【2】ー9 犬耳少女の企み
どこまでも続く世界。その世界は水のような液体に満たされていた。
上下左右、どこを見ても有るのは闇、闇、闇。しかし完全な暗黒ではなく、どこか深い青色のようなものを感じさせる。
どこまでも澄んだその中で、自分は一人浮かんでいる。自分がどこにいるのかも理解出来ない。体に力が入らない。ゆらゆらと、その水中のような場所で身を任せていた。
……暗い。
意識すらも半分身体から離れているような虚ろさでそんなことを考える。
……僕は……。
その深青の世界には、感情が溢れていた。
不安、悲しみ、怒り、憎しみ……。
そして、失望。
感情が心の中へ流れこんでくる。果たして自分は今、叫んでいるのだろうか、苦しんでいるのだろうか。
わからない。
ただ、ゆらゆらと漂い続けながら、思った。
……僕は……なに……?
****************************
はっと目を覚ますと、そこには自らの寮の部屋が。
「……なんか嫌な夢をみた気がする」
思い出そうとするものの、うまくいかない。頬を叩いた。諦めて出かける用意を始める。
「これが、夢見が悪いってやつかな。なにか楽しいことでもあれば気分が紛れるのに」
そんなことを言いながら、出かけるために着替え、寝ぐせ直し。出かけるといっても、特に用事はない。せいぜい商店街の人を手伝って、お小遣い稼ぎだ。
「よし、ぶらぶらするか!」
そういって、よく分からない気合を入れると、
「いってきます!」
レヴァンは、寮から外へと向かった。
おかしい。
浄法院『ファミグリア』所属、契約者フロル・アイヤネンの招魔である少年、レヴァン・グラフェルトは現在、不可解な事態に出くわしていた。
「なんで……」
そうつぶやいてから、再び目の前にいる人物に向かい合う。
「本当に何もないの?」
「ああ、少し前に他の手伝いが来てな。もう仕事は残ってない」
丸太のような腕を組みながらそんなことを言うのは、肉屋の店主。
「多分、今日のところは商店街に手伝いはいらないだろうな」
「……そうなのか」
教えてくれてありがとう、と礼を言い、レヴァンはその場を離れた。
「なんてこったい。買いたい道具があったのに……」
浄法院は寮を完備、三食も保証されていて、生活する分には申し分ない。
しかし、自分の欲しいものなどを買いたいときなどは、自分で稼がないといけないのだ。レヴァンの場合は商店街での力仕事だが、浄法院に来る依頼でも稼ぐことは出来る。
ただ、レヴァンは面倒臭いことは嫌いだった。
「はぁー」
長いため息をつきながらトボトボと道を引き返す。
道中で気づいた欲しいものだったが、稼ぐことすらできないとなると、どうしようもない。
どうしようか、依頼でもこなすか。でもメンドイのはなぁ、と悩んでいると、前方からリアカーを引いて歩く人影が見える。リアカーの中には大量の本。積み重なったそれらはどれも新しい。
――仕入れ。と言うことは例の手伝いっていうのは……。
レヴァンは恨みがましい視線でその人影を見つめた。……ってあれ?
「手伝いって、おまえかああああっ!?」
「ん? どったのレヴァっち?」
リアカーを止めて首を傾げるリン。どうやらリンの方はレヴァンに気づいていたらしい。レヴァンはなんとか平静を保って目の前に来た少女に問いかけた。
「確認するけどさ、おまえ、商店街の手伝いをあれこれ構わずやってる?」
「うん、やってる。それがどうかしたの? レヴァっちに関係が?」
「大ありさっ! 買いたい物があるのに稼げないんだよっ」
「買いたい物? なになに?」
「う」
興味津々といった様子で聞いてくるリンから、レヴァンは目をそらす。
「……いかがわしいもの?」
「違うわ!」
全力でツッコむレヴァンをひとしきり笑いながら、リンは次の言葉を紡いだ。
「まぁ聞かないでおいてあげるよ。プライベートに踏み込むのは……ね?」
「おいまだ勘違いしてるだろ、おまえ。俺はただ小説が読みたいんだ」
「あはは、そっか。まぁでも、ゴメンね。どうしても今だけお金がいるんだ」
けっこう真剣な表情でリンが言うものだから、レヴァンは渋々「……そっか」と言って、責めるのはやめた。
それからしばらく雑談を交わしていたが、リンが「あ、本運ばなきゃ」と言ったので、そこで終わりにする。
「レヴァっち……ありがとね」
「ん? なにが?」
「アタシを嫌わないでくれて」
はにかむリンに、レヴァンはじっと目を向けた。ど、どした? と顔を赤らめたリンに向かって口を開く。
「意味が分からないよ。なんでおまえを嫌うんだ?」
「だって、アタシ、変だし」
「まぁ、変だな……性格が」
「ひどっ!? でも、本当に変だから……」
暗くはないものの、まだ引け目に感じているリンに、レヴァンは笑いかけた。
「言ったろ? 俺、犬耳少女好きだからな。おまえと友達になれて嬉しいよ」
その言葉を聞いた瞬間、目を見開きわずかに顔を赤らめるリン。
怒ったかな、とレヴァンが構えていると、リンはいきなり自分の身体を抱きしめた。
「アタシを狙うつもりなのね、このケダモノ!」
「なんでだよっ!」
全力でツッコむとリンが笑う。ま、いっか、とレヴァンもつられて笑う。
「それじゃ、“またね”」
「おう」
それを最後の言葉として、リンがリアカーを引っ張り始める。なぜか意味深な笑顔で「またね」の部分を強調された気がしたが、特に気にはしなかった。レヴァンも通りすぎるその姿を見てから、歩き出す。
リンに背中を向ける直前。ありがと、と聞こえた気がした。
レヴァンは立ち止まり、軽く笑う。しばらくして、リンが十分離れたところで、
「心から笑えるようになるといいな、リン」
そうつぶやいて、寮の方へと歩き始めた。
*
浄法院に登校。早朝練習に身を捧げ、疲れた身体で教室へ。
「つ、疲れたよ……」
「…………眠い」
フロルとアミナが机に突っ伏しながら言うのを、レヴァンは苦笑しながら聞いていた。今日は体術を主として、レヴァンがしごいたのだ。
そこでハンスとカナンも登校。二人は浄魔士の書類仕事を終わらせてから浄法院へ来るため、早朝練習にはあまり参加できないのだ。
「ふふ、また疲れていますね。ということはレヴァン先生の仕業ですか」
「なにその俺が悪いみたいな言い方。ひどいな」
「いえいえ、ただお二人への愛の鞭なんだな、と思いまして」
にっこり笑うカナンに呆れた顔を向けるレヴァン。
自分一人で否定するのもなにか虚しいので、何か抗議してもらおうとフロル、アミナの方に声をかける。しかし、二人は反応を示さなかった。
「レヴァンの愛……」
フロルが顔を赤らめてそんなことを言い、アミナもポツリと呟く。
「…………鞭」
「待て、アミナ。なんで今おまえ『鞭』って単語で笑顔を浮かべた?」
「…………なんでもない」
「……俺は果てしなく不安だよ……」
最近、アミナが変な方向に育ってきているように感じるレヴァン。フロルから離したほうがいいかな、と考えた所で、フロル当人から足を踏まれた。超能力者か。
そこで話をそらす意図も含め、ハンスの方へ顔を向けた。
「よ、ハンス。おはよう」
「ああ」
言葉数は少ないものの、大分態度が軟化してきたハンス。少しは信用してもらえたのかもしれない。そんなことを思い、レヴァンは嬉しくなった。これで、朝の挨拶タイムは終了である。
「ところでみなさん、聞きましたか?」
いつもならそのまま雑談に入るところを、今日はカナンが話題を提供してきた。レヴァンが先を促すと、カナンは続けた。
「また編入生が来るそうですよ」
「え、また? この学年に?」
「はい。師匠から聞いたんです」
通常有り得ないはずの編入生が三人。レヴァンは驚いた。フロルが話に乗ってくる。
「どんな人かわかる?」
「……そこまでは聞いてなかったです」
聞いておけばよかった、と後悔の表情を見せるカナンに、そうなんだ、とフロルは残念そうな顔をする。
「今の話本当っ!?」
「ラナさん。どうかしたんです?」
近くでチーム内雑談をしていたラナも、横から元気よく話に混ざってくる。そのチームメンバーも近くへ寄ってきた。
「編入生がもし来るんだったら、今度こそ、うちのチームに入ってもらわないと……」
「ああ、そゆこと」
フロルが納得したような声を出した。
しばらく雑談をしていると、クラスメイト全員が揃っているはずの教室の扉が開いた。
教官かと思い、皆姿勢を正すものの、まだ始まるには五分ほどある。教官が来るまでは三分ほどあるはずだ。
じゃあ一体……。
そう思って視線を向けた時、レヴァンは固まった。同様にフロル、アミナも順に固まる。ハンスとカナン、その他のクラスメイトは頭の上にハテナマークを浮かべただけだった。
レヴァンたちの視線の先、クラスメイトの視線を集めているその人物は、片手をレヴァンに向かって上げた。
「や、おはよう」
若干色の抜けた茶髪のポニーテール。人懐っこそうな笑み。そして意志の強さがうかがえる琥珀の瞳。
そこにはリンが立っていた。




