第4話 序幕3
その夜は渇いていた。いつの頃からか、この町には似つかわしくない程の喧騒と人の営みが集まりだし、ただならぬ雰囲気を持つ者達が、町に紛れ込み始めていた。
自然と、夜は危険な匂いを放っていた。その匂いを嗅ぎ分ける者は少数だが存在する。そうした荒事に慣れた者達や取り締まる立場の者達、または危険を糧と住み着いた者達だ。
それらの中で、最も危険なものが今日も夜の町を彷徨いている。
その男は、運び屋のようなことに手を染めていた。ここ数年、稼ぎの良い仕事を探して自然とたどり着いたのがこの町だった。いろんな仕事を請け負ってきた。運ぶブツの種類を問わず稼いだせいで、裏稼業の連中に目をつけられたのが運の尽きだった。危ない仕事を遣らされそうになって、男は足を洗う決意をした。遅い決断だった。
遠く離れた家族のことを思って最後にしたのが今夜の仕事だった。ところが、それが男の予想を超えていた。運搬自体は順調で問題なかった。むしろ簡単過ぎたくらいだ。指定された場所へ着いた時、そこで会ってしまった。決して出会ってはならない者に。
今や男の生命は風前の灯に思えた。逃げ出して走り続けたが、一向に安心出来なかった。
ただ怖かった。ブツを渡した相手は裏の世界の男だ。それは間違いない。この仕事で勘が働くようになったのだ。特に怒らせなければ危害を加えられることもない。渡したあとに終わるはずだった。
隣にいた黒尽くめの奴。あれに睨まれてしまった。冷酷な気性を口元に、その視線に感じてしまった。何よりもはっきりと。
危険を感じて強張る男のことなど人間として認めていないかのように、奴は隣の男に言った。殺していいかと。
走り続ける男の呼吸は荒く、肩で息をしていた。表情には焦りの色が濃く出ていた。なりふりかまっていられなかった。ビル街の裏路に入り、やっと息をつくと男は後ろを警戒した。視線を外さず、いつ来るかと怯えながら路地の奥を見ている。計算しても、どれだけ走ってきたか分からなくなっていた。
多少は時間を稼いだはずだ。だが、撒いたとは思えなかった。男は一息つく間もなく、乱れた息のまま再び逃げだした。
ビル街の表通りへ抜け出そうとしたところへ、視界の端に動くものを見た気がした。刹那、黒尽くめの影が近寄っていた。音もなく、壁を伝ってくる奇怪な動きを隠しもせず。まるで蜘蛛のような気配があった。
「もう逃げないのか?」
影が男に言った。無機質な抑揚の無い声が、そう尋ねてきた。男の腕に、知らずに鳥肌がたっていた。警戒しつつ、素早く辺りに目を配ったが周囲には誰もいない。明かりが付いた窓すらなかった。助けは呼べない、と男は覚悟した。ひとりでに喉が鳴った。
「自分が運んだものが何か、気にしたことはあるか?」
「し、知りたくもねぇ。だいたい、何なんだ? 追っかけてきやがって!」
男は精一杯の声で虚勢をはった。だが黒尽くめの影には通用しない。一顧だにされなかった。
「確かに、世の中には知らないほうが良いこともある。深淵の中にあるものに触れる名誉は、一生に一度の確率だ。お前がせっせと運んでくれたおかげでほら、このように成長したぞ」
そう言いながら、影が懐から何やら取り出している。現れたものは、またもや男の予想を超えていた。
「なんだ、そりゃあ……」
黒尽くめの男が手に持つそれは、赤子ほどの大きさの頭蓋骨だった。腐敗した肉が付着しているのか、鼻を突く酷い臭いがあたりに充満してくる。吐き気とは違う嫌悪感、いや忌避感が沸き上がってくる。影は今確かに成長したと言った。なら男は今まで一体何を運んできたというのか。男は膝が震えるのに気付いたが、止められようはずもなかった。
「冥土の土産に教えてやろう。これこそ秘跡『カトル・ユー』だ。おまえが何処に逃げ出しても、この四つの目に睨まれたものは、この地上に逃げ場などない。この目が獲物を捉えて離すことはないからな」
男が見たそれが、その頭蓋骨の中の目がぎょろりと動く。まるで男を見つめるように。
「どこに逃げようと、この神秘の力の前では無駄なあがきとなる」
影の独演は続く。
「これで俺が、この町にある秘宝を手にすることができる。誰も手にすることが出来なかった神秘をこの俺様がなぁ!」
昂る感情を抑えようともせずに影が笑う。乾いた声は、暗い通路に響き渡る。聞こえた者に、不快な感情しかもたらさない声で自慢するかのように笑った。
一頻り笑うと、影は満足したのか、眼前の男を見た。ねめつけるような視線を送り、右手に持った髑髏を自らの左肩に滑らかに乗せた。異様な感じを受けるが、何がそうなのかが男には分からなかった。
それでも危険を察知して男が旬順する間に、影は大振りで肉厚の刃を構えた。それは、鋼の輝きを持つナイフであった。
「もういいな?」
影の宣告は、男に避けようのない死を運ぶ訃託となった。
影の発した狂気に、男は悲鳴すらあげられなかった。薄暗い路地裏の一 角で、生命の消える瞬間が迫っていた。
同じ頃、夕闇が降りた街中を疾走する人影があった。高校の制服姿のまま走るその姿は、若い女性のものだった。行き交う人々の波間を縫うように走り、脇目もふらずに駆けていく。しなやかな所作と力強い動きが同居する彼女の風貌は遠目からは判然としないが、肩までの綺麗な茶髪が揺れて見えた。細く長い手足と、スタイルの良さは特筆すべき美点だ。階段の段差など一足で飛び越えていく後に、僅かな鈴の音がシャンと響いた。
表通りから一つ奥の路地裏に入り、その影は唐突に停止した。四辻の手前で息一つ乱さず、ポケットから一抱えもあるような式符の札を取り出す。たおやかな手つきで取り出した札を両手のひらで包むように持つ。その女性的なシルエットからは、誰も彼女が強力な術者であるとは予想しえない事だろう。
祈るような彼女の佇まいは、突如、音もなく舞い上がり、広がる何十枚、何百枚もの呪符によって力の発動を示した。彼女の願いを込めて、呪符が四方へと渦を巻くように広がっていく。
祈るような、慈愛に満ちた表情さえ浮かべる少女は、目を閉じたまま動かない。僅かにそよぐ微風さえも彼女を避けて流れているようだった。
空間に幽かに漂う力の揺らぎを感知して、少女の瞳が開かれた。
「……見つけた!」
言うが早いか、術者の少女はビル街の一点を凝視したまま、脱兎の如く駆け出した。
駆けながら、彼女の周囲には力場のような濃密な気配があった。集まり出したとでも言うのか。殺気立つ空気を伴って、ある決意を秘めて少女は駆け抜けて行く。
産毛が逆立つような感覚が強くなる。ピリピリとした空気に、恐いという感覚が沸いてくる。
しかし、少女の疾走は衰えを見せず、薄暗い路地裏へと向かって行った。
何かを突き抜けた感覚に少女が顔を顰めて足を止めると、今度は違う種類の何かを捉えていた。路地裏には、異臭が立ち込めていた。血の臭いと鼻を突く腐臭が混ざりあったような、なんとも言えない代物だ。十代の少女には、刺激が強すぎることだけは間違いがなかった。
飛び込んだ先に、血生臭い光景が広がっているなど、誰が予想できるだろう。非日常にある血と暴力が、その場を支配していた。一人立ち尽くす影の足元に、血まみれになった男が倒れていた。
「無関係な一般人に手を出すなんて、正気の沙汰とも思えないんだけど……」
「なんだ、お前は?」
低い声が問う。
「 答えるつもりはないわ」
言い淀むことなく断言した少女は、目の前の影を睨み付けている。
「守護者……ではなさそうか?」
低い声は、思わず洩れたものか。相手を値踏みするような視線が、警戒色を示して突き刺さる。だが、それはすぐに侮蔑と殺意に塗り替えられた。
「同業者か? だとしたら、運がなかったな。見られた以上、帰すわけにはいかないからな」
影はそう言いながら、自分の肩口から髑髏を手に取っていた。禍々しい狂気が一気に膨らむのが分かる。黒尽くめの服に返り血を浴びた姿が、一層禍々しさを強めている。少女を見る双眸が険しさを増していった。
それに対して、少女の方は影から放たれる殺意の塊を柳に風と受け流していた。
「そんなもの、この町じゃ珍しくもないわ」
「秘宝の探索に来たんだ。せめて死ぬ前に俺が持つ秘跡の力を見ていけ!」
影が手にした髑髏にある四つの眼が、一斉に少女を捉える。
「秘宝は俺のものだ! 誰にも渡さん!」
四つの眼から、不気味な赤い光が洩れる。
「私の宝物を狙おうだなんて……」
いつの間にか、俯いていた少女の表情は伺うことができない。それでも、固く握り締められた掌に力がこもったのが分かる。
「魔術絡みじゃ、手加減なんて出来ないし……」
吐き出すような言葉には、むしろ悲哀のような響きがあった。
異変に気付いたのは、影のほうだった。発動させた秘跡が効かないのだ。髑髏の眼に捉えられた者は、すべて無力化される。それが、眼前の少女には効いていない。その有り得ない事態に、考えが間に合っていないのだ。自分を取り巻く力場のような濃密な気配に、影は覚えがあった。この町に来てから、時折感じていたのと同じ種類の気配があった。
「さあ見ろ! この神秘の体現を……」
哀れな影は、最後まで言葉が出なかった。不意に襲ってきた衝撃に、身体ごと吹き飛ばされていた。一度ではなく、二度三度。右だけでなく、左や頭上など、感知できない方法、方向から何かが影を襲った。
飛び散る何かの破片が、物体の衝突による物理的破壊を狙ったものだと告げる。何度めかの衝撃を受けながら、影はようやく反撃の糸口を掴んだ。
右手の壁に設置されていた扉がガタガタと揺れていた。そして、あろうことか影目掛けて飛んでいくではないか。スピードに翻弄されていた影は、ここぞとばかりに迎え撃った。手にするナイフに掛けられた魔術による効果でドアの構造を破壊する。突き刺さる箇所から、放射状に亀裂が走る。バラバラに崩壊していくドアの破片が、影の最後の記憶となった。
フェイントとして放たれたドアの向こうから、少女がトップスピードで迫る。破砕されたドアの破片が宙を舞う中、まさしく電光石火で蹴りあげられた影の身体が後を追った。
異質な気配が霧散した路上では、倒れた二つの影と、立ち尽くす少女の姿だけがあった。吹き飛んだ影は、少女の一撃で完全に沈黙していた。
「まだ間に合うかな? 急がなきゃ……」
少女は片方の影に駆け寄ると、血で汚れるのも構わず、すぐに倒れた男の首筋で脈を取った。弱々しい脈動を確認すると、片手で呪符を取り出して発動させる。呪符を中心に何やら蒸気のようなものが上がるが、気にした風もなく少女は音声認識で手元の携帯電話を操作する。
「……はい、春香です。パパに連絡して。それと西山通り側に救急車を呼んでください。はい、お願いします」
腕時計型のデバイスとして利用される携帯電話に停止信号を送ると、春香は眼下の男性に止血を済ませる。取り敢えず今は、救命措置が第一だった。応援が来てくれるまで、自分がやらなければならない。年端もいかない少女の手際は充分なものだった。
昂る感情を宥めるように、顔を上げて深く呼吸する。
暗い路地裏に、ひんやりとした風が吹き抜けていく。一瞬の出来事だったが、命のやり取りをした事実が春香の胸に無言の圧力となって去来する。
今更ながら、掌が汗ばんでくる。眼下に横たわる男の吐息が安定しているのを確認しながら、膝からゆっくりと下ろしてやる。
薄暗い場所で一人でいる寂しさからか、汗ばむ手を握り締めて春香は立ち上がった。表通り側の通路に数歩、軽い足取りで進む。すると急に何かの干渉を感じて立ち止まった。
背中を嫌な汗が流れていく。再度、掌が汗ばむのが分かる。何者かの視線を感じて、春香は振り返った。髑髏の眼窩が自分を捉えている。
「えっ、なに? これ、本物だったの?」
春香の行動が制限された理由は、カトル・ユーの能力であった。この秘跡に対象として視認された者は、見られるが故に「深淵」に捉えられる。
見られた者は、自らも見たが故にカトル・ユーに捉えられてしまうのだ。視線を合わせることで発動する類いの魔術であり、外部からの干渉がなければ解除出来ないとも言われている。魔法界において「深淵」と呼ばれている神秘であった。
ニーチェの言葉には、こう記されている。『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまたおまえを見返すのだ』と。
如何なる秘術を尽くしたものか、秘跡として形を与えられたものが眼前の髑髏であった。
春香は、足止めを余儀なくされた。
「こんなことしてる場合じゃないんだけどなぁ」
ぼやく彼女のため息が、閉塞された空間に繰り返し響いた。




