴臭い? 私の魔法が古臭いだって?』
怒りに震える声は、己の矜持を守らんがためか。
『辺鄙な極東の島国の猿どもが……。よほど後悔したいようだね?』
『出来るかな? 正統な後継者のみが次代へと語り継がれる魔法界の掟……。知らぬ訳でもあるまい。所詮、亜流など価値の無い路傍の石と同じよ』
魔女の瞳が見開かれる。狂色の炎に燃え盛るような気迫が漲る。
全身から嵐のように魔力が吹き荒れ、講堂内を威圧していく。加害魔法の真骨頂が発現していた。
『お前の魔力には覚えがあるよ……。以前に私を殺してくれたね? そうかい、なら気が変わった。主人ともども、此処で眠らせてやるよ!』
狂色の瞳に、狂おしい感情が荒れ狂う。
『永遠にね!!』
冷徹な蛇の口元が、笑みを浮かべた気がした。
『我が主人は血を好まぬが、不遜な態度は許されぬ。残念だ』
円環の魔術が発動するなか、錯視の蛇が更なる魔力を集中した。
『よっと……!』
二階から階下の講堂へと続く廊下を光一は走る。
途中、邪魔な生徒達と幾度か遭遇したが逃げろとだけ言って面倒を躱していた。
彼にとって、今は急ぐことがなによりも重要であった。
少年も逸る心を抑えきれなかった。
(間に合ってくれ!)
少女二人が残された講堂に、いったいどれ程の危険が渦巻いていることか。今も野獣の咆哮が耳に残っている。最悪の状況が、容易に想像出来る。
光一は肺が痛むのも構わず、全速力で講堂へと戻っていた。
「なんだよ、ここは?」
息を整える間も無く飛び込んだ講堂は、全く違う場所になっていた。距離感が狂っているとしか思えない状況に、光一の思考が停止する。
流れてくる汗が止まらないのは、走ってきたからだけではなかった。
(こんなに広かったか? そんなわけないだろ!? ヤバい匂いがプンプンする……)
少年の立つ非常口から見える景色は、広大な空間が霞に煙る様子だった。
数メートル先を見通せない。見えていた場所が次第に霞がかってくる。
魔術絡みの明らかな異常事態に、光一はポケットにしまっていた赤い石に手を伸ばしていた。
「とにかく、支倉さん達のところに急ぐか……」
そう言って駆け出す少年は、異常な空間へと自ら足を踏み入れていた。
ラストに立ち会う登場人物は、大体揃った。あとは頑張って突き進むだけ!
そう思いながらがんばります♪




