伝えきれない想い
視点はユフィリア。書籍一巻発売の記念SSです。
web版では第一章と第二章の間、書籍版の第一巻の後の余話です。
片方しか読んでいなくても問題ありません。よろしければどうぞ。
「離宮での生活はどうかしら? ユフィ」
私にそう問いかけて来たのはお母様でした。ここはマゼンタ公爵家のサロン、週に一度ある休日に私は離宮から帰宅し、こうしてお母様とお茶を楽しむのがすっかり習慣になりました。
アルガルド様との婚約破棄の一件から時が経ち、気ままに周囲を気にせず突き進むアニス様との生活にも慣れてきました。ですからお母様からの問いかけに返す答えは既に決まっています。
「恙なく過ごさせて頂いております」
「そう。アニス様との仲は良好かしら?」
「はい、とても良くして貰っています」
「それなら良かったわ。アニス様なら心配はしてないけれど」
喉を鳴らすように笑うお母様、しかしすぐに笑い声を止めて私を見据えてきました。
「それで? ユフィはしっかりアニス様に何かお返しは出来てるのかしら?」
「お返し、ですか?」
「あら、生活環境から貴方の評判の改善から面倒まで見て貰ってるじゃない。ちゃんと相応のお礼は出来てるの?」
「……それは」
お母様の問いかけに私は思わず口を噤んでしまいます。確かにアニス様には返しきれない恩を受けたと私も思っています。しかし、その恩に報いる程の感謝をお伝え出来ているかと聞かれると途端に不安になってきました。
元より、私は人の感情についての機微に疎いと自覚しています。自覚しつつも無頓着だった為に、婚約破棄の一件を引き起こしてしまった訳です。だからこそその欠点を顧みてしまうと、途端に自信が無くなってしまいます。
私はアニス様にちゃんと感謝をお伝え出来ているのでしょうか。言葉でお伝えするようにはしていても、本当にそれだけで足りているのでしょうか……?
「……ふふ、貴方もそんな顔をするのね」
「お母様?」
「普通の女の子みたいだわ」
普通の女の子? そう言われて私は自分の頬に触れてみます。しかし、自分がどんな表情を浮かべているのか鏡を見ている訳ではないのでわかりません。
普通の女の子と言われても、どんな表情が普通の女の子の顔なのでしょうか……? そんな疑問に頭を悩ませていると、またお母様が吹き出すように笑い出しました。
「……お母様」
「ごめんなさいね、ユフィ。貴方、今、凄い困った顔をしているわよ」
……実際に困っているのですが。
「感謝を伝えたいのなら言葉にするのが一番よ。でもね、感謝の気持ちは時に形にしないと伝わらなかったり、残らなかったりするものよ」
「……形にする」
「急かす訳ではないけれど、少し考えて見ると良いわ。私は答えを示してあげられるかもしれないけれど、それがユフィとアニス様の間で正解なのかはわからないもの」
「はい、お母様」
* * *
「姫様に感謝の気持ちを伝えたい、ですか?」
休日を終えて、離宮に戻ってきた私は思いきってイリアに相談する事にしました。私の相談を受けたイリアは普段は変わらない表情を意外そうな表情に変えて私を見ました。
「また急な話ですね」
「……言葉にして感謝を伝えてきましたが、それで伝わっているかどうかと考えると不安になってしまって」
「ふむ……」
私の相談した内容にイリアはいつもの無表情に戻って、指を唇に当てました。暫し何か考え込んでいたイリアでしたが、そっと息を吐きながら指を唇から離しました。
「正直、難しいですね」
「難しいですか?」
「姫様は感謝を受け取るのが下手ですから」
嘆息しながらイリアが告げた言葉に私は何とも言えない表情を浮かべていたと思います。その表情を見てか、イリアが補足するように言葉を続けました。
「それに形に残るものもあまりお気に召しません」
「そうなのですか?」
「はい。私も理由までを正確に理解している訳ではありませんが、姫様は他人からの好意を形として自分の手元に置いておくのを好みません」
イリアにも理解出来ないのであれば、まだアニス様と付き合いの浅い私が理解出来る事ではありません。感謝を伝えたいとは思いますが、アニス様はあまり他人から好意を示される事を喜ばしく思わないのでしょうか……?
そう思っていると、ぽん、とイリアが私の肩を叩きました。いつもの無表情を少しだけ微笑を浮かべる表情に変えて私を見ています。
「姫様は決して、好意を向けられて喜ばない人ではないですよ。受け取るのが下手なだけです。言葉だけでも十分、姫様には伝わっているでしょう。それでもユフィリア様が不安だと言うのなら、やはり行動に移した方が良いと思います」
「イリア……ありがとうございます」
行動で示す、ですか。形に残るものを好まないのであれば、感謝を示す何かをするべきなのでしょうか?
仕事に戻るイリアと別れて、そんな事を考えながらアニス様の工房へと向かいました。工房にアニス様がいるとは聞いていたので、扉をノックしました。
「はーい?」
「私です、アニス様」
「ユフィ? お帰り、入っていいよ」
アニス様の許しを貰ってから工房の中へと入りました。机の上には分解されたマナ・ブレイドがあり、アニス様は汚れを落としたり磨いたりしているようでした。
「お帰り、ちゃんと休めた?」
「はい。アニス様はマナ・ブレイドの整備ですか?」
「うん、ちゃんと道具は手入れしておかないとねぇ」
私が来たからなのか、作業の手を止めてアニス様が汚れを落とすように手を拭っています。
「……何かお手伝いする事はありますか?」
「ん? いや、ユフィにやらせてあげるような仕事は今はないよ?」
「そう、ですか」
「本当にユフィは真面目だなぁ、少しはのんびりしたり趣味を楽しんだりしたら良いのに」
「一応、ここにいる名目としてはアニス様の助手なので」
それに、趣味と言われても読書くらいしか思い付きません。それも知識を蓄える事が目的だったので、別に読書そのものを楽しんでいたかと言われると答えに困るのです。
私の返答にアニス様が何とも言えないような苦笑を浮かべています。……こういう態度が真面目だと思われる理由だとはわかっているのですが、まだ自由でいる事に慣れていないのです。
ふと、アニス様の頬に汚れがついているのが見えました。マナ・ブレイドの整備の際に使ったもので顔を汚したのでしょうか。咄嗟にハンカチを取り出して、アニス様の頬を拭おうとします。
「わっぷ、あ、なんかついてた? ダメだよ、ユフィ。ハンカチが汚れちゃうよ」
「汚れを拭うものなのですから構いません」
抵抗しようとしたアニス様を諫めて頬の汚れを拭い取ります。汚れが落ちたのを確認して、私はハンカチを折りたたんで仕舞いました。
「後でイリアに渡して洗濯して貰ってね、ありがと」
「いえ。……出来るだけ、アニス様には何かしてあげたいんです」
「? なんでまた急に?」
不思議そうにアニス様が小首を傾げて私を見つめている。無邪気なその瞳に、私は思わず言葉を詰まらせてしまいました。
「……言葉だけでは、不安ですから」
アニス様の頬を撫でて、肌についていた髪を払います。自然としてしまった自分の行動と漏れてしまった本音に気付いたのは、そのすぐ後でした。
きょとんとした顔のアニス様に対して、私は血の気が引く思いでした。幾ら自分が悩んでいるからといって、本人に言ってどうするのですか……!
「……ん、んん……ユフィ? 何か思い詰めてるみたいだけど、私はユフィがここにいてくれるだけで十分だよ?」
「……アニス様?」
「ユフィ、気を張ってないと結構わかりやすいんだね。大丈夫、ちゃんとユフィの気持ちはわかってるよ。ただ、私も大袈裟にお礼を言われたりするのは恥ずかしいからさ」
先ほどまでアニス様の頬に触れていた手を、今度はアニス様が手にとって、ご自分の頬に当てます。
「気負う事なんてないよ。ユフィがここにいて、悩んで、自分で何かしたいって、そう思ってくれたら私にはそれだけで十分だ」
「……本当に、貴方という方は」
この方は、本当に狡い。私がわかりやすいからなのか、私が安心してしまう言葉をすぐ伝えてくださるのですから。
感謝しているのです。私を救ってくれた、私に道を拓いて見せてくれた。未来の可能性を示して、驚きと喜びを齎してくれた人。
今はまだ不器用で、伝えたい感謝も想いも、まだとても不確かですが。いつか貴方にこの気持ちを適切に伝えられるでしょうか?
その日が来るまで、もう少しだけ貴方の優しさに甘えて良いですか? アニス様。