第1話 敵は抱っこされて来た
秋の午後、玄関で鍵の回る音がして、むぎは寝床から跳ね起きた。廊下を駆けていくと、室内扉の向こうであおいがいつもよりずっとゆっくり靴を脱いでいた。
「むぎ、ただいま。ちょっとだけ待っててね」
あおいの腕の中に黒いものが抱えられていた。くるまれたタオルの端からとがった耳がふたつのぞいている。むぎが鼻を伸ばすより早く、あおいはそれを胸に寄せ直し、ふだんは物置になっている奥の部屋へ入っていった。扉が閉まる直前、タオルのすき間で金色の目がきょろりと動き、天井と壁と廊下を順番に確かめていった。
むぎは扉の前で床に鼻をつけた。知らない匂いがする。あおいの匂いと外の匂いに混じって、日なたの草のような、少し粉っぽい匂いが廊下に残っていた。
扉の向こうから、あおいの声が聞こえてきた。
「大丈夫だよ。ここは、すみの部屋だからね。ゆっくりでいいよ」
むぎの耳がぴんと立った。その声なら知っている。雷の夜、むぎが寝床から出られなくなったときにあおいが隣で出してくれた声だ。あれはむぎのための声だったはずだ。
むぎは扉の正面にきちんと座った。お座りなら誰にも負けない。あおいはこれを見ると必ず「えらいね」と言ってくれる。床を掃きそうになる尻尾をどうにか押さえて、むぎは待った。
扉は開かなかった。
むぎは寝床まで走って布ボールをくわえてくると、扉の前にそっと置き、もう一度座り直した。
しばらくして扉が細く開き、あおいが体を横にして出てきた。足元のボールと、背筋を伸ばして座るむぎを見比べて、あおいは小さく吹き出した。
「待っててくれたの? えらいね、むぎ」
頭を撫でる手はいつもと同じように温かかった。むぎは尻尾を思いきり振った。あおいはボールを拾って廊下の先へ転がしてくれたが、むぎがそれをくわえて戻ってきたときには、水の入った小さな器を持ってまた奥の部屋へ入っていくところだった。
むぎはボールを閉まった扉の前に置いて、その横に伏せた。
夜になって、あおいはソファで誰かと電話をしていた。
「うん、いまは棚の裏に入ってる。ごはんは少しだけ食べたよ。むぎ? むぎはね、ずっと扉の前にいるの」
自分の名前が出たので、むぎは顔を上げた。あおいが手を伸ばすと、むぎは扉を一度振り返ってから、ソファへ近づいた。背中を撫でられながら聞いても、話の中身は分からない。ただあおいは話しながら何度も奥の部屋のほうを見た。あの黒いのはずいぶん世話のかかるやつに違いない。むぎは鼻から長い息を吐いた。
*
それから何度か夜が過ぎた朝、奥の部屋の扉は開いたままになり、代わりに入口へ白い柵が立てられていた。
「むぎ、すみ。今日はここで、ちょっとだけご挨拶ね」
あおいは柵の横の床に座った。むぎは柵の前まで歩いていき、すき間から部屋の中をのぞいた。
棚の陰から黒い猫が出てきた。体を低くして床の匂いを確かめながら、一歩ずつ進んでくる。耳はあちこちへ向きを変え、あおいの声がすると止まり、むぎが鼻を鳴らすとまた止まった。思っていたよりずっと小さい。柵までまだ遠いところで猫は座った。
むぎは胸を張った。言うことは、ゆうべのうちに決めてあった。
「よく聞け、新入り」
猫の耳が、こちらを向いた。
「この家でいちばん可愛いのは、俺だ。あおいがいちばん撫でるのも、いちばん名前を呼ぶのも、俺だ。これは宣戦布告だからな」
言い終えるとむぎは鼻息をひとつ吐いた。我ながらいい布告だった。
猫は黙っていた。金色の目はむぎの顔ではなく、もう少し下を見ている。むぎの前足のそばには朝からくわえて歩いていた布ボールが転がっていた。
「それ、なに?」
「……俺の話、聞いてたか?」
「聞いてた。それ、なに?」
猫の目はボールから少しも動かなかった。尻尾の先だけが床の上でひくりと跳ねる。
むぎはしばらく猫とボールを見比べていたが、やがて鼻先でボールを転がし、自分の前足のあいだへ引き寄せた。
「これは、俺のだ」
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