第10話 隠された真実3
時間が足りない……。
穏やかな午後の光が窓から射し込む部屋の中で、沙樹は安らかな気持ちを感じていた。かつて自分が失ったもの、家族のいた過去の風景がこの部屋には残されていた。
母が過ごしたこの部屋で、それを見ている自分がいる。もう一度取り戻したかったものが、懐かしく暖かな記憶を伴って、次々と浮かび上がってきていた。館の二階にある一室で、午後の光に照らされ、本当に心の中にあった不安や畏れが消えてしまっていた。
恐怖を体験した昨夜の事が、まるで嘘のように思えてくる。自分の身に、いったいどんな偶然が働いたのかは分からないが、今の彼女は生家に落ち着いていた。いや、還るべき場所に落ち着いたのだとでも言おうか。分かる者にしか分からない今の彼女の心情は、例えるなら自分をここに運んでくれた運命に感謝したい、そのように表す事しか出来なかった。
母親の私室で過ごした時間、体験する事の全てが、一つ一つ輝きを増しながら、幼い頃の記憶しかない彼女の胸に迫る。この館を訪れて初めて、沙樹は家族の実像に触れた。それは十代の少女にとって、かけがえの無い宝物を見つけた事に等しかった。
「私の家族……」
沙樹の溢した拙い言葉は、無くしていた大切な何かを自身の中に呼び覚ました。
「パパ、ママ……」
自然と語りかけるかのように、沙樹は声に出して、呼び掛けていた。
優しい笑顔を見せる写真の中にいる両親。二人の記憶を辿りながら、幸せな時間が過ぎていった。母親の私室で見つけた彼女が知らない頃の両親の写真は、何度見ても見飽きるものではなかった。
そんな沙樹を部屋の入り口から優しく見守る者がいた。黒い宝石のような毛並みと翠の双眸を持つ者。使い魔メフィストフェレスが、主への敬意を示すように控えていた。
いや、かつての主にして沙樹の母親である支倉亜也に対する敬意であるかもしれなかった。
そんな使い魔の胸中を知ってか知らずか、沙樹は両親の写真を見つめたまま動かなかった。一頻り写真を見詰めた後で、彼女はようやく視線を外した。
背後に控える使い魔に気付いていたのか、振り返ると沙樹から話し掛けた。
「不思議……。ねぇ、そう思うでしょう?」
「どうかなさいましたか?」
スッと沙樹の近くに寄りながら、メフィストフェレスが応えた。
「昨日までこんな世界があることも知らなかったのに、もう慣れてる自分が不思議だなって……」
猫は自分の主を見上げながら、はっきりとした口調で話した。
「沙樹様の高い素養があって初めて、理解できる事でしょう。真実が見え始めている証拠です」
お世辞ではなく、主への賛辞を口にして猫は翠の瞳を一瞬閉じた。
「あの、ね……。聞いてもいい?」
「遠慮なさらずともよろしいのですよ、沙樹様」
話す沙樹の顔には、期待と不安が見て取れた。意を決して言葉にする。
「じゃあ、ね……。私の両親の事を教えてほしいの」
猫の表情は読めない。ただ、沙樹の身を案じる言葉があるだけだった。
「昨夜の事があります。お疲れではありませんか?」
「……ダメ、なの?」
「いえ、何から話せばよいか……」
沙樹を見つめる猫の目が、優しく細められた。
「それでは、この館の意義と存在理由から説明いたしましょうか?」
「なんでも話して。パパとママに関係するなら、なんでも……」
沙樹の瞳に宿る好奇心という名前の光りが、輝いていた。それを確認したのか、猫は黒い宝石のような毛並みの尾を満足そうに揺らした。
「我は叡知と勇気の門を解放する!」
猫の発する言葉に魔力が反応して、室内の空気が震えた。込められた魔力量だけでも相当なものだ。
それが何の効果をもたらしたのか、室内には特に変わったところは見当たらなかった。沙樹が訳もわからず周囲に目を游がせていると、猫が先導するように、先に足を向けた。
「沙樹様、こちらへ」
猫は室内にある家具など無視して、壁の方に向かって歩いていく。訳が分からないまま、沙樹は猫の後を追った。ぼんやりとした違和感に、沙樹は目を細めた。何を見た訳でもない。その証拠に猫は変わらず前を歩き、彼女を誘っている。
しかし、猫の前を小さめのテーブルが遮った時、そこにあるテーブルクロスが揺れる間も無く、猫はそれを通過していった。
「えっ?」
猫の通過していった後には、テーブルがあったのだが、それは薄く、存在さえ舁き消えてしまうように、形をもったまま透けてしまっていた。
猫が立ち止まると、沙樹の方に振り返る。
「此処は、言うなれば”虚実皮膜“の間です。蛇が得意とする多重結界の技で、支倉に纏わるものを魔法で閉じ込めた時の狭間なのです。薄く透けているものは、ここでの存在理由が希薄なのです」
猫の瞳に、魔力が籠る。
「ここでは、魔力の強さが存在に力を与えます」
「あの、猫さん?」
「沙樹様、私のことはメフィストと。お母様の亜也様もそう呼ばれていました」
「う、うん……。でも、あれはなあに?」
「魔術の園の入り口です。さあ、お入りください」
猫がそう言う先には、陽炎のごとく揺らめく光が精緻な紋様を描き、透け始める部屋の壁と、壁越しに見え始める続き部屋との境にある魔法陣を出現させていた。
言い知れぬ恐怖が無かった訳ではない。沙樹の見つめる場所には、これまでの彼女の価値観では到底推し測れない世界が拡がっているのだ。勘のいい彼女だからこそ理解できた現実が、こう告げていた。
人生は常に無慈悲に選択を迫る、と。
今まで何の仕掛けもないと思っていた場所に、沙樹は見たことも無い魔術の発露を見た。そしてすぐに、押し寄せるような不可視の圧力を感じた。それが魔力だと知るのは、後のことであった。
これが、彼女の人生観を大きく変えることになる運命の分岐点であり、自らの意思で魔法界へ踏み込む第一歩となった。
夜の帳が降りた館の一室で、蛇は錯視の身をくねらせて這いずっていた。常人が見ればまともに焦点を合わせる事も出来ない錯視の姿が、ずるずると床を這い、蠢いている。しかも、その雰囲気は決して穏やかでは無かった。
殺気が漏れるのも構わず、剣呑な空気を漂わせて蛇は部屋の中央にいるものに迫った。
「猫よ、主に何を話した?」
蛇の言葉の意味を図りかねて、猫は問い返した。
「何の事だ? 我は忙しい。沙樹様のことなら何の問題もない」
そっけない猫の態度など、蛇にしてみれば意に介さないものだが、事は主に関わるもの。使い魔である蛇には確かめなければならない事があった。
「主に何処まで話したのかと聞いているのだ。主には真実を知って尚、強くあってもらわねばならぬ」
「真実とは?」
「無論、全てだ。主の両親を襲った不幸、翳りゆく魔法界の情勢、主を取り巻く冷たい現実を……」
猫の視線がスッと細くなり、纏う雰囲気が変わる。本を読んでいたのか、猫の周囲に積まれ、開かれていた本や巻物が次々と宙に浮いたまま閉じられていく。中には魔導書の類いなのか、魔法陣の光りさえ漏れていたものもあった。それらが全て力無く落ちて、床を鳴らした。
「蛇よ、沙樹様を混乱させぬよう言い渡したはずだが?」
「それとこれとは別よ。真実を何処まで話したのかと聞いている」
蛇の突き刺さるような視線を受けて、猫は重い口を開いた。
「……まだだ。まだ何も話してはいない」
猫の返事に、蛇は沈黙で返した。
「だが、蛇よ。沙樹様に真実か否か、判然としないことを勝手に話す事は禁ずる」
「何故だ?」
「沙樹様の教導はこれからだ。お前とて、主の不利益となることをするつもりはなかろう?」
たしなめるような猫の物言いに、赤い蛇の双眼が怪しく光る。
「そうやって、人間の性が持つ真実から目を逸らす。たとえ母親の死から逃れても、いずれは……」
「それ以上は主への侮辱となるぞ、蛇よ!」
激しい叱責に威圧的なものを感じ取ったのか、蛇は再び沈黙する。
だが、錯視の円環が床面から広がりを見せたのは次の瞬間だった。
「何のつもりだ、蛇よ? まさか、刃向かう心算ではなかろうな?」
「ほう? やる気になったのか、猫よ。我は主と会わねばならぬ。邪魔をしないでもらおうか?」
「沙樹様は既に亜也様が使っておられた寝室で休まれている。淑女の部屋を訪ねる時間ではないな」
緊張する空気を突き破るような魔力の高まりが、室内を満たしていく。使い魔とはいえ、双方が破格の力を持つ者同士。既に室内の床を埋め尽くす錯視の円環が、蠢く軌跡を残して蛇の姿を隠している。
ざわつく空気を嫌がるかのごとく、猫は小さく首を振った。黒い毛並みが次第にインクを溢したように空間に暗い影を落としていく。ランプの光りに当たる猫の影が、漆黒の闇と化していく。
じわりと侵蝕した闇が、円環の端を塗り潰した。途端、衝撃が部屋の中央から放たれた。
見えない斬撃に、調度品や床材が剥がれ飛ぶ。三本の亀裂を刻んだそれは、円環の一部を消し飛ばすに留まった。
錯視の円環が、速やかに修復を始める。
「猫よ、我等が戦えば館も損害を被るはめになるが? 構わないのだな?」
濃密な魔力の波動が、空間を揺らす。黒い毛並みを震わせる猫が、円環の一点を見詰めて言う。
「蛇よ、沙樹様に真実を話して、それで何を目論む?」
「知れたことを。先代の主を死地に追い込んだ者達への報復だ」
「復讐か……。お前の在り方に口を出す気はない。だが、それは沙樹様が決められる事だ。我等は使い魔なのだぞ? 立場を弁えるがいい」
「それが主の言葉なら、な。それに、忘れたか? この館には、まだ主も持たぬヤツが眠っているぞ。そうなれば、猫よ。我より危険なのではないか?」
「ルンか、確かにな……。しかし、心配無用だ。あれが暴れだせば、辺りは瓦礫の山と化す。お前とて、逃げ出せるわけがない。まして、私と戦っていてはな」
膨れ上がる殺気が、押し潰される気配があった。室内の空気が色合いを変えるように、穏やかなものに変わっていく。
猫は一回だけ、毛並みを整えるために前足を舐めた。見え隠れする爪が、わずかに光った。
「蛇よ、今回だけは亜也様への忠義に免じて許してやる。だが、以後は慎むことだ。もう下がるがいい」
「あの魔女に臆した訳ではないのだな? 猫よ。先代の主を討った、あの……」
「西の魔女は、魔法界でも五指に入る実力者。容易に立ち向かえる相手ではない。沙樹様が成人されるまでは、力を蓄えなければならぬだろう。その後で、全てを話せばよい」
遠い過去の記憶に苛まれるように、猫は一度眼を閉じた。
「それに、沙樹様には徒に復讐など考えて欲しくないのだ……。使い魔として生まれたお前には、分からないかもしれないだろうがな」




