13
目が覚めた時、時刻は普段の起床時間を大きく過ぎていた。
やばい! 遅刻だ! と飛び起きる。と同時に今日は文化祭初日であることを思い出す。危ない、セーフ、というわけでもないけれど、少なくともギリギリセーフ。昨日あんなことがあったからアラームをかけ忘れたのだろう、と土井は起き上がり、急ぐかどうか少し考える。文化祭とはいえ遅刻はよくない。とはいえ教室に自分の居場所などない。それでもシフトはあったのでそれを無視することもできない。ただでさえクラスに居場所などないのに文化祭の仕事まで放棄しては完全に居場所がなくなる。いたたまれない。何を言われるかわからない。それを考えると遅刻するだけでアウトだ。土井は慌てて部屋を出て支度をするのであった。
ようやく学校に辿り着く。文化祭は、というより一般開放はギリギリ始まっていなかった。土井は小走りに教室へ急ぐ。だからこそ、その視線たちに気づくことができなかった。
教室に入る。一瞬、しんと静まり返る。遅刻だ、やってしまった、と土井はうつむきながら奥へと進む。とはいえ教室は普段とは違い文化祭仕様になっているため自分の席などない。どうすればいいんだろう、どこにいれば、とりあえず荷物はロッカーに入れて……などと考えていると、それに気づく。
教室の雰囲気がおかしい。あまりに静か過ぎる。そうして教室内にいる誰もが、自分を見ている。ただ見ているだけではない。白い目。奇異の目。そうして周囲とひそひそと話している。遅刻したから、というにはあまりにも異なる雰囲気。それでも土井にはそれしか思い当たるところはない。そうして雰囲気が雰囲気なので謝るしかない。とにかく謝る。それがこれまでの土井の人生。
「――あの、遅刻して、すみません……」
そう言い頭を下げる。しかし反応はやはり異質。誰も何も返さない。そんな中、一人の男子が近づいてくる。
「なあ。これお前ってマジ?」
あざけるようなその笑み。そうしてスマホを突き出す。
その画面に映っていたのは、自分が女装しコスプレをしてギターを弾く動画だった。
瞬間、息が止まった。
「これお前なんだって?」
「――あ、う、いや、その……」
「その反応マジじゃん! うわっ、マジでこれお前なん!?」
「い、いや、ちが、」
「ぜってーそうっしょそのキョドりっぷり! うわっ、キモっ! え、なに? お前オカマなん? なんでこんなことしてんの?」
「い、いや、そ、その、ちが、ちがくて、」
「何が違うんだよ。これお前なんだろ? おいこれやっぱこいつだって! 女装コスプレユーチューバー! やるなーお前。全然しゃべんねーくせによー、裏ではこんなことやってたのかよ! マジえぐいわw え、なんでなんで? なんで女装なんかしてんの? やっぱオカマなん? これコスプレだよな? いかにもオタクだったけどマジでキメーオタクだったんだな!」
と笑う男子生徒。それにつられるように周囲の生徒たちも笑う。
「マジきめー」
「襲われるんじゃね俺ら?」
「ド変態だよなマジで」
「いかにも犯罪とかしそうだったけどマジで犯罪者だったんだなw」
直接言葉にしないが、女子たちもクスクスと、でなければ正真正銘汚物でも見るような嫌悪の眼差しを土井に向ける。
「――こ、これ、どど、どうして、ど、どこで……」
「どどどうしてw」
と土井のどもり口調を真似する男子。
「知らねーけどなんかラインで回ってきたな。グループとかで。なんかお前のクラスに土井ってやついる? これそいつらしいんだけど、みたいにな。そりゃ拡散するわなw もう学校中に広がってるでしょ。みんな知ってたし」
男子生徒が発する言葉は、あまりにも絶望。土井をどん底の縁に叩き落とすもの。
知られてしまった。バレてしまった。学校中に。みんなに。
「なード変態、それ文化祭で見せてくんねーの? やれよお前。マジで盛り上がっからさw したらお前一気に人気者だってw」
「お前マジエグすぎw そんなんしたらこいつマジで学校に居場所なくなんでしょw」
「知らねーよんなの。てかお前も見たくない? ちょっと脚見せてみろって。どんな手入れしてんの? オカマちゃんの美脚みんなに見せてやれよw」
土井は、動けない。どうすればいいかわからない。思考は、完全にフリーズしている。俺は、僕は……
顔を上げられない。笑い声だけが耳に届く。思考が消えていく。思考が止まる。自分が、消えていく。漂白されていく……
気づいたら、外にいた。通学路。自分がどうやってここまでやってきたのかわからない。あのあと何があったのかもわからない。そもそもあそこで何があったのかも、よくわからない。
土井はただ、とぼとぼ歩いた。ゆっくり、一人歩くしかなかった。目的地などない。自分がどこに向かっているかなどわからない。けれども足は自然と家に向かう。家。自分の唯一の居場所。自分が安心できる唯一の居場所。誰からも傷つけられない、自分の部屋。
土井はただ、世界のすべてから逃げ出したかった。
*
翌朝。あれから一日中布団にくるまっていた。寝ることだけが唯一の逃避方法だった。何も見ない。何も聞かない。ただ部屋にこもり鍵をかけ布団にくるまり時がすぎるのを待つ。
自分はもうどこにも行けない。外になど出られない。自分の居場所など、もうどこにもない。頭の中ではずっとあの嘲る笑い声が鳴っている。鳴り止まない。変態、キモい、オカマ……
終わりだ。もう全部終わりだ。もう二度と学校になんか行けない。どこにも行けない。自分の人生はもう終わりだ。自分はなんで、あんなことをしてしまったんだろう……ただの承認欲求で、深く考えもせず、ただ自分の欲求を満たすためだけに……というかなんでバレて……知ってるのなんて吉田さんくらいで……
疑ってしまう。けれどもそんなことありえないとも思う。ありえない。吉田さんに限ってそんなことはしない。けれども一度生まれた疑念はそう簡単には消えない。ありえない、違う。そもそもそんなことする理由がない。でも、万が一、不注意で誰かに言ってしまったとか、漏らしてしまったとか……
いや、だとしても吉田さんは何も悪くない。何一つ悪くない。全部自分が悪いんじゃないか。全部自分が撒いた種だ。全部自分が悪いんだ。僕が根暗だから、僕がコミュ障だから。僕がキモくて、変態で、そのくせプライドばかりでかくて、人を見下したくて、認められたくて、承認欲求で……
全部自分が悪いんだ。自分さえいなければ。自分さえいなければ、なんの問題もないんだ。
今が何時かもわからない。四六時中眠り続けることなどできない。けれどもベッドから出て何かをしようなどとも思えない。どうでもいい。全部どうでもいい。関係ない。全部関係ない。
自分には、自分なんかには、全部、すべて、関係ない。
突然、窓がドンドンと叩かれた。
「土井―! いるんでしょー!? ここ開けてー!」
その声は、吉田のものだった。
「土井ー! なんでもいいからとりあえずここ開けてー! 開けないと窓割って入るよー! マジ本気だからー! だからとにかく窓開けてー!」
そう言って何度も窓を叩く。なんで、どうして……出られるわけがない。会えるわけがない。いったいどんな顔をして。何も話せない。何も話すことなどない。自分は、自分なんかには。そもそも自分なんか、誰とも関わってはいけなかったのだ。自分なんかが誰かと関係をもっていいわけがなかったのだ。外になど、出ていいわけがなかったのだ。バンドなど、音楽など……
「土井ー! 早くしてー! ほんと早くしないと、やばい落ちる! 落ちちゃう! わっ、ちょ、やば! 落ちる!」
その声に、土井の体は思わず動いていた。慌ててベッドから立ち上がり、鍵を開け、窓を開ける。
その先に、吉田の顔があった。
「やっぱいんじゃん」
吉田はそう言い、ニッと笑った。
「やっばー。マジ落ちるかと思った。危なかったー」
そう言いながら、窓から吉田が入ってきた。太陽の光を、その背に背負って。
「やっほ。土井、おはよ」
「――おはよう、ございます……」
「あーほんと怖かったー。やっぱ二階から脚立で窓伝いはやばかったかな……下からの方が普通に安全だったね。高さ間に合うかわかんなかったけどさ。んじゃお邪魔しまーす」
吉田はそう言い、何事もなかったかのように土井の部屋に着地する。
「――あの、吉田さん……」
「なに?」
「……どうしてここに……」
「どうしてって、土井を迎えにだけど」
「迎え……?」
「そ。ライブ。今日じゃん」
「……ほ、本気ですか……?」
「決まってんじゃん。本気もなにも今日でしょ? ずっと決まってたじゃん」
「……いえ、そうではなく……ぼ、僕なんかと……」
「僕なんかじゃなくて土井しかいないじゃん。土井以外ありえないでしょ。だって土井は『yacell』のギターでボーカルでキーボードじゃん? 一緒にずっとやってきたじゃん」
「……そ、そういうことではなくてですね……僕なんか、というか、吉田さんだってその、知ってますよね……」
「何を?」
「……僕の、昨日、あれがバレて、僕が、女装してて、コスプレして、それで動画投稿してたのが、学校のみんなにバレてって……」
「うん、知ってる」
「じゃ、じゃあなんで……」
「んー、というかさ、土井はだからライブ出たくないってこと?」
「……で、出たくないというか、無理じゃないですか……無理に決まってますよ。そんな、あれがバレて、もう学校になんか行けませんし……だ、だいたい、吉田さんたちだってその、そんな変態と、学校中に知られてる、女装してコスプレしてる変態で気持ち悪いやつとバンドなんて、そんなことできるわけないじゃないですか!」
「……え、なんで?」
「なんでって……そんなの、普通に考えたらそうですし……」
「普通って?」
「……だってそんな、学校中で気持ち悪がられてる、ほんとにやばいやつと一緒にライブなんかしたらその、吉田さんたちだって評判というか、立場悪くなりますし……なんであんなって、おかしいんじゃないかって、色々言われて……」
「そっか。でももしそうだったとしてもさ、だから何?」
「……え……」
「だからなんなの? それ私たちには関係なくない? どうでもいいし。そうなったって私たちは私たちのままだし」
「い、いや、でも、こんな、僕なんかと一緒にいたら、僕なんかと同類と思われて、」
「別によくない?」
「……いや、」
「ていうかさ、土井はさっきから僕なんかとか変態がどうのこうとか言ってるけどさ、違くない? 私たちが一緒にライブやるのは、『yacell』のメンバーは土井なんだけど」
「……え……」
「土井でしょ? この三ヶ月一緒にやってきた土井。一緒にステージに立ってライブやってきた土井。ギター弾いて、キーボード弾いて、歌って、それで新曲も作ってきた土井。さっきから変態だの女装だの言ってるけどそれ土井じゃないよね」
「え……」
「それって『イド』とかいう人でしょ?」
「……どういう」
「そのまんまじゃん。土井は土井でしょ? 『yacell』の土井は、一緒にステージに立ってライブする土井は土井じゃん。あの土井。この土井。そのイドとかいう動画あげてる人じゃなくてさ。女装してコスプレして、顔出さないで動画で歌ってる人じゃなくて。
『yacell』の土井は、土井でしょ」
その、ある意味ではあまりにも正しすぎる言葉……
「だからそのイドって人がなんだろうと関係ないじゃん。私たちが一緒にライブするのはその人じゃないし。私たちが一緒にライブするのはさ、めっちゃギターうまくて、めっちゃ歌うまくて、めっちゃギターうまくて、おまけに曲までつくちゃって、
そんでステージの上じゃめちゃくちゃかっこいい土井なんだから」
それが、自分。それこそが、それだけが、土井無限。
土井は思い出す。あの日々を。あの光景を。スタジオの中で、何時間も一緒にした練習。あの小さなライブハウスの、小さなステージの上。そこでみなで一緒にやったライブ。そこにあった音楽。
音楽、音楽。音だけ。ライブだけ。全部削ぎ落として、残ったそれ。
それだけ。ソレダケ。それだけが、自分なのだと。土井無限なのだと。
「だからさ、一緒行こうよ。一緒やろうよ、ライブ。土井がいない『yacell』なんて『yacell』じゃないし、そんなライブはライブじゃないからさ」
吉田はそう言って手を差し出す。それはあの日と、あの時と同じ差し出された手。自分をこの部屋から、自分ひとりの世界から外へと誘う、魔法の手。
土井はそれに、手を伸ばし――
「おいヒデコー! 入ったならドア開けろ! うちらのことも入れろよ!」
と窓の外から声が飛んでくる。
「あ、そうだった。忘れてた忘れてた。土井ちょっと失礼するね」
吉田はそう言い立ち上がる。そうして部屋を出ると、数十秒後ぞろぞろと人を連れて戻ってくる。
「いんじゃん土井」と外田。
「うーっす土井。おひさー」と古石。
「みなさん……どうして……」
「迎えに来たに決まってんだろ」
と外田が答える。
「まあなんだ。いきなり部屋まで押しかけて悪かったな。とりあえず顔見れて安心したわ。まーなんもなくてよかったよ。てわけでもないだろうけど」
「こんなん言ってるけどソラマジで心配してたんだぜ~い。顔面蒼白って感じでさー」
と古石も言う。
「言いすぎだろ。んな顔面変わってねえよ。心配はすんだろ普通。まーとにかくさ、ヒデコから話は聞いてんだろうけど、迎えきたぞ」
「……みなさんも、僕なんかとライブする気なんですか……?」
「は? うざっ」
「うざって……」
「うぜーだろ。なんだよ僕なんかって。やる気なかったらこんなとこ来てるわけねーだろ」
「いや、でも、みなさんだって知ってますよね……ほんとに、ほんとにいいんですか? ていうかあれ見ましたよね?」
「あれな。見たけど」
「……だったらわかりますよね。あんなキモくて、変態で……」
「確かにキモかったな」
「うっ……」
「自分で言っといていちいち刺さってんじゃねーよ! キモいだろありゃ! でもそれはあれがお前だって知ってっからだしな。動画だけ見りゃただやたらギターと歌うまい女子がコスプレして演奏してるだけだろ」
「……ほんとに女子に見えました?」
「喜んでんじゃねーよアホ! とにかくあれがなんだろうとうまいしすげー事実は変わんねえだろ! キモいけど素直に感心するわ! うまいのもそうだけどあそこまで完璧に女声使い分けして歌ってよ! なあシュン!?」
「まーすごいよねー。てか再生数すごいし。あれいくら稼いでんの?」
「生々しいわ」
「だって一番気になるじゃん。てか土井はさ、なんでああいうの始めたの?」
「それは、その……最初は出来心っていうか、別に僕は女装が好きとか、やってみたいとか思ってたわけではないんですけど……ただその、最初は普通に動画撮ってまして、普通にこのまま、顔は出さないですけど、男のまま、キモオタのままで……それで投稿してたんですけど、でもそれじゃ全然再生されなくて。それでその、色々見てて、サムネでコスプレして脚や胸出してるだけの演奏動画がすごい再生回数出してて、だからその、自分だって同じ条件ならそれ以上再生されるって、自分のほうがうまいんだぞって、それで女装して、コスプレしてみたらそれまでとは比較にならないくらい再生されて……そこからはもう、病みつきじゃないですけど、再生数に溺れてとでもいいますか……」
「ようするに承認欲求か……確かにそういうサムネのほうが圧倒的に見られるからな」
「はい……でも、どっちみちそういうことしてたのは事実ですし、それも学校のみんなに知られてしまったんで……」
「そうだな。ていうかお前覚えてねえんだろうけどよ、あれ広めたのお前だぞ?」
「え? ――え、何言ってんですか?」
「いや事実だって。広めたってのは正確じゃないかもしれないけど暴露したのはお前だし。一昨日打ち上げでお前酒飲んだじゃん。その時の記憶一切ない感じ?」
「はぁ……まったくないですけど……」
「その時にお前からあのアル中三人組にあの動画見せてさ。自分はあれで金稼いでるって」
「……え、マジですか……?」
「マジマジ。それでまあ、ああいう場所だしみんな酔ってたし、上津さんとかも周りの人に見てみーって広げてさ。それでまあ、なんかそん中に一応うちの学校の関係者みたいなのもいてそっから広まったらしいけど。でもあの人らは何も悪くねーからな。そりゃ出来心だったかもしんないけど、そもそも自分から見せたのは酔ったお前だし止めてもいなかったし。むしろみんなに見せ回ってたし。だからってお前が悪いわけでもねえけどよ。酒のんだのは事故だしな。だからまあ、あえて何が悪いって言うなら、お前の酒の弱さと酒癖の悪さだろ」
「……二度と、二度と酒は飲みません……」
「それが賢明だろうな」
「いや、だとしても、外田さんだって古石さんだって、いいんですか本当に?」
「何が?」
「僕なんかと、あんな僕なんかと、一緒にライブして」
「いいけど。てかそれ以外ないし。お前あれで立つわけじゃないでしょ?」
「んなわけないじゃないですか!」
「だったら関係ねえだろ。そりゃ見るやつは別だろうけどさ、ステージに立つのはお前だろ。だったらお前を見せつけてやりゃいいだけじゃん。お前を上書きしてやりゃいいだけじゃん。こっちが俺だ、ほんとの俺だってさ」
外田はそう言い、ニッと笑う。
「でも文化祭としては絶対女装の方がウケる!」と古石。
「それ言ったらおしめーだろお前。ウケよかかっけーほうがいいだろバンドとしても。うちらはイロモノバンドじゃねえんだし」
「そうだけどそれは普通の土井ならかっこいいと?」
「あれよかそっちのほうが断然マシだってだけの話だろ。なんだっていいよ。とにかくお前次第だ。私たちと一緒に来るか来ないか、それだけだ。来ないならうちらは三人で、マチさんと四人でやるだけだからな」
「えー何言ってんの! 土井は絶対連れてくよ! 土井いなかったら私だってやらないし!」
と吉田が言う。
「だったらお前が無理やり連れてけよ。ヒデコならできんだろ」
「もち! わかったでしょ土井。断るなんて無理だかんね。だって土井はもう『yacell』の一員なんだから。土井がいない『yacell』なんて『yacell』じゃないんだから」
吉田はそう言い、改めて手を差し出した。
「だから私たちと一緒にやろうよ。みんなと一緒なら大丈夫だからさ。私たちと一緒なら、みんなで一緒にステージに立てば、土井は『yacell』の土井なんだから」
その手を、握り返すこと。そうしてしまえば、もう後戻りはできない。なかったことにはできない。裏切ることなどできない。
自分で選ぶのだ。自分の手で。何を選ぶのか。それはただ、この手を握り返すことだけじゃない。外に出ることだけじゃない。ステージに立ち、ライブをすることだけじゃない。そうではない。
自分が何者になるのか。自分が選ぶ自分とは、なんなのか。どちらなのか。自分がなりたい自分とは、なんなのか。それを選ぶということ。それを、選ぶ行為。
自分はどうしたい? どうなりたい? 自分とはなんだ? 自分とは誰だ? クラスの人間にとって、学校の人間にとって自分はあれだ。あの「変態」「オカマ」「女装野郎」「コスプレ野郎」。そしてキモくて暗くて喋らなくていないも同然の存在。それが自分。他者にとっての自分。
でも、ほんとにそうなのか? それがほんとに自分なのか? 「土井無限」なのか?
違う。自分が知っている自分は、違う。そうではない。それももちろん自分の一部だが、それがすべてじゃない。それが自分の「本当」ではない。
削ぎ落として残るもの。体脂肪を削ぎ落として削ぎ落として残る、自分の芯。自分の中心。そしてなにより、みんなが、この『yacell』のみんなが、ライブハウスのみんなが、知っている自分。みんなにとっての自分。
自分にとっての、自分。
それは音楽。それはギター。それはピアノにキーボードで、それは歌。あの曲に、あの歌詞。そしてあのライブ。音楽だけがある、音楽でみなと一つになっている、あの自分。
それだけが、それこそが自分じゃないか。
自分で選べ。自分の手で選ぶんだそれを。自分のこの手で掴むんだ。なるんだ。なるんだろ。なれるんだ。ほんとの自分に。自分が思う自分に。
あのステージの上ならば、ライブでならば、俺は俺が思う俺になれるんだ。
差し出された吉田の手。この手。思えば最初と同じ。その始まりに掴んだ手と、差し出された手と同じもの。もうその時に選んでたじゃないか。自分はあの時に、この手を掴んでいたじゃないか。
もう答えは、出ていたじゃないか。
土井は吉田の手を掴んだ。そうして立ち上がった。
「――行きます。俺も一緒に、ライブをやります」
「うん、わかってる。じゃあ行こっか、最高のライブに」
「はい」
土井は笑い、まっすぐに吉田の目を見た。
「よっしゃーじゃあ行くかー! そうと決まれば準備急げ! 時間ねーぞー!」
とテンションを上げる古石であった。
コンタクトをして髪も結んだ土井は階段を駆け下り外に出る。家の前には、一台の車が停まっていた。
「おうおせーぞ土井―! 待たせすぎだぜー!」
と後部座席から顔を覗かせるのは『gokohh』の高井であった。
「みなさんどうして!?」
「迎えだよ! 時間ねーんだろ!? 車で来てやったぜ! 機材もあるしな!」
「飛奈は乗ってるだけだけどねー」
と助手席で代々木も言う。
「ほんとあざす!」
「ありがとうございます!」
と外田と古石に続いて乗り込もうとする土井であったが、
「待った待った。悪いなのび太、この車五人乗りなんだ」
と高井が言う。
「え?」
「ギターは乗せられるからさ、土井は走りだな」
「……マジっすか?」
「こればっかりはしゃあない。法律だから。まあ男の子だしな、走るのは青春でしょ。ガンバ!」
「いや、ていうかそれだともう一人乗れませんけど」
と外田が言う。
「……飛奈、お前船おりろ」
「えええ!? 何言ってんのカワ!? 私のいないメリー号なんてメリー号じゃないでしょ!」
「メリー号じゃねえよ。お前乗る意味ないじゃん」
「それ言ったらイツチもでしょ!」
「私は走りたくないし~」
「私だって走りたくねーし! やだ絶対降りない! 走ったら死ぬ! まだ時間あんだろ!? 死ぬ気で走れよ!」
「けどそうなると土井ともう一人降りなきゃだけど……」と言う外田に、
「私が走るよ」
と車の外で吉田が言う。
「私が土井と一緒に行く」
「いいのか?」
「うん。このために、じゃないけどこの二ヶ月土井と一緒に走ってきたからね! 体力は大丈夫! それに私が最初に誘ったんだから、なら私が一緒に走らないと」
「……急げよ。それと気をつけてな」
「うん。そっちは準備任せたから」
「ああ、任せとけって」
外田はそう言い、ニッと笑ってドアを閉める。五人と機材を積んだ車が発進した。
「――じゃ、行こっか」
「――はい!」
土井と吉田も、二人で走り出した。
この二ヶ月。あの日から土井は毎日走ってきた。休むことなく走ってきた。そのおかげで元々皆無に等しかった体力は劇的に改善されていた。それができたのは、無論一人じゃなかったからだ。吉田がいたから。二人だったから。だからずっと、走り続けてこれた。
それは今も変わらない。いつもと同じ光景。前をゆく吉田。その背中。違うのは服装くらい。それ以外は、何も変わらない。いつも同じ。
――思えばいつもそうだった。吉田さんは、何も変わらない。最初から何一つ変わってない。こんな俺を信じてくれて。いつだって手を差し伸べてくれて。導いてくれて。一緒に行こうと、ついてきてよと、そうやって前を走っていて。
俺はそれに追いつきたかった。並びたかった。並んで一緒に、走りたかったんだ。
土井はスピードを上げる。吉田に追いつく。隣に並ぶ。二人は並んで一緒に走る。急げ、急げ、間に合え。
そこに行くために。辿り着くために。走れ、走れ、走れ。




