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70歳の一人部活  作者: 種田潔
9/19

クビキリギス

マスターズ陸上を始めてから、4月は僕にとって特別な月になった。

寒さの緩む4月から屋外で円盤を投げ始めるからだ。

僕が投擲練習をするのは人がめったにやって来ない太田川の河川敷の片隅。

何しろ1キロの円盤を投げるのだから、人がいるところでは安心して投げられない。


前年の12月から3月までの4ヶ月間、自宅の庭と室内で積み上げてきた冬季練習の成果がどう出るか、ワクワクして迎えるのが4月の練習初日だ。冬季練習とは大げさに聞こえるだろうが、僕の場合は要するに筋トレのことだ。

その時期、広島はちょうど桜の盛りで、川沿いの桜並木の下を桜に目を楽しませながら、自転車で河川敷に向かう時の心弾む気持ちは格別だ。桜と共に今年もシーズンが始まったという高揚感は何年たっても変わらない。

4月初めの河川敷はまだ冬枯れの様相で、川面からの風も冷たい。

上空でホバリングしているひばりのさえずりを心地よく聞きながら円盤を投げるのだが、最初のうちは我ながら呆れるほど飛ばない。筋肉は忘れやすいというが本当だ。

前年の秋には38mオーバーを投げたのに、あれから半年たった初日は一番飛んだのが32m。

半年前の俺はどこへ行ったのかと不思議に思う。場合によっては「もう年かな」と弱気に襲われることもある。この時期には毎年感じることではあるけれど。


一週間に二回のペースで河川敷に投げに行くが、行くたびに野草の緑がどんどん鮮やかになっていく。日差しも強くなっていき、それと共に僕の顔色は日増しに焦げ茶色になっていく。妻には日焼け止めを塗るようにとしつこく勧められるけれど、僕は顔にしろ頭髪にしろ、およそ物を塗り付けるのが嫌いなのだ。整髪料も70歳になる今日までつけたことがないが、その報いはてきめんで、僕の頭は荒涼たる疎林のごときありさまだが、これも見慣れれば枯山水の庭を眺めているような簡素で静寂な趣があっていいもんだ。


カラスノエンドウやイヌノフグリなどの野草は、毎年同じ場所に花をつけることに2年前初めて気が付いた。

根っこが残っている限り同じ場所に花をつけるのは当然だろうが、2年前のその時は練習から帰宅して早速、植物学上の大発見をしたことを家族に伝えたのだが、驚いたことに彼らの反応はいたってクールだった。

ここの川岸には野生の桑が生えていて、6月ごろになるとその実が紫色に熟してくる。

先年、桑の実とも知らず、ブルーベリーに似た外見の魅力に誘われ、恐る恐る口に入れてみたら甘酸っぱくて、円盤を投げる合間につまむ

(いいデザートを見つけた)

と喜んでいたら、その次に河川敷に行ったらほとんどなくなっていた。

僕の秘密の果樹園に断りもなく侵入し、略奪の限りを尽くしたのは、名前こそ知らないが川岸の薮の中で僕の間抜けぶりを噂している鳥たちだろう。

今年は先手必勝の意気込みで、桑の実ジャムを作るのだと家族に宣言したが、こっちは河川敷にやってくるのが週二回、敵は河川敷に暮らして、桑の実の食べ頃を今か今かと狙っているのだから、勝ち目は相当薄いけれど。

童謡の「赤とんぼ」の一節に

「山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、まぼろしか」

があるが、桑の実の実物を知ったのは小学校で「赤とんぼ」の歌を覚えた60年後だったということだ。


4月の半ば頃にはツバメが河川敷に姿を見せる。

投げた円盤を取りに向かっていると数羽のツバメが僕の頭上すれすれをかすめて猛スピードで飛んで行ったことがあった。ツバメの羽音を間近に聞いたのはあれが初めての経験だが、あの小さな体からは信じがたいほどの大きな羽音に驚いて、僕は思わず首をすくめたものだ。

5月が近づき7,8回目の練習日になると、前年のベスト記録と同じところまで円盤が飛び始める。そうすると毎年初戦と決めている、岡山県マスターズ陸上選手権が間近に迫ってくる。


その頃には日差しもぐっと強くなり、地面も温められて具合が良くなる。何が良くなるかというと、僕が地面に寝転ぶのにまことに具合がよくなるんだ。

2時間から3時間の「ひとり部活」の練習が終わると、僕はすっかり緑の濃くなった草のベッドに寝転んで空を見上げるのがいつもの習わしだ。

そうして陶然と空を見上げていると、ある映画のシーンが思い出されてくる。

映画「太陽がいっぱい」のラストシーンでアラン・ドロン演じるトム・リプレーが、完全犯罪の達成感に浸りながら、地中海の太陽をいっぱいに浴びてデッキチェアーでつぶやく。

「最高だ!」

あのシーンだ。


その最高の気分に浸っていると「ジー」という変圧器のような音が川岸の草むらから聞こえてくる。

耳鳴りかと頭を振るがその音は消えない。

(ひょっとして虫の音?)

虫の音は秋のものと決まっているがと不審に思いながら、帰宅してネットで調べてみたのは2年前。

正体はクビキリギスといういささか物騒な名前を持った、しかし見た目は可憐なバッタ目キリギリス科の昆虫だった。

この河川敷で円盤を投げて12年目の春だったが、うかつにもその時まで気が付かなかった。

春、しかも陽光の下で虫の音が聞こえるなんて、マスターズ陸上を始めていなければ、そして草に寝転びたがる癖がなければ、僕は一生クビキリギスを知らなかったかもしれない。

この河川敷に練習にやって来る楽しみがあの時また一つ増えた。


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