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第1話 婚約破棄の途中ですが、眠ってもよろしいでしょうか

第1話 婚約破棄の途中ですが、眠ってもよろしいでしょうか


王宮の大広間には、白百合と初夏の薔薇が飾られていた。今夜は白百合慈善院への寄付を募る舞踏会で、壁際には貴族から寄贈された衣類や玩具が並べられている。焼いた子羊肉と香草の匂いに、何十人分もの香水が混ざり、ミレイユは入場したときから何度も唾を飲み込んでいた。


ミレイユが着ているのは、真珠色のドレスだった。灰青色のリボンが胸元と腰を飾り、袖には細かな薔薇模様のレースが重ねられている。母セレスティーヌが三人の仕立屋を呼んで作らせたものだが、眠っても背中が痛くならないよう、コルセットだけはいつもより緩く締めてあった。


「ミレイユ様、今夜はお顔の色がよろしゅうございますね。昨日は何時間お休みになりましたの?」赤い羽根扇を持った伯爵夫人が、挨拶もせずに尋ねてきた。その隣では別の夫人が、砂糖をまぶした菫の花をつまみ、奥歯へくっついたらしく舌を忙しく動かしていた。


「十三時間ほどです」


「まあ、十三時間も。私なら腰が痛くなってしまいますわ」


「私は起きているほうが痛くなります」


ミレイユが答えると、二人の夫人は扇の陰で顔を見合わせた。冗談を言ったつもりはなかったが、遠くで話を聞いていた令嬢たちまで肩を揺らしている。ミレイユは手袋の指先を一本ずつ握り、今日の起床時刻を頭の中で確かめた。


午後三時に目を覚まし、四時に鶏肉と豆のスープを食べた。五時から侍女のティナに髪を結ってもらい、馬車の中で三十分眠った。現在は午後八時を回ったところなので、あと一時間も起きていられれば上出来だった。


「お嬢様、レモン水をお持ちしました。蜂蜜は入れておりません」背後からティナが小声で告げ、冷えた銀杯を渡した。ミレイユが蜂蜜入りの飲み物を口にすると、眠気が強くなることを知っているためである。


「ありがとう。椅子は見つかった?」


「壁際に一脚ございます。ただし、熊が先に座っております」


ティナが示した先には、寄贈品を飾る長机があった。子ども用の靴や積み木に交じって、古びた熊のぬいぐるみが椅子へ座らされている。片方の耳が折れ、丸い腹には灰色の糸で縫い直した跡があった。


ミレイユは椅子ではなく、熊のほうをしばらく見つめた。黄ばんだ毛並みの首元には、「白百合慈善院の子どもたちへ」と書かれた真新しい札が結ばれている。札だけは立派だったが、熊の左足には乾いた泥がつき、腹からは古い石鹸と煙の匂いがした。


「今夜くらい立っていろ」聞き慣れた声が背後から降ってきたため、ミレイユは銀杯を両手で持ち直した。振り向くと、白い礼装をまとったベルトラン王太子が、金色の髪を撫でつけて立っていた。


「殿下、まだ踊っておりません。あと一時間は立っている予定です」


「予定では困る。お前は王太子妃になる女だぞ」


「ですから、先月お渡しした公務予定表にも、夜八時以降の行事には参加できないと書きました」


ベルトランは、口元だけで笑った。ミレイユの予定表を一度も開いていないことは、封蝋が割れていなかったため知っている。王子の肩には白百合の飾りが留められていたが、その花粉が礼装へ落ち、黄色い筋になっていた。


「殿下、皆様がお待ちですわ」鈴を転がすような声とともに、リゼット・モロー男爵令嬢が王子の腕へ手を添えた。薄桃色のドレスには小粒の真珠が縫いつけられ、動くたびに蝋燭の光を跳ね返した。


リゼットは毎週、白百合慈善院を訪れている。孤児へパンを配り、病気の子どもの枕元で本を読み、破れた衣服を自ら縫っていると新聞に書かれていた。今夜も胸元には「孤児たちの母」と刺繍された白い帯が掛けられている。


「ミレイユ様、お加減がお悪いのですか?」リゼットは王子の腕を離さないまま、顔を覗き込んできた。彼女からは薔薇の香油と焼き菓子の匂いがしたが、右手の親指には赤い糸が一本絡んでいた。


「いつもどおりです。あと五十分ほどで眠ります」


「まあ。今夜は慈善院の大切な舞踏会ですのに」


「子どもたちへの寄付は、昨日済ませました」


「お金を渡せば、それでよいというものではございませんわ。恵まれない方々に寄り添う心も必要です」


リゼットが目を伏せると、周囲の貴族たちが感心したようにうなずいた。ミレイユは反論しようとしたが、舌が分厚くなったように動かなかった。楽団が新しい曲を奏で始めたものの、太鼓の音は分厚い扉の向こうから聞こえてくるように遠ざかっていた。


眠気が来たのだ。視界の端から色が薄れ、膝の裏に力が入らなくなる。ミレイユは銀杯をティナへ返そうとしたが、指が開かず、杯の縁が手袋へ食い込んだ。


「お嬢様、椅子へ参りましょう」ティナはすぐに銀杯を受け取り、ミレイユの肘を支えた。ところが、ベルトランが二人の進路を塞いだ。


「その前に、皆へ伝えることがある」


王子が片手を上げると、楽団の演奏が止まった。踊っていた者たちは大広間の中央を空け、ミレイユたちを囲むように集まった。給仕まで足を止めたため、盆の上の焼きたての肉詰めパイから、玉ねぎと胡椒の匂いが漂ってきた。


「ミレイユ・ベルナール伯爵令嬢。私は今夜をもって、お前との婚約を破棄する!」


ベルトランの声が天井まで響いた。貴婦人たちは扇を開き、紳士たちは葡萄酒の杯を持ったまま身を乗り出した。誰かが落としたフォークが大理石の床で二度跳ねたが、拾う者はいなかった。


「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」


「お前は一日の半分以上を眠って過ごす。夜会にも出られず、公務の途中で眠り、会議の日程まで自分の都合で変えさせる。そんな役立たずを、王太子妃にすることはできない!」


ミレイユは返事を考えた。長く眠ることは事実であり、公務の時間を変えてもらったこともある。しかし、王家の古い旗や衣装から残響を聞き、偽造品を七つ見破ったことについて、王子は一言も触れなかった。


「そして私は、リゼット・モロー男爵令嬢を新たな婚約者に迎える!」ベルトランが宣言すると、リゼットは頬へ手を当て、初めて聞いたように目を見開いた。しかし、彼女の左手には、王家の紋章を刻んだ指輪がすでにはめられていた。


招待客の間から笑いが漏れた。「眠り姫では国が眠ってしまう」「王子の隣には、起きて働ける女性が必要だ」という声も聞こえた。ミレイユは反論するより先に、左足を半歩後ろへ下げた。


「殿下、婚約破棄のお話は、あとどのくらい続きますか?」


「何だと?」


「申し訳ございません。もう眠らなければなりません」


王子の顔が赤くなった。ミレイユはティナの腕を借り、寄贈品の並ぶ壁際まで歩いた。椅子へ座るには熊をどかす必要があったため、その丸い胴を両手で抱き上げた。


ざらついた毛が、頬に触れた。古い石鹸、煙、乾いた泥に混じって、かすかに焼きたてのパンの匂いが残っていた。熊の腹へ指を置いた瞬間、ミレイユの耳元で、幼い少女の声がした。


「パンを返して」


ミレイユは閉じかけた目を開いた。周囲では王子がまだ何かを叫び、貴族たちが笑っている。しかし、その声より近いところで、熊の中の少女が鼻をすすった。


「お母さんの熊を返して。リゼット様、返してよ」


ミレイユは、熊の腹にある灰色の縫い目を見た。綿の下に、紙のような硬いものが触れた。確かめなければと思ったが、もう指一本動かせなかった。


「ティナ、この熊を……」


「はい。決して手放しません」


ティナの返事を聞き、ミレイユは椅子の背へ体を預けた。熊を胸に抱いたまま目を閉じると、誰かが「無礼だ」「起こせ」と騒ぐ声が聞こえた。けれど、ミレイユの意識は、焼きたてのパンを取り上げられて泣く少女の声を追いながら、深い眠りへ沈んでいった。


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