第2話 契約書と依頼書
ベルからブロード商会に誘われた翌朝。
「ブロード商会に転職か……」
冒険者ギルドの重い扉を前に、ため息を一つ吐く。
息を吸うと、10年分の汗と泥が染みついた、重い鉄錆の匂いが鼻の奥を突いた。
扉を押し開け、中に入ればそこには見慣れた光景。
ヤニがこびりついた黒い柱に、よく磨かれた石の床。
見知った顔の冒険者たちが四方山話に花を咲かせていた。
いつも通り、ギルドの受付へ向かった。
「おはようございます!」
受付さんが元気に挨拶してくれる。
「こちらが昨日分の日当です。お受け取りください」
「ありがとうございます」
そそくさと銀貨6枚を財布にしまった。
慣れた手つきで書類を捌く受付さんとのやり取りも、4年目になろうかとしている。
前日の日当を受け取って、当日の依頼書を回してもらう。
これが毎日の繰り返しだった。
そんな受付さんの手が一瞬止まる。
「今日はお仕事は、えっと……あ、今日はお休みなんですね!」
「ええ、少し考え事をしようかと」
愛想笑いして、視線を掲示板にそらした。
やけに強調された依頼書が、真っ先に目に留まった。
【募集拡大!ワイバーン巣の調査――報酬金貨1枚】
金貨1枚とは大層な大盤振る舞いだ。
とはいえ、戦うことのできない私にはどうせ関係のない話。
見ないふりをして、その依頼の前を通り過ぎ、待ち合わせ場所に向かう。
入り口近くでは、ベルが冒険者に声を張っていた。
「冒険者限定! なんと今ならマジックバッグが初期費用半額!」
何人もの冒険者が足を止めていた。
同業者たちが、好奇と警戒を半分ずつ混ぜた目でベルを見ていた。
「あの商会章ってどこのだっけ?」
「知らないのかよ。マジックバッグのブロード商会だぞ」
ベルは私に気付くと、すぐに営業を中断し、笑顔で歩み寄ってきた。
「じゃあ、事務所に行きましょうか」
ベルの案内でたどり着いたのは、街並みを見下ろす豪邸。
磨き上げられた門扉には金の紋章が刻まれていた。
「おお! これがブロード商会!」
息を弾ませて、身を乗り出した。
「おーい、こっちこっち」
感動はベルの声に断ち切られる。
豪邸の影に、ポツンと小さな家が隠れていた。
外壁には蔦が這い、色褪せた木枠の窓がのぞいている。
ベルは慣れた手つきで、軋むドアを押し開いた。
「ブロード商会へようこそ」
几帳面に整えられた室内には、人の温もりがやわらかく滲んでいた。
手前に応接用のソファー、奥には3つの事務机。
どの机にも伝票が積まれ、とりわけ一番奥の机では、伝票の山が今にも崩れそうだった。
「ベル、おかえりー」
女性が満面の笑みで出迎えてくれた。
「あ、レジナルドさんですね! チアリーです!」
ペコッとお辞儀するチアリー。
「お茶入れてきます」と敬礼しながら、奥へパタパタと駆けていった。
ベルに促されて、ソファーに座った。
「さっそくだけど、レジー。あなたの力をブロード商会で発揮してみない?」
ベルは契約書を差し出した。
契約書には細かい文字がびっしりと並んでいた。
勤務時間、福利厚生、業務内容――
私の目は一点に吸い寄せられた。
『月給:金貨5枚』
ほう、5枚か。
ん? ……5枚!?
「月に金貨5枚!?」
今の稼ぎなら、よくて月に金貨1枚いくかどうか。
10年もやってきて、だ。
「マジックバッグは知っているわよね?」
「はい。見た目以上に物を収納できる、魔法のバッグだと聞いています」
ベルは満足そうに頷いた。
ここ最近、マジックバッグの名は冒険者の間でもよく話題に上がってきていた。
高ランク冒険者の一部が使い始めたのを契機に、じわじわと広がりつつある。
曰く、日雇いで荷物運びを雇う時代は終わった。
私にとっては仕事を失いかねない一大事だ。その存在を気にしない訳にはいかなかった。
ベルは立ち上がると、玄関脇の棚から革製のバッグを取り出した。
「これがマジックバッグ。実物を見るのは初めてかしら?」
手のひら2枚分ほどの大きさ。
ベルはバッグに手を入れると、1mの竹尺、やかん、布団、木彫りの熊、鉢植え、と次々に取り出して見せた。
私はポカンと口を開け、呆気に取られていた。
「便利でしょ? これでもまだ容量の半分。それに、どれだけ入れても重さは変わらないの」
私は息を呑んだ。間違いない。
これがあれば――荷物運びの苦労が、冒険そのものが変わる。
ベルは荷物をバッグに入れ、棚に戻した。
姿勢よく座りなおしたベルの表情はまさしく商品を値踏みする商人のそれ。
気付けば、こちらまで姿勢を正していた。
「これまでうちの主な顧客は商人だったから、冒険者のニーズをまだ掴みきれていないの。だから、冒険者向けの窓口を整えるには、『現場』を知っている人が、どうしても必要になるわ」
なるほど、と頷く。
販路拡大において最も重要なのは、疑う余地もなくニーズの把握だ。
いくら良い魔法具でも、現場で必要とされる形に落とし込めなければ宝の持ち腐れ。
経験者を採用したいという考えは尤もである。
しかし、私は冒険者歴こそ10年にもなるが、ランクは未だDのまま。
大きな戦闘はおろか、マジックバッグが最も活躍するであろう長期間遠征の経験すらない。
「私程度の知識や経験で、お力になれるかどうか……」
視線が落ちる。
ベルは私の顔を真っ直ぐ見つめた。
「冒険者なら誰でもいいという訳じゃないわ。ブロード商会が提供するのはマジックバッグという技術を用いた大規模な物流。それを支えてくれる現場整理と流通の勘を兼ね備えた人物が私たちには必要なの」
少しだけ腰を浮かせるように、ぐっと顔を近づけて、言葉を続けた。
「昨日の采配を、私はこの目で見ていた。たった2時間で全ての『詰まり』を解いた手腕は間違いなく本物よ」
その表情は自信に満ちていて、こちらの卑屈さが少しだけ恥ずかしかった。
「ベルがそこまで言うなんて、レジナルドさん、優秀なんですね!」
チアリーがお茶を乗せたお盆を持ってずいっと割り込んできた。
「いや、あの時はベルさんに味方していただいて……」
「まーたしかに。ベルはお仕事“だけ”は超一流ですからね!」
自慢するように胸を張って見せるチアリー。
ベルは咳払いでそれを窘める。
「チアリー、余計なこと言わないで」
「ごめんごめん!」
チアリーは舌を出して笑った後、ベルの横にポンっと腰を下ろした。
「でも、レジナルドさんが来てくれたら、すごく助かるんです!」
「そうね」と言って、ベルは改めて私の顔を覗き込んだ。
「ブロード商会のスタッフは3人。私が営業」
「私が設計! で、もう1人が経理担当だよ」
チアリーの補足を受けて、ベルは話を続ける。
「だから、私たちには『現場』を見ることのできる人が必要なの」
「現場」を見ることができる、とはこれ如何に。
「現場と言っても、昨日はただ詰まっているところに気付いただけで」
ベルは何かが腑に落ちたとでも言いたげな表情で、口元を綻ばせた。
そして、お世辞でも慰めでもなく、ただ事実を告げるような顔で言った。
「あなたに見えていた荷車の流れ、人の動線、時間のロス――その全てを瞬時に判断して、あの短時間で最適化する。今まで私は、そんな人材に会ったことがないわ」
ベルは机上の契約書をすっと前に差し出した。
「だから、あなたしかいないの。レジー。その力をブロード商会に貸してちょうだい」
事務所を出た頃には、日は西に傾き始めていた。
胸ポケットに入れた契約書を指先でなぞりながら、気付けば足は冒険者ギルドへと向かっていた。
掲示板には、朝見たのと同じ緊急依頼が貼り出されていた。
【募集拡大!ワイバーン巣の調査――報酬金貨1枚】
改めて要綱をよく読むと、Dランク冒険者にまで募集がかかっているではないか。
荷物持ちぐらいなら、私も役に立てるだろうか。
いやしかし、私が行ったところで、私自身がお荷物になってしまうのでは。
「レジナルドさん、こちらの依頼、お受けになりますか?」
腕を組んで逡巡していると、受付さんが声をかけてきた。
「魔物絡みでDランク向けの依頼なんて、ここ10年で初めて見ましたよ」
腕に覚えのある連中なら、喉から手が出るほど欲しがる依頼に違いない。
「普段ならBランク以上の募集ですからね。巣が広くて人手が要るうえに、高ランク冒険者が出払っていて――今回はあくまで『調査』なので、Dランクでも対応可能と判断されたそうです」
「なるほど。報酬に金貨1枚とは、ギルドも本腰を入れていますね」
金貨1枚。それだけあれば、ひと月は暮らせる額だ。
確かに報酬は魅力的。
だが、私にとってそんなことは眇たる問題だった。
私の中には冒険者を志した時の、あの熱が再び沸々と湧き上がり始めていた。
「出発は明日の早朝。募集はあと1枠です――どうされますか?」
10年間、私は冒険者だった。
強大な魔物と戦う勇者――それが私の夢だった。
戦えなくても、ただの荷物持ちでも、間違いなく私は冒険者だったのだ。
だが、昨日の路地裏で気付いてしまった。
私には別の場所がある。別の戦い方がある。
ベルの声が、頭の中で蘇る。
「たった2時間で全ての『詰まり』を解いた手腕は間違いなく本物よ」
私はここで夢を手放すのか。
戦わない古株冒険者? その先に私の夢など待っているのだろうか。
「レジナルドさん?」
受付さんの声が遠くに聞こえた。
10年追いかけた夢と、昨日見つけた居場所。
壁に貼られた依頼書に触れると、ざらりとした感触が指先に絡みついた。
内ポケットの契約書をつまみ上げて、そっと押し戻した。
「……少し、考えさせてください」
ぎゅっとまぶたを閉じると、時計の刻む音だけが耳に残った。




