29 新月の夜
特に何事も起きないまま、リュカはメリトゥムにこの世界の事や文字を習ったり、 家令や執事達から貴族のマナーなどを教えてもらったり、エニグマと魔法の練習をしながら過ごしていた。
魔法は『想像する』というのがなんとなく分かるような気がして、発動率も増えてきた。
もっとも増えてきただけで毎回発動するわけではないし、リュカの魔力の器が小さいので日に何度も魔法を使うのは止められているのだ。
例えば『クリーン』や『ライト』といったような単純な生活魔法はそれほど魔力量を必要としない。だが、初めての魔法となったあの癒しと回復の複合魔法は結構な魔力量を必要とするらしい。
エニグマには「よくあのような魔法をお使いになられましたね」と少し呆れられてしまった。とても初心者が使うような魔法ではないようだ。なので、今はもう少し器を大きくするような練習をしている。
危険だと言われたけれど魔力を使い切る寸前にするといいらしく、夜寝る前に少しストレッチをして、器があるらしい場所で魔力を回して、自分に癒しをかけて眠る。それがこのところのリュカの日課となった。
「さて、そろそろ寝ようかな」
リュカがそう言うと控えていたサーヴァントが「おやすみなさいませ」と部屋を出ていく。
始めの頃は魔力をほぼ使い切る事を心配したサーヴァント達が交代できちんと眠れているかまで確認していたのだが、リュカが慣れてきた事もあり付き添いはなくなった。
もちろん部屋の外の扉の横には護衛が控えている。あの婚約式のような事は二度と起こってはいけないからだ。
元の世界では特に運動はしていなかったけれど、通勤はそれなりにハードだった。だが現在は部屋とダイニングと移動、そして庭の散策くらいしか動かないので、さすがにこのままではまずいのではないかと思って始めたストレッチは思っていたよりもリュカに合っていた。
お風呂がある世界なので、ゆっくりお風呂に入って、そのまま少しだけ本を読んだり、手紙を書いたり、今日習った事のメモを読み返したり、日によって違うけれど一息ついた後にストレッチをするとなんとなくよく眠れる気がするのだ。
「もっときちんとストレッチの事も調べておけばよかったな」
リュカが知っているのは大学生時代に友人から教わったものだ。ヨガはなんとなく敷居が高かったけれど、ストレッチはラジオ体操ほど動かなくてもいいと言われ、ちょうど就職活動でストレスがあった時だったので、何度か言われた事をやった記憶が残っていた。
その時には日課にはならなかったけれど、肩を回したり、首を前後に倒したり、猫のように背中を丸めたりするだけでもなんとなくすっきりするような覚えがある。その他にもいくつか言われた事を思い出しながら、異世界に来て役に立つというのも面白い。
そんな事を考えつつ身体をほぐして、大きく伸びをした後、魔力を意識して以前温かく感じた下腹の辺りを意識して魔力を動かす。
そうして閉じていたカーテンを少しだけ開けて、ぽっかりと浮かんでいる月を見てから、水を一杯飲んでベッドに入って魔力をぎりぎりまで使う。といっても軽く『クリーン』とかけて、『癒し』をかければリュカの器の魔力はほぼ無くなる。これで寝ている間に身体が勝手に魔素を貯め続けて、ほんの少しだけ器が大きくなっていくのだ。
「ああ、そういえば今日は新月だった」
月がどこにも浮かんでいない空を見て、リュカは思わずそう呟いた。細い細い月が浮かんでいた昨日の夜空を思い出す。
元いた世界と同じようにこの世界にも月があり、満ち欠けをする。今夜は新月。月が見えない分、星が主役になっているかのようにいつもよりも多くの瞬きが見えるような気がした。
「……え?」
けれど星空の下、リュカは一瞬だけ人影を見たような気がした。それはまったく違う姿だったのに、とてもよく知っている人のような気がした。
ドクンドクンと鼓動が大きくなる。
あの事件があったのだ、無茶な事をすればフィリウスだけでなくこの家にいる人々に迷惑をかける。だけど……
「…………確かめるだけだから」
幸いまだ魔力を使っていない。先程練ったばかりの魔力が器の中に残っている。そして、魔法は『想像力』だ。
零れるような星空の下、リュカはバルコニーへの窓をあけた。
「大丈夫。出来そう。ううん。出来る!」
何度か成功している魔法だった。けれど勿論二階のバルコニーからというのは初めてだ。それでも確かめなくてはいけない。そう強く思った。
魔法は想像力。頭の中で何度も繰り返して、リュカは自分に風魔法をまとわせた。そうしてふわりと浮いた身体に「よし!」と思いつつ、そのままバルコニーの手すりを超えてそっと階下に広がる庭に下りると、そのまま先程の人影を追い駆けた。
裸足だったのに気づいたのは庭に下りてからだった。けれどそのお陰で大きな音を立てずに済んだのは良かったと思った。
まだ魔力は残っているので風魔法で少しだけ身体を浮かせて移動してもいいかもしれない。そんな事はやったことはないけれど、なぜか出来るような気がしてリュカは浮いたり足をついたりしながら、チラチラとみえる人影を追い駆けながら夜の庭を進んでいく。
防犯の意味合いもあるのか、奥庭には空から落ちてきた星のような、小さく淡いガーデンライトがポツリポツリと置かれていて、星灯りだけでもその姿を見失う事はなかった。
夜の庭を歩くのは初めてだったけれど、不思議と怖さはなかった。怖さよりも確かめたいという気持ちの方が大きかったからかもしれない。
やがてその人はリュカが来たことのない奥庭の中に建てられている、以前話し合いをしたガゼボよりももっと小さな八角形のガゼボに入って、その柱に背中をもたれさせた。
遠目でも、月のように明るい灯りがなくても分かる銀色の髪。もちろん瞳の色までは分からない。
でも、だけど、まさか、やっぱり……そんな言葉が頭の中で渦巻いていたけれど、リュカはそっと口を開いた。
「……フィル?」
その瞬間、振り向いた男はリュカの知っているフィリウスではなかった。
「リュカ、どうして……」
驚いたその顔は幼いフィリウスの面影を残しているような気がしたけれど、彼はリュカの背丈よりも大きく、しっかりとした体つきで、年上に見えた。
それでも……分かる。彼はフィリウスだ。
「フィル……だよね?」
小さな声でもう一度問いかけると、彼はどこか苦し気に「ああ」と答える。そうして次の瞬間、慌てたようにリュカの前に走ってきた。
「裸足ではないか! どうしてここに。ああ、それよりも」
そう言うとフィリウスは自分が羽織っていたマントをリュカに被せるようにして、そのままリュカの身体を抱き上げてしまった。
「フィル!」
「風邪をひく。屋敷に戻ろう」
声は低くて、身体も大きい、けれど真っ先にそう言ってリュカの事を心配する彼に、リュカはそっと口を開いた。
「大丈夫。えっと、マントが温かいから。でもフィル、どうしたの? もしかして呪いが解けたの?」
そう言うと大人のフィリウスはクシャリと顔を歪めた。
「聞いたら、いけなかったかな」
「…………いや。ああ、そうだな。これは屋敷の人間も知っている者が少ない。寒くないのなら、少しここで話をしようか」
そう言ってフィリウスはリュカを抱いたままガゼボに戻り、綺麗な装飾のある腰板にリュカを乗せてしっかりとその身体を包み直すと、その隣に同じように腰かけてゆっくりと口を開いた。
ふふふ、予想をしていた方もいらっしゃいましたね。
フィル様大人バージョンです。
追記:すみません。少し手直しをしました。6/25 19:51
-----------
定期的なお願いです。
ブクマ、★評価、感想などの応援はとても励みになります。
気になるなと思っていただけたらよろしくお願いいたします。