第23話 茨の残香、焔の礎
『古代文字研究所』。そこはノバラが愛した、湿気と古い紙と酒の香りが混じり合い、その奥底に彼女特有の、毒気を含んだ甘い香りが漂う場所だった。床に転がる酒瓶、壁に残る煤の跡。ノバラがこの部屋の主であったという事実が、今は逆にその空虚さを際立たせている。
この部屋の主がいないことで、こんなにも部屋が広く感じるのか……。
ふと部屋の隅に目をやったキザムは、植木鉢に大切そうに植えられた、小さな棘を持つ植物を見つけた。かつてノバラが何気なく世話をしていたそれ。しかし、季節を過ぎても、どれほど手入れをしても、その植物にはひとひらの花も咲く気配がなかった。
蕾すら持たず、ただ鋭い棘だけを幾重にも重ねて、無機質にそこに在る。
ノバラが愛した植物でありながら、彼女の人生と同じく、あまりに殺伐としたその姿。それを見た瞬間、キザムの脳裏にノバラとの日々がフラッシュバックし、堪えきれずに肩を震わせた。
背後から、ゴンベエの低く重い声が降ってくる。
「しっかりせい。おヌシはココに何しに来た? 悲しみや哀れみに浸るためか。そんなことでノバラが喜ぶとでも思うか」
キザムは袖で乱暴に顔を拭う。ココにノバラはもういない。涙を流している暇など、自分にはないはずだった。
「わかってる……ゴンベエのおっちゃん……すまねぇ、もう泣かねぇ。こんなんじゃ、あの世に行った師匠に顔向け出来ねぇもんな!」
「……そうか」
「ゴンベエのおっちゃん、早速よろしく頼む!」
意気揚々と外へ向かおうとするキザムの背中を、ゴンベエの言葉が呼び止める。
「待て。どこへ行こうというんじゃ?」
「えっ? だって稽古つけて貰えるんだろ?」
「まぁ待て。修行とは何も実技だけではない。まずはおヌシには『古代文字』そのものの理を学んでもらう」
「えっ!? まさか……勉強っ!? 」
「その通りだ。奥の禅室へ来い」
そう言ってゴンベエは迷いなく禅室へと向かっていく。キザムは渋々その背中を追った。
「俺、勉強はちょっと……」
「つべこべ言うな。ワシ流の修行法で学びたいと言ったのはおヌシだろ」
「いや……そうだけど……」
「ノバラは座学の方も優秀じゃったがなぁ……」
その一言に、キザムの瞳から迷いが霧散する。
「俺は師匠を超えなきゃならないんだ。苦手でもなんでもやってやる……! なんにもしないで後悔するくらいなら、やれる事全部やって死んでやる! ゴンベエのおっちゃん、いやゴンベエ師匠、改めてよろしくお願いしますっ!」
キザムは床に額を擦り付けるほど深く、頭を下げた。
禅室には分厚い蜘蛛の巣がかかっていたが、キザムはそれすらもノバラが大切にしていた財産の一部のように思え、あえて掃除をせずに埃を払うだけで机を整えた。
「『古代文字』についてはノバラから聞いているな。元は『漢字』と呼ばれ、その文字には言霊が宿っていると。……だがおヌシは、その『成り立ち』の本質までは教わってないはずじゃ。これを知ることで、ようやく言霊のチカラを己の一部にできる」
キザムは膝を突き、ゴンベエの視線を真っ直ぐに見つめる。
「肉体的な修業はその先の話じゃ。まずは『火』からいくぞ」
ゴンベエはキザムの目の前に半紙を広げ、ゆっくりと筆を墨に浸した。
静寂の中、ゴンベエの筆先が紙に降りる。流麗かつ、火そのものを捕らえたかのような鋭い筆致。書き終えられた『火』の文字は、ただの墨痕ではなく、今にも紙の上で爆ぜそうな熱を宿していた。
「漢字とは、言霊のカタチそのものだ。メラメラと燃える炎の様子から文字が生まれ、その文字がまた炎を呼ぶ……。いいかキザム、言霊の書き順、バランス、そして文字に込める『魂』。すべてが噛み合った時、初めて古代文字は真のチカラを解放する」
「ただ文字を並べればいいのではない。言霊という『生き物』を、紙の上で形にするんじゃ」
「『古代文字』への『魂』……」
キザムはこれまで、文字をただの道具として扱っていた自分を恥じた。呼べば反応する、それだけの認識だった。
「わかったら、まずはその半紙に綴ってみろ。一画一画、その文字がどうやって生まれたのかをイメージしながら、魂を込めるのじゃ」
キザムが筆を執る。墨を吸った筆が、極めて重く感じられた。
一画目、二画目。筆先が紙を捉えるたび、微かな熱が指先に伝わる。
「そうじゃ……それだ。今後は『古代文字』を綴る時は必ず血文字を使え。血は言霊との契約の証。ただ描くのと、血を媒体にするのとでは、言霊を呼び出す深度がまるで違うんじゃ」
キザムの頭に、これまでの死闘が蘇る。確かに、極限の状況で血を使い、命を削って文字を放った時、文字は言葉以上の『質量』を持って敵を貫いた。
この研究所で、キザムは「力」の出し方ではなく、力と向き合うための「理」を刻み込もうとしている。ノバラという太陽を失った場所で、彼は自分だけの新しい灯火を、静かに、しかし確実に灯し始めていた。




