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「……君が、嫌なのか?」
「当たり前です! ゴドウィン子爵なら、あなたの残していった気味の悪いからくり人形に腰を抜かして、二度と近づけないほどトラウマを植え付けられて逃げ帰りました! 私は一切の危害を受けていません! それなのに、あなたが私怨で私兵を動かしたら、私の立場はどうなるのですか!『夫を唆して気に入らない貴族を潰させた悪女』だと噂されてしまいます!」
「……!」
レナードはハッと目を見開いた。
「そ、そうか……。私の浅はかな行動が、クラリッサの名誉を傷つけるところだったというのか……! ああ、なんという不覚! 私はまたしても君に迷惑を……!」
レナードはその場に崩れ落ち、ドサリと床に膝をついた。
「殺してくれ、クラリッサ……。君を護るどころか、君の名を汚そうとしたこの愚かな私を、その美しい足で踏みつけ、踏みつぶしてくれ……!」
「……はぁ。踏みつけませんし、殺しません」
私は深々と溜息をつき、膝をつく彼の前にしゃがみ込んだ。
泥だらけの服、煤けた顔。しかし、その瞳にあるのは純粋すぎるほどの、狂気的なまでの私への執着と愛だ。
……本当に、手に負えない男。
私はポケットからレースのハンカチを取り出すと、レナードの頬についた泥を乱暴に拭い取ってやった。
「服も顔もドロドロですよ、公爵様。まずは着替えて、お風呂に入ってきなさい。……それから、皇帝陛下には『急病の妻を心配して一時帰宅した』と、私から謝罪の手紙を書きます。政治的な処理はそれで手打ちにしなさい」
レナードは呆然と私を見つめていた。頬に触れる私のハンカチの感触を、まるで聖遺物でも扱うかのようにうっとりと噛みしめている。
「……クラリッサ。君は、私に拭いてくれているのか……?」
「汚いからです。ほら、立ち上がって」
「ああ……神よ……! 私は今、天使の慈悲を賜った……! このハンカチは家宝とし、私の棺に入れてもらうことにしよう……!」
「洗って返してくださいね」
私が冷たく言い放つと、レナードは歓喜に肩を震わせ、嬉々としてお風呂へと向かっていった。
去っていく彼の背中を見送りながら、私は手に残るハンカチを見つめた。
(……五匹も馬を乗り潰して、不眠不休で駆け戻ってくるなんて)
バカだ。本当に、手の付けようがないバカだ。
けれど、ゴドウィン子爵に脅された時、心のどこかで彼を求めていた自分がいたことも事実だった。もしあの大バカ者がここにいたら、一瞬で私を奪い去り、守ってくれただろうという確信があったからこそ、私は落ち着いていられたのだ。
「……悔しいけれど、ちょっとだけ頼もしいと思ってしまったわね」
ぽつりと呟いた自分の言葉に、私は顔を赤くした。
いけない、いけない。こんな重すぎる愛に慣れてしまったら、私もおかしくなってしまう。
その日の夜。
お風呂に入り、身なりを整えたレナードと、二人きりの夕食を摂っていた。
壁には相変わらず、私の妙な肖像画たちがずらりと並んでいる。
「クラリッサ、帝都のお土産だ」
レナードが合図すると、使用人が恭しく大きな箱を運んできた。開けると、中には眩いばかりに輝く、見たこともない大粒の青い宝石のネックレスが入っていた。
「これは『王冠の涙』と呼ばれる、帝国最古の秘宝だ。皇帝陛下の宝物庫から、強引に交渉して譲り受けてきた」
「強引にって……奪ってきたんじゃないでしょうね?」
「まさか。我がローゼンベルク領の今年の税収の半分と引き換えだ」
「半分!?!?!?」
私は思わず持っていたナイフとフォークを落としそうになった。
「正気ですか!? 領地の税収の半分ですよ!? 領民の福祉やインフラ整備はどうするのですか!?」
「安心するといい。私の個人資産から補填する。領民には一切の不利益は生じさせない。ただ、この宝石を見た瞬間、君の瞳の色と同じだと確信し、手に入れずにはいられなかったのだ」
レナードは真剣な眼差しで私を見つめた。
「クラリッサ。私は軍人だ。幼い頃から血と硝煙の中で育ち、人を殺め、政治の泥に塗れて生きてきた。私の心は、君に出会うまで死んでいたも同然だったのだ」
「レナード……」
「君が私をどう思っていようと構わない。気味が悪いと蔑んでくれてもいい。だが、私にとって君は、この暗闇の世界で唯一輝く光なのだ。君の冷たい視線すらも、私にとっては生きている実感を与えてくれる温もりなのだよ」
静かな食堂に、彼の低く情熱的な声が響く。
冗談や狂気ではなく、心からの本音。彼にとって、私への愛は生存本能そのものなのだ。
……そんな風に言われてしまっては、これ以上呆れることもできないじゃないか。
私は溜息を呑み込み、差し出された宝石箱を見つめた。
「……綺麗ですね」
「! 気に入ってくれたか!?」
「ええ。ですが、こんな高額なものは身につけられません。大事に保管しておきます。……それと、今後は領地の財政を脅かすような買い物は禁止です。わかりましたか?」
「ああ! 君の仰せのままに、私の愛しい妻よ!」
レナードは嬉しそうに微笑んだ。その顔は、氷血の処刑人などとは程遠い、ただの恋する青年のような顔だった。
「……ところで、レナード」
「何だろう?」
「帝都からの仕事は、本当に全部片付いたのですか?」
「……あぁ」
レナードの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「……まさか、放り出して帰ってきたのですか?」
「い、いや! 主要な議題は全て終わらせた! ただ……明日の最終調印式と、皇帝陛下主催の晩餐会を……その……辞退して駆け戻って……」
直後、屋敷の引き締まった空気を破るように、玄関から怒号が響き渡った。
『レナード・ローゼンベルクはおるかぁぁぁぁっ!!! 皇帝陛下の名において、職務放棄の罪で捕縛するぅぅぅっ!!!』
帝国の近衛兵たちが、公爵邸を包囲した音だった。
「……レナード」
「く、クラリッサ! 大丈夫だ! 私兵を展開して近衛兵を撃退する!」
「撃退しないでください!! 大人しく連行されてきなさい!!」
「嫌だ! 君と離れたくない! せめて君の着古した服を抱きしめながら牢屋に入りたい!」
「余計なことを言わないで、早く行きなさい!!!」
私の叫び声と共に、またしても騒がしい夜が幕を開けた。
まったく、愛が重すぎるのも考えものだ。
けれど……私は冷めきったお茶を一口飲みながら、ほんの少しだけ口元を緩めたのだった。




