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12話 狂い始めた歯車

 株価の小さなズレに気づいて以来、悠人は不安を拭い去れずにいた。


 彼は、タイムリープ前の人生で起こった、比較的時期が近い出来事をいくつかピックアップし、現在の状況と照らし合わせて検証した。


 自宅のパソコンに向かい、メモを取りながら一つ一つ確認していく。


 その結果は——悠人の不安を裏付けるものだった。



《取引先の動向》

 記憶では、年明けに破綻するはずだった小さな取引先が、予想外の提携で危機を脱していた。美咲との取引がなくなった影響かもしれない。


《流行のズレ》

 記憶通りに購入した、流行るはずの新しいガジェットの売れ行きが、予想よりも数週間遅れている。


《仕事のスケジュール》

 悠人の部署で、数ヶ月後に起こるはずだったシステムリニューアルのプロジェクトが、田中課長の一言で完全に別の計画に差し替えられていた。



「嘘だろ……」


 悠人は、椅子に深く座り込んだ。


 彼の成功の基盤となっていた、『未来は固定されている』という前提が、音を立てて崩れ始めていた。


 彼の大きな行動が、まるで池に投げ込まれた石のように、未来に波紋を広げている。知っているはずの『未来の常識』を、全て変えてしまっていたのだ。


 バタフライエフェクト。


 悠人が握っていた最高の武器——未来の知識は、日を追うごとに価値のない過去の遺物へと変わりつつあった。


 俺は、このままじゃただの運が良かっただけの男に戻ってしまう。


 悠人の胸に、焦燥が募る。


 莉子さんを守るための、先手を打つことができなくなる……!


 悠人の成功と強さは、未来を知っていたからこそのものだった。その知識が使えなくなることは、彼にとって最も大きな試練だった。



 一方、悠人の知らないところで、事態はさらに深刻な方向へ動き始めていた。


 都心の高層ビル、最上階。


 窓のない重厚な会議室に、黒いスーツを着た男たちが集まっていた。テーブルの中央には、柏木の逮捕を報じる新聞記事が置かれている。


「柏木の逮捕は、我々の資金源に大きな打撃を与えた」


 テーブルの奥に座る、白髪の初老の男——組織のリーダーが、冷たい声で言った。


 柏木は、表社会と裏社会のパイプ役だった。彼が崩壊したことで、闇の組織は資金の流れを断たれ、激怒していた。


「あの柏木の野郎が、たった一人の素人に潰されただと?」


 リーダーの隣に座る男が、苛立ちを隠さずに言った。


「はい」


 報告役の男が、資料を開いた。


「そのITエンジニア——佐藤悠人という男が、まるで全てを知っているかのように、迅速かつ正確に柏木の裏の取引を暴きました」


 リーダーは、細い目を悠人の写真に向けた。


「佐藤悠人……」


 組織は、悠人の行動があまりにも合理的で迅速であることに不審を抱き、彼の周辺の調査を開始していた。


 調査を進めた結果、奇妙な事実が判明した。


 悠人が事故の後、急に別人のようになったこと。美咲という女性が復讐のために嫌がらせを仕掛けていたが、逆に潰されたこと。そして、会社での異例の昇進。


「この男、ただのエンジニアではない」


 リーダーは冷酷な眼差しで報告書を睨んだ。


「彼は、我々の計画を潰すことができる『危険な要素』だ。美咲という女の件も、単なる痴情のもつれではないだろう」


 彼らは、悠人の存在が自分たちの事業にとって甚大なリスクになると判断した。


「奴がまだ小さいうちに、徹底的に潰せ」


 リーダーは報告役の男を見据えた。


「そして、奴が何を知っているのか、全て吐かせろ」


 報告役の男が深く頭を下げる。


「承知しました」


 悠人は、小さな株価のズレに気を取られている間に——柏木よりも遥かに強大で、非情な敵に狙われ始めていたのだ。


 その敵は、悠人の会社での成功、そして莉子との幸せな関係を、根本から破壊する力を持っていた。



 その日の夜。


 莉子は仕事を終え、職場の同僚数名と連れ立って帰路についていた。


 オフィスビルのエントランス。エレベーターに乗ろうとした瞬間——彼女たちの前に、黒いスーツを着た大柄な男たちが立ちはだかった。


 三人。


 彼らの目つきは鋭く、見るからに一般人ではない雰囲気を醸し出していた。


 莉子の同僚が、怯えて立ち止まる。


「す、すみません、エレベーターを使わせていただけますか……?」


 男たちは無言で、莉子を指さした。


「結城莉子だな」


 低い声。


「お前は、佐藤悠人に近づきすぎた。少し、話を聞かせてもらうぞ」


 莉子の顔から血の気が引いた。


 男たちは、周囲の目を気にする様子もなく、莉子に手を伸ばした。


「や、やめて——!」


 莉子の叫び声が、夜のオフィスビルに響き渡った。


 同僚たちは恐怖で動けない。


 男の手が、莉子の腕を掴もうとした瞬間——。


 莉子は咄嗟に身を翻し、エレベーターホールから駐車場の方へ走り出した。


「逃がすな!」


 男たちの怒声が響く。


 莉子は必死で走った。ヒールが音を立てる。息が上がる。だが、足を止めるわけにはいかない。


 悠人さん助けて——!


 心の中で叫びながら、莉子は暗闇の中を走り続けた。

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