竜
闇夜を行く。低空飛行だったが、それでも眼下に広がる住宅街がひどくちっぽけに見える。矢吹茜がそれまで暮らしていた場所は、空から見ればミニチュアの街だったのだ。
まるで巨大なコウモリのように、時折その飛膜の黒翼をはためかせながら曇った夜闇を翔る。大きな空を飛ぶのはとても気持ちが良かった。風の冷たさや疲労等は、この身体には全く堪えない。至極快適なその夜間飛行は、しかし、華奢で目立たない女子高生の矢吹茜には到底不可能だった行為。
…もはや自分は矢吹茜ではなくなってしまったのだ。それなのに、なぜこの街に対して、小さな人間が抱くような感傷が生まれるのだろうか。
これは“オプト”、すなわち、精神によって物質が創造、操作される現象を利用した“ラゴール”、変身だ。ならばその精神も、創造された物質、すなわちその身体と同期した性質のものに変質していなければならない。
そう。竜は矢吹茜だった頃には、ラゴールによるその身体の変質に伴って、精神にも変化が訪れると考えていた。しかしその心身の現状は、想像とは違い、ラゴールが、それを行うことによって心身ともに変質してしまうような性質のものではない、ということを示しているようにも思えた。
しかし、それならばなぜ、多くの者がこの契機の日を迎えて精神を崩壊させているのだろうか。眼下に過ぎるミニチュアの深夜の住宅街には外出する人の姿は無いが、奇怪な姿に変わり果てて、意思の読み取れない眼で、上空を過ぎる翼をじっとりと追う無数の異形の姿があった。それは事前に知り得たシナリオ通りの光景でもある。
つまり、元々自分だけが特別に堅牢な精神を持ち合わせていた、ということなのだろうか。
あるいは、ラゴールによって心身が同期しなかったのではなく、この今の凶暴な姿も、実は女子高生として華奢な肉体で過ごしていた時の内面と同質のものだとでもいうのだろうか。それとも、以前の華奢な女子高生の姿の方が、著しくその内面と乖離したものだったということなのだろうか。
人にあらざる姿となって飛行していながら、まるで人のように、…そう、とてもよく知る、今は存在しない人物、矢吹茜と同じように、夜は思考に浸り易くなってしまっているのが竜には可笑しかった。
しかし、考える竜が悠然と倉野市の外れにある小さな丘陵の上空を通過した時、その思考を小さな刺激が中断させた。
それは地上に向けられている下腹部の辺りに感じられた。竜には、3メートル程度の何かが、飛行する自分に向かって蚤のように跳ねてきたのが、見ずともわかった。
異物は竜の10メートルも手前の中空に、ピンで縫い付けられたかのように固定された。それは、その何かが竜の領域、“アルド”に進入した瞬間のことだった。
もしもその様を傍から見る者があったなら、その異物が飛行する竜にぴったりと随伴して飛行しているように見えたかもしれない。
しかしそれは実際には、そのようなのどかな事象ではなく、彼我の圧倒的な強弱の差のために対決が成立せず、単なる一方的な支配が行われている状態だった。
異物は2本の捩れた角を頭部に生やし、その両腕は共に大木を切り倒せるほどの鋭い刃となっているのが、自らの領域、アルドに対する、竜の持つ高い処理能力、すなわち“ウィランダ”によって、竜には鮮明に感知された。丘から数百メートル上空まで跳躍してきたその脚もまた、丸太のように太く、鳥を思わせる逆関節に強靭なばねが効いているのがわかった。色は全身がくすんだ無彩色で、まるで油粘土でできているかのようだ。
異形は、その外見のままに凶暴な性質を持っているようで、竜を切り殺したくて仕方がなく、なんとか破壊的な現象を起こそうとして、必死に自らのアルドにウィランダを籠めようと試みている。しかし竜にとっては、異形の矮小なウィランダを押し込めることなど、赤子の手を捻るようなものだった。逆に竜の強大なウィランダが見えざる手を形成して異形を拘束しているため、異形は自慢の刃の腕を1ミリも動かすことができない。
結果的には、外見上は、その異形がまるで空気のベッドに佇むかの如く周囲の夜空から隔絶した空間に浮遊しながら、竜を高速で追っているような体裁ではあったが、実際には、檻に閉じ込められ、ぴったりと拘束されて、アイアンメイデンの扉が閉じられるのを待っているような状態なのである。
竜はしかし、異物をすぐに潰したりはせず、ゆっくりと地上に降り立ち、それを少し観察することにした。倉野市の辺縁の人家も疎らな荒れ地だったが、高層建築どころか人工物すらほとんど無いそこに巨竜が降り立った様は、まるでその地に突如、巨大な建造物が出現したようだった。
わざわざ着陸する必要も無かったが、それでも降りたのは、行く宛が無かったからである。住民が少なく市街からも離れたその場所なら、契機の日を迎えて学校や周囲の街に無数に涌いた異形が群がってくることも無さそうだった。
角の異形は相変わらずピクリとも動けない。竜にだけは、異形が必死にもがくようにウィランダを繰っているのがわかったが、竜からすれば、その抵抗は儚いほどだった。
試みに、少し開放してやって、それが何をするか観察しようかとも考えたが、しかしすぐに思い直した。異形の繰るウィランダの質が規則的だったからだ。人間的な揺らぎとは程遠い、ワンパターンなそれは、そのまま異形の精神構造の単調さを表しているように思えた。
それが元々のものなのか、それとも外見に表れているような破壊的な性質のみが単純化され、その精神も再構築された結果なのかはわからない。
異形は、街で見た、ラゴールを遂げた有象無象の者達よりは少し大きいようだった。学校からここに飛来するまでに上空から見た彼等は、元々の身体とあまり大きさが変わらなかったようで、大きくてもせいぜい2メートル前後のものばかりだった。それに比べれば、この角の異形は規格外の大きさだ。
しかし、やはり大きさで言えば10倍以上、体積で言えば1万倍もあろうかという竜から見ると、それは蚤か、さもなくば蟻のような矮小な存在としか思えなかった。
巨竜と化した自らの身体に、ラゴールを遂げる前と同じ一人の女子高生のような精神が宿るのであれば、異形のそんな虫のような矮小な身体に、観察や対話に堪え得る程の精神性が残っているとは想像できなかった。
そうして興味を失った竜は、自らの支配下で、未だに機械的に抵抗を繰返し試みている黒ずんだ粘土色の異形を、まさに粘土細工を壊すように、その周辺の空気をプレス機のように加工して透明な圧力を加え、潰した。平たい板のようになったそれからは、抵抗するようなウィランダのうねりも綺麗に無くなった。そして、それを確かめる機会は無かったが一応は強靭な膂力を誇っていたのであろう、そのゴムと鋼のような材質からなる構成素材、残骸も分子レベルにまで分解して風に流した。虫を潰すのと変わらない、空疎な感覚が残った。
怪物の姿をした大人の男よりも大きな何かが、銅像のように無抵抗なまま、触れられてもいないのに、プレスされ、元々存在しなかったかのように透明に消えてしまったその光景は戦いや殺戮というよりも、まるで手品のように見えるものだった。
現に、寝付きが悪く、夜風に当たりに外に出て偶然それを目撃した青年の目にも、とてもそれが互いの存在を賭けた抗争だったなどとは映らなかった。
ぎりぎり輪郭が識別できる程度の暗闇であるにもかかわらず、青年には不思議にはっきりと、竜の目が金色なのがわかった。20メートルと離れていない、目と鼻の先ともいえるそこに聳え立つ竜はどう見ても10階建の高層建築ほども高さがあり、トランクス1枚の姿で呆気にとられて竜の顔を見上げる間抜けな姿の青年と、ようやく気付いたという様子で青年を見下ろした竜と、互いの視線が交錯した。