第3話 序幕2
登校する生徒達の波。春香の視線の先にいる少年は、その波間を睥睨するように周囲を見渡していた。少女達二人は、校門付近にできた人混みを縫うように歩いていく。
嫌でも近づいていく距離に、春香の手元で鈴の音が鳴った。
「おはよう。支倉さん」
件の少年は、礼儀正しく前を歩いていた沙樹に話しかけた。柔らかいアルトは、聞く者に安心させる響きを持っていた。
年齢の割りに背が高く、身体の線もしっかりしている。制服を着た細身の身体は、物腰から十分に逞しさを感じさせた。短めの頭髪がスポーツマンらしく、頼れるクラス委員長という印象だ。
彼に続いて一緒にいる他の生徒達も次々に挨拶する。学校の生徒会の面々なのだろう。朝早くから登校してくる全員に、にこやかに笑顔で対応している。
この学校では、男子の制服は上が濃紺のジャケットに、下は灰色のチェック柄ズボン。女子の制服は濃紺のブレザーとスカートで、こちらは特に大人びたデザインと胸元の可愛らしいリボンの組み合わせが秀逸なため人気が高い。
「おはよう、委員長」
「委員長~、私もいますよ~」
沙樹と春香の二人も明るい笑顔で対応する。いつもと変わらない日常の風景だ。
「あぁ、おはよう。久和さん」
少年が笑うように春香の挨拶に返答した。
「朝から省略された気がしますけど、何に集中してらっしゃいましたか~?」
さも意味ありげに目を細めた顔に、周囲の生徒達がまたかと苦笑している。トゲのある春香の攻撃に、周囲は好意的な視線を送っている。委員長と呼ばれた少年は、困ったような顔をして言った。
「……ごめんよ。そんなにさみしがり屋さんだとは知らなかったよ」
「誰がさみしがり屋さんよ!」
かみつく春香に周囲の少女達が割って入る。
「春香っ、負けてる負けてる」
「だいたいねぇ、レディを捕まえて毎回お子ちゃま扱いとか……」
「ほら、みんな見てるよ」
「春香、ストップ!」
「はいはい、教室行こうね」
微笑ましい程度の口喧嘩に、沙樹も慣れた様子で見ていた。その彼女を見ていた少年が、沙樹に少し困ったような顔で話しかけた。もっとも、口許は笑っていたが。
「支倉さん、ごめん。彼女のこと頼むよ」
「わかってる」
騒ぐ少女の罵詈雑言も、微笑み合う二人には関係ないようだった。若干、苦笑気味ではあったが。
そして件の少年、柳楽光一にとっても、当たり前の日常の風景だった。
始業前の教室で、春香は自分の席に座って一人黙っていた。ふてくされている、というのが正しい評価だ。クラスメイト同士の会話が弾むざわめきの中、仏頂面でいるのも可愛い絵になっている。
傍らには、机を挟んで沙樹が座っていた。
机に思いっきり頬杖をついた春香の視線は、その傍らの沙樹に向けられていた。
ほとんど目が座っている。
「……ねぇ、なんで?」
春香の問いかけに、手元で教科書を見ながら沙樹が答える。
「なに、春香?」
「なんで、いつも柳楽のことを見てるのかなって?」
ガタン、という音が聞こえそうなくらい、動揺する友人を眺めながら、春香の視線は彼女に据えられたままだ。慌てて居ずまいを正そうとする沙樹のほうも、教科書を取り落としそうになって慌てて掴み直している。
「べ、別にいま見てた訳じゃないし、クラス違うし……。あ、あのね」
なんとか返答しようとする沙樹の声は 高い。元々クラスが違うのだから、ここにはいないと沙樹は言いたかったようだ。
「そりゃあ、私とは知り合ってから間がないと思うんだよね。でも、水臭いじゃない?」
ジト目で自分の手元を眺めながら、春香は続ける。
「沙樹ちゃん……。女の子にはさあ、必要だと思うんだよね」
春香が人差し指で机にのの字を書きながら、呟くように話し出す。視線は、いつの間にか机上の指先に落ち着いていた。
「……な、何が?」
「勿論、恋バナ」
ガタン、と今度こそ音を立てて周りから椅子が寄せられる。本当に、すぐに二人の周りに二、三人の女子生徒達が集まって来た。
「いま、楽しく話そうと呼ばれたわけで……」
「そうだよー。沙樹ちゃんが呼んでくれるなんてね」
「勿論、楽しみは分かち合うべきです、ねぇ」
そう言って会話の進行役を振られた春香も、この布陣に収まっている。春香としては、あまり気にした風でもなく話を進めていく。
「私から見た感、脈ありだと思うのよ」
「春ちゃん、鋭いツッコミです」
「具体的に言うと、誰だれダレ?」
「こら、聞き役に徹してこその恋ばなよ。面白そうだから邪魔しないの」
周囲の友人達が作る人垣に、沙樹はただ顔色を赤くしていくだけだ。頬に赤みが射したまま、狼狽する様は年頃の少女らしい。手に持った教科書が握り締められてしまっている。
「あ、あのね春香。私は脈なんて普通でいいんで……っていうか何でみんないるの?」
「こういうことは、集まったほうが良い知恵が出るんですよ」
「義を見てせざるは勇なきなり、よ」
周りで高まる期待感を知ってか知らずか、春香だけは冷静さを保っている。むしろ、その思考は冷めているくらいだ。沙樹を見る表情は真剣味を帯びているように見えた。
「楽しそうなんだよね……」
小声で呟く声は、聞く者になんと聞こえただろうか。
「その……見てなかった訳じゃなくて、やっぱり、見てたっていうか。いや、見てたのは、その……」
「少しは……想ってるんじゃない?」
春香の一言に、周囲が反応しかけたところ、教室の扉が開かれる音が聞こえた。年齢30歳前くらいの担任の先生らしき女性教師が入ってくる。スーツ姿の教師が視界に入ると、教室内のほぼ全員が慌ただしく席に着きはじめた。
沙樹の返答を聞く前に、集まった少女達も散っていく。舌打ちが聞こえたような気がするのは、ご愛敬か。
話の途中で打ちきりとなった春香は、いたって平静な面持ちで、かえって赤面している沙樹のほうが表情に出ていた。もう、全てが。椅子に座り直す沙樹が、言いたいことも言えないまま前を向く。
春香は、仏頂面をやめて授業に専念しようと気持ちを切り替えた。表情は変わらないように見えるが、彼女はその日一日、内心穏やかではなかった。
ホームルームが終わりを告げて、ようやく学校の規則的な一日が流れ始めた。
放課後の教室内に、春香と友人達が居残っていた。ここにいない沙樹の帰りを待っているのだ。
彼女は少し前に担任の先生に呼ばれて職員室に行っている。朝方に集まっていた少女達が、再び春香の席に集合していた。
「私達は中学一緒だったし、ねぇ?」
春香の隣にいる少女が言う。当然、話題は朝の続きだ。
「だよね。沙樹ちゃんも柳楽くんとは話してたもんね」
それに応えるのも、事情通の友人だ。
「沙樹ちゃん、昔から可愛かったし、時間の問題かなぁって」
「そうそう、お互い告白しないから、見てるほうがもどかしくって」
「「だよね~」」
二人の声がハモる。
「流石に二人の仲を噂する娘はいたけど、邪魔しないのが公然の秘密だったんだよね」
春香が質問する。
「それって、クラス公認だったってこと?」
「ん~、そんな感じ?」
二人が顔を見合わせて答える。
「そっか~。やっぱりね」
春香の表情を気にした少女が、口角をあげて聞いた。
「あら、春ちゃん何がショックなの?」
「回答拒否」
「ほら、お姉さんに何でも話そう?」
「つ~ん」
「さ、機嫌直して。話すとスッキリするよ」
「まあまあ、乙女心は複雑なんですから。静ちゃんもほどほどに」
仲の良い友人同士、気心は知れている。春香も静も特に気を悪くするでもなく、じゃれあっている。
暫くして、一人が別の話題を切り出してきた。
「それより、さ。聞いた? 隣の高校も出たって」
「なにそれ?」
静と呼ばれた少女が聞き返す。いぶかしみながらも興味を引かれたようだ。
「ほら、この前話した幽霊の話」
ああ、と全員が頷く。
「ここ何日か、夜に見たって人が 何人もいるって……」
話題を切り出した少女は、兄弟が違う高校に通っているためか、色々と情報通なところがある。話を聞いていた春香も彼女のほうをじっと見ている。ふと目をそらす春香の顔は、何やら旬順するように首をかしげていた。わずかな動作だったが、見る者が見れば分かる所作だった。
徐にだが、目を伏せたままの春香がはっきりとした口調で言った。
「夜の町は危ないよ」
「春ちゃん、何か知ってるの?」
話題をふった少女、智子がその口調に心配な表情をみせた。
「特に聞いてないけど、最近夜はなにかと物騒だからね~」
応える春香の様子は、いつもと代わらず明るい笑顔を湛えていた。
「春香、夜に市内に来てるの? お父さんの仕事の関係?」
静ちゃん、こと静香が尋ねてくる。
「とにかく、夜の独り歩きさえしなければ大丈夫だよ」
「まあ、そうだよね」
「それにさ、そろそろ沙樹ちゃん迎えに行きましょうか?」
春香はそう言うと椅子から立ち上がって自分の鞄に手をかけた。
「そうだね、行こうか?」
少女達も三々五々立ち上がり、荷物をまとめていく。動き始めた少女達は、集団として動く。
春香は、一人ふと窓辺に視線を向けると何故か暫く見詰めていた。他に誰も残っていない教室内には夕暮れが近づく気配があった。彼女の見つめる先には何がある訳でもなかった。空は澄んで、ゆっくりと雲が流れている。
それでも、春香は皆と教室をあとにしながら誰にも聞こえないようにぽつりと呟く。
「大嫌いよ。このばか騒ぎも、夜の町も……」
その声には確かな侮蔑が込められていた。
少女が見つめる先には薄く茜色に染まり始めた空が広がっていた。
もうすぐ夕闇が迫る。この町の夜に、少女だけが知る何かが始まろうとしていた。