ガーデニング教室
平日が終わり、土曜日になった。今日は蘭太郎の家、花屋でガーデニング教室が行われる。朝10時に集合とのことだが、緊張なのか、興奮なのか朝早く目が覚めてしまった。
僕はいつもよりも時間を掛けて身だしなみを整えていた。鏡を見ながら前髪を整えていると、自室の扉が開かれた。
『こら菜穂、勝手に部屋に入るな』
『べつにいいじゃん。なに、ノックでもする?』
自室に入ってきたのは妹、菜穂だ。
『ああ、それいいね』
『ノックしても意味がないでしょ』
『いや、わかるよ』
『え? そうなの?』
菜穂は目を見開く。
『うん。聞こえてなくても振動でわかるんだよ。今も、菜穂が僕の部屋の前まで来てたの、床の振動でわかってた』
『ええ……なにそれ、ちょっとキモい』
菜穂が眉間に皺をよせ、後ずさる。
『お兄ちゃんの凄いところキモいっていうのやめて。傷ついちゃうから』
『ていうか、それならノックしなくてもわかるってことじゃん!』
『まあ、そうだね』
『やっぱ意味ないじゃん!』
菜穂が何やら抗議しているが、どうだっていい。
『で、何か用? お兄ちゃん今から出掛けるからその準備で忙しいんだけど』
『いや、それナホも行くから。お兄ちゃんがいつまでたっても来ないから呼びにきたの』
菜穂は腕を組む。園川さん誘った日、帰宅した後、菜穂に自慢をした。そしたら菜穂も行くと言いやがった。
『えー、本当に来るの?』
僕は顔を歪ませる。
『お兄ちゃんの好きな人見たいからねー』
菜穂は上機嫌に跳ねる。絶対見せたくねー。
『はあ、まあいいか』
『よし! じゃあさっそく行こう! 遅れちゃうよ!』
そのまま菜穂に引っ張られながら、家を出た。
蘭太郎の家、花屋に来た。時刻は9時55分。ぎりぎり間に合った。
『今日はよろしくお願いします』
僕が頭を下げると、蘭太郎のお姉さん、紫織さんもお辞儀をする。
『ええ、よろしくお願いします。晴れてよかったです。絶好のお花見日和ですね』
紫織さんは天使のように微笑む。
『はい。すみません。余計なものが付いてきて』
『お兄ちゃん、それ私のこと?』
横から圧力を感じる。ちなみに菜穂は、家では一人称が〈ナホ〉。それ以外では、〈私〉と使い分けている。なんの意味があるのやら。
「―――――――」
「―――――――――」
なにやら口頭で自己紹介をしているようだ。菜穂は頭を下げ、にこやかに話している。
紫織さんは口元に手を当て、笑っている。家では横暴な妹が外でしっかりと話しているのを見ると不思議な気持ちだ。
『それでは、みなさんお揃いですのでさっそく行きましょうか』
紫織さんが2階へ案内する。階段には手すりが付いており、一段一段の先端には滑り止めのゴムが着いている。やはりバリアフリーに気を遣っているようだ。園川さんも無事来られただろうか。この階段を登りきったら、きっと、園川さんがいる。
『私も、水瀬くんと一緒にいたい』
園川さんの台詞が鮮明に脳に呼び起こされる。今はまだ春の季節にも関わらず、暑い。僕は手のひらで顔を扇ぐ。上手く話せる自信がない。僕はスマホをポケットから出しでんごんくんを起動する。
よし。大丈夫。特に不具合はない。今まで不具合になったことなどないが、一応、チェックした。相変わらず年季とヒビの入ったスマホはつい先ほどまで充電フルだったにも関わらず、残量は30%だが、問題ないだろう。
呼吸を整え、最後の一段を踏む。顔を上げる。
端の方の席に園川さんが座っていた。
彼女は僕の方を向いたような気がしたが、すぐに下を向いてしまった。
僕は彼女に近づき、話しかけた。
『こんにちは、園川さん』
僕があいさつすると、園川さんは耳まで顔を赤らめていた。その後、急に立ち上がった。
『お、おはよう……水瀬くん。きょ、今日はいい天気だね。涼しくて過ごしやすいですね!』
『う、うん! そうだね。涼しいね! えっと、顔赤いよ?』
『え!? そんなことないよ! バカっ、変態!』
『ええ! なんで!?』
僕は彼女の隣に座る。花屋の2階は広く、教室2部屋分ある部屋全体が白を基調とされ、窓以外すべて木でできている。長方形の机が4つあり、それぞれ人が4人ほど座れる。
今回ガーデニングに参加するのは僕と園川さんと菜穂、それと40代ほどの女性2人に、その中の子どもと思われる小学生の女の子がひとり、合計6人だ。それぞれ知り合い同士で座り、席は二手に分かれる。僕は園川さんの隣に座り、菜穂は僕の向かいに座る。
『あ、園川さん。紹介したいやつがいるんだけどいいかな』
『あ、うん! いいよ!』
園川さんにスマホを向けると、驚きつつも大きく相槌をうつ。なんだか園川さんの様子が少しおかしいような気がする。僕は向かいに座る菜穂にアイコンタクトを送る。
菜穂は理解したようで、立ち上がる。
『こちら僕の妹の菜穂です』
「――――――」
「――――――――!」
菜穂が笑顔で園川さんに挨拶をする。
なぜか園川さんは顔を真っ赤にし、手を横に振り、何かを必死に否定しているようだ。
挨拶が終わったようで、菜穂は席に座った。僕は菜穂に手話を送る。
『お前、園川さんに変なこと言って困らせてないだろうな?』
『なにも言ってないよー。ただ、いつも兄がお世話になっておりますーぐらいしか言ってないよ。それにしてもお兄ちゃん意外とやるねー』
『何が?』
菜穂がニヤニヤといたずらな笑みを浮かべる。菜穂は声に出しながら手話を僕に送る。
『こんなにかわいい人と付き合ってるなんて、妹はびっくりですよ』
『付き合ってないから!』「――――――――!」
園川さんも同時に何か言ったようだ。その様子を見て、菜穂は余計に面白がる。
『おーハモった! 仲良し~』
『菜穂、からかうのもいい加減にしなさい』
『はーい』
菜穂は反省した後、べつの席に座る主婦らしき40代の女性に話しかけた。
あいつコミュニケーション能力すごいな……。
一方、園川さんは具合でも悪いのか俯いてしまった。
『園川さん、大丈夫? 具合でも悪い?』
『あ、いや、大丈夫だよ。ちょっと緊張しちゃって』
『そうだね。僕も緊張しちゃっていつもより早く起きちゃったよ。ガーデニングとかやったことないから不安で』
嘘ではない。でも僕の場合はガーデニングどうこうというより、園川さんに会うことへの緊張で早く起きてしまった。そんなこと園川さんにいえないけど。
『うん。私にガーデニングとかできるのかなーっていう不安は少しある。でも、私が緊張してるのはそれだけじゃなくって……』
いったい何に緊張しているのだろう。慣れない環境に来ること自体がやはり、園川さんにとってかなりストレスなのだろう。緊張状態に陥るのも無理ない。
僕は少し罪悪感を抱きながらいう。
『会ったときも顔が赤かったし、具合悪いの?』
『っ! 顔赤くないから! 水瀬くんのせいだから!』
『ええ!? よくわからないけどゴメン!』
『もう!』
彼女に睨まれているような気がする。
よくわからないが、しっかりしなければと自分を鼓舞する。
『そういえば、今日はどうやってここまで来たの?』
『お母さんに送ってもらったんだ……もう』
話の途中で何かを思い出したのか、彼女は頬を膨らませる。
『なにかあったの?』
『お母さんが、彼氏さんによろしく伝えといてって。彼氏じゃないって言ってるのに』
『そ、そうなんだ』
どう反応していいか困る。
『水瀬くんの妹さんもそう! 私たち……そういう風に見えるのかな?』
『どうだろう。でも僕は……べつに、そういう風に見られていても問題ないけど……』
『え?』
『あ、いや、ごめん』
……終わった! 完全にキモいやつだ!
僕のことがキモすぎて園川さんが帰っていないことを祈りながら僕は隣の席を横目で見る。彼女は俯きながら、何かを呟く。当然僕には聞こえない。しかし、〈でんごんくん〉は聞き取っていた。
『私も、べつに――――』
『え?』
『ううん! なんでもない! 聞かなかったことにして!』
いや、まあ、聞こえてはいないんだけど。僕の脳は過度な衝撃により真っ白になる。
しかし顔は沸騰するぐらい熱く、赤くなっている。それは彼女も同じようで、耳まで赤くなっていた。
『あ~今日は暑いね~』
『そ、そうだね~』
ふたりとも手で顔を扇ぐが、一向に熱は冷めなかった。
時刻は10時を過ぎ、ガーデニング教室がはじまった。はじめは紫織さんと紫織さんのお母さんである店長があいさつをし、紫織さんがガーデニング教室の流れを説明した。
紫織さんや店長は手話で話し、ひとつひとつの文章を適切なところで区切りながらゆっくり話してくれたのでとてもききやすかった。
どうやら今回のガーデニング教室では、基礎中の基礎を教えてくれるようだ。春に咲く花とそれらの花言葉。実際に花を見て、どんな風に育ててゆくかということを勉強するみたいだ。
僕はもともと植物に関する知識は疎いが、蘭太郎の手伝いをしていることもあって多少、知っていると思っていた。
だが実際に話を聞くと、僕が思っているよりも奥が深く、植物を育てるのがいかに大変で、苦労が絶えないかということを知った。
次に、春の花の紹介だ。色とりどりの花が机に置かれる。全部で4種類の花がある。
その中にアネモネがあった。花が置かれた後、園川さんは鼻を動かしていた。
『水瀬くん! いい匂いがするよ!』
『そうだね。香りのする花もあれば、そうでもない花もあるのかな。どれがどの香りの花なんだろう』
僕が花に近づくのと同時に園川さんも花に身を乗り出す。
頭同士が当たってしまった。
『あ、ごめん! 園川さん! 大丈夫?』
『大丈夫。ごめんね! ついはしゃいじゃって』
園川さんは頭をさすり、照れ臭そうに笑う。
『僕もつい。ねえ園川さん! アネモネあるよ!』
ぱっと花が咲くように彼女は笑顔になる。
『ホント!? えー見てみたいな~。ねえ水瀬くん! アネモネってどんな匂いするの?』
僕は色とりどりのアネモネが咲いた花瓶を引き寄せ、鼻を近づけてみる。
『あんまり匂いしないかな。微かにちょっと香りがするような』
『そうなの?』
園川さんは椅子を僕に近づけ、肩が触れる。
『う、うん。ほら』
園川さんの顔にアネモネの花を近づける。
『ホントにちょっとするようなって感じだね。他の花の香りが強くてわかんない』
『そ、そうだね』
僕は心臓の音が聞こえないように胸を抑える。
他愛のない話をしているうちに、紫織さんが花の説明をする。
僕はスマホを机の上に置く。
『いま、みなさんの前に4種類の花を置かせていただきました。今からふたつの班に分かれて説明いたします』
相変わらず丁寧で優しく話をしてくれている。
店長と紫織さんはそれぞれの机にわかれ、こちらの机には紫織さんが来た。
『盛り上がっていますね』
紫織さんは口元に手をやり、上品に微笑む。
『そ、そんなんじゃないですよ』
『まんざらでもないくせに~』
『菜穂、茶化すな』
「…………」
園川さんはなぜか俯いてしまう。
『それでは、さっそく説明させていただきます。では一番盛り上がっていたアネモネから説明しましょうか』
紫織さんはアネモネを机の真ん中に置く。
『アネモネは春に咲く花の代表的な花のひとつです。10月、11月などの冷えてきた季節に球根を植え、春の4月頃、おだやかな風が吹く頃に開花することから別名、風の花ともいわれております』
『へ~寒いころに種まいて大丈夫なんですか?』
菜穂が疑問を口にする。
正確には〈種〉を植えるのではなく、〈球根〉を植えるのだが、紛らわしくなるのを防ぐためか紫織さんはあえて否定しない。
『ええ。アネモネは寒さには強いので、あえてその時期に植えるんです。ちなみにこちらがアネモネの球根です。一応、毒があるので、大丈夫だとは思いますが念のため直接触らないでくださいね』
そう言って紫織さんは白い包み紙を僕らの前で広げる。
『なんか梅干しの種みたいだな』
『どっちかっていうとコマみたいじゃない?』
僕と菜穂がそれぞれの感想をいう。
『梅干し……じゅるり』
『園川さん?』
僕が園川さんを横目に見ると、口元を両手で覆っている。
『な、なんでもないよ! こっち見ないで!』
『ごめん!』
『お兄ちゃん、さいてー』
『なんで!?』
園川さんは梅干しと聞いて食欲が刺激されてしまったのだろう。
相変わらずの食いしん坊だ。ほほえましく、つい笑ってしまう。
『いま、私のこと食いしん坊だと思ってない……?』
『うん。思ったよ』
『思ったの!? そこは思っても否定するところじゃないの!?』
『いや、嘘はいけないし』
『律儀だね……』
『ごめんなさい奏さん。ウチの兄は頭が悪いので』
『空気読めないとかじゃないの? なんでそんな言い方するの? お兄ちゃんのこと嫌いなの?』
『嫌いだよ』
『そこは否定して!』
僕は涙目になりながらいう。そんなやりとりを紫織さんは微笑ましく見守っている。
『ふふっ。アネモネには素敵な花言葉があるんです』
『え~どんな花言葉だろ。明るい未来とかかな』
菜穂が勝手に予想しはじめる。
たしか前、花屋に来たときに蘭太郎から教えてもらったような気がするが、そのときは色それぞれで花言葉があるということだった。アネモネ単体で花言葉があるのだろうか。
なんだろう。
『園川さんはどんな花言葉だと思う?』
『〈はかない恋〉だった気がするんだけど……』
園川さんは自信なさげに呟く。
『正解です! よくご存じでしたね!』
紫織さんは拍手し、嬉しそうに話す。僕は若干引き気味に問う。
『どこが素敵な花言葉なんですか……。めちゃくちゃ悲しい花言葉じゃないですか』
『いいじゃないですか〈はかない恋〉って。陰からそっと片思いをして、想いを伝えたいけれど伝えられないという甘い青春恋模様。ああ……私の青春はもう二度と来ない』
紫織さんは目元に手をやり、涙を流すそぶりをする。なんだか何も言ってはいけない雰囲気になってしまった。でもさすがに無視をするのはかわいそうなので、適当に励ます。
『紫織さん美人なので、きっと良い人見つかりますよ』
『あら、ありがとうございます歩くん。ふつつかものですが、よろしくお願いします』
紫織さんはぺこりとお辞儀をする。
『え、いや、そういう意味では――』
僕が急いで否定しようとするものの横から遮られる。
『水瀬くんはやっぱり変態ですね』
園川さんが僕の脇腹を突いてくる。
身体的にも、精神的にくるものがあるのでやめていただきたい。
『違うんだよ園川さん』
『なにが違うの?』
心なしか怒った表情を向けられている気がする。
というか、僕はどうして言い訳をしなければならないのだろうか。
『ちゃんと僕には好きな人がいて、その人以外に目は行かないから』
『そ、そうなんだ……』
僕が恥ずかしながらいうと、なぜか園川さんは口をしぼめる。
『わ~、何度こういうの見せられたら気が済むんだろ』
『これぞ、甘い青春模様ですね』
菜穂が頬杖をつき呆れ、紫織さんが何やらはしゃいでいるがそんなことは気にしていられなかった。
気まずいので話を戻す。
『それで! アネモネの話ですよね! 紫織さん!』
『ああ、そうでしたね。この甘い光景をずっと見ていたいんですが、仕事なので仕方がありません。話を戻しましょう』
『よろしくお願いします』
甘い光景とは何か一体なんのことかさっぱりわからないが、僕は丁重にお願いをする。
『アネモネの花言葉は諸説ありますが、一般的には先ほど申し上げた通り、〈はかない恋〉です。また、アネモネの花の色によってもそれぞれ違った花言葉があるんです。いったい、どんな花言葉でしょうか』
紫織さんから問われた。これは前回、蘭太郎からきいたので知っている。
『白が〈真実〉〈期待〉。紫は〈あなたを信じて待つ〉。赤は〈君を愛す〉であってますか』
『すごい! よく知っていましたね歩くん!』
『一応、調べたんで』
少し照れ臭い。
『へ~、お兄ちゃん、よく知ってんじゃん。なんで調べたの?』
菜穂がニヤニヤとこちらを見る。こいつ、わかってて訊いてきてるな。
『いや、べつに。なんとなくだよ……』
『ホントに~?』
『うるさいバカ! なんでもいいだろ!』
『はいはいごめんなさーい。奏さん、うちの兄、アネモネの花言葉調べたんですって』
菜穂は園川さんに告げ口をする。園川さんは戸惑いながら、口を開く。
『そう……なんだ。水瀬くん、どうしてアネモネの花言葉なんて調べたの?』
くそっ、菜穂のやつ余計なこと言いやがって!
『いや、その……園川さんが好きな曲〈アネモネ〉ってやつだから、なんとなく調べてみようかなーって』
『あっ、そ、そっか! 私も好き……だから、調べてみたんだけど、色ごとに花言葉があるなんて知らなかったよ! 全部、素敵な花言葉だよね』
『うん! そうだね!』
どうしてか少しぎこちない会話になってしまう。菜穂のせいだ。
僕は菜穂に抗議の目を向けるものの、菜穂はそっぽを向いて口笛を吹くそぶりを見せる。
やっぱりこいつ連れてくるんじゃなかった!
『ふふっ、青春ですね』
紫織さんは相変わらず楽しそうに微笑んでいる。
その後、他の花の話も聞いて、それぞれの育て方などを丁寧に紫織さんに教えてもらった。菜穂もおとなしく聞き、わからないことがあったらその都度、紫織さんに訊いたりなどガーデニング教室を満喫していた。
そんなこんなで時刻は昼の12時を過ぎようとしていた。紫織さんが前に出て、話をする。
『みなさん、今日はガーデニング教室にお越しいただき、誠にありがとうございました。以上をもちまして、ガーデニング教室を終了させていただきます。これを機に、少しでもお花に興味を持っていただけたら幸いです。それでは、これからウチのお店の裏にある桜のもとでお花見をしようと思います。お手洗い等済みましたら裏にいらっしゃってください』
紫織さんが深く、お辞儀をしてガーデニング教室は解散になった。
『けっこう色んなこと知れたね』
僕は隣の椅子に座る園川さんに話しかける。
『そうだね。私、アネモネに毒があるなんて知らなかったよ』
『うん、僕もだよ。食べられなくて残念だったね』
『うん、残念……ってもう! さすがに花は食べないよ! 私をなんだと思ってるの?』
園川さんは頬を膨らませ、僕は笑う。
『冗談だよ』
『まったく心外だよ! 今はもうさすがに食べません!』
『え、今は?』
『それより早くお店の裏に行こうよ! もうお腹ぺこぺこだよ~』
園川さんはお腹をさする。
『ですねー。あ、奏さん荷物持ちますよ!』
菜穂が園川さんの横にあるトートバックを持ち上げる。
『ねえ、ちょっと待って。今はってどういうこと!? 昔は食べてたの!?』
『ありがとう菜穂ちゃん』
『ほらお兄ちゃんも。早く行くよ』
僕の台詞はスルーされ、園川さんと菜穂は椅子から立ち上がり歩きはじめてしまう。
花って食べて大丈夫なの……?
僕は彼女の食欲を心配になりながら、ガーデニング教室を後にした。
花屋の裏は壮大な景色が広がっていた。
大きな桜の木が何本も連なり、桜のもとにいると、広大な青空がピンクの花びらに覆われる。土も綺麗に整備されており、石ひとつない。茶色の土には、風が吹くごとにピンクのカーペットに染まる。その上に10人が余裕で入れるほどのシートが敷かれる。
敷いているのは僕がよく知っている人間、この花屋の息子、花宮蘭太郎だ。
僕は蘭太郎に近づき、話しかける。
『蘭太郎、お疲れ様。何か手伝えることはある?』
蘭太郎は明るい笑顔を向ける。
『おお! お疲れ! 歩はお客さんなんだから大丈夫だよ。どうだったガーデニング教室は』
『いろんなこと知られてよかったよ』
『そりゃよかった。そんで? 歩の好きなやつっていうのはあの人?』
そう言って、蘭太郎は少し離れたところで菜穂と話す園川さんを指さす。
『……まあ、そうだといっても嘘にはならないこともないわけでもない可能性は充分ある』
『紛らわしいな。なに、付き合ってんの?』
『付き合ってないよ!』
『えー、だって休日にわざわざ異性のクラスメイトと遊びに行くか?』
『そっか、蘭太郎にはそういう経験ないもんね』
『真顔で俺の心を傷つけるな……。ま、いいんじゃねえの? 青春を楽しめ少年』
『同い年が言うなジジイ。きょうだい揃って青春好きなの?』
『え、姉ちゃんも同じこと言ってた?』
『うん。私にはもう青春がこないとか嘆いていたよ』
『なあ、歩』
僕の肩を掴み、真剣でまっすぐな目を僕に向ける。
『なに?』
『姉ちゃんをお嫁に――』
『――断る』
『うん。早い』
僕と蘭太郎が他愛のない話をしているといつの間にかお花見の準備が整ってきた。
僕は園川さんと菜穂のもとに行き、シートの上に座る。すると、紫織さんがシートから立ち上がった。
『ではみなさん、存分にお楽しみください』
そう言って紫織さんはお店に戻っていった。蘭太郎もお花見を一緒にできるとのことだったが、ガーデニング教室の後片付けがあるので後から来るそうだ。
シートの上には大量の料理があった。唐揚げにハンバーグ。サンドイッチに桜餅。ポテトフライにおにぎり等多種多様の料理が並べられている。
ふと園川さんを見ると、彼女はお腹を手に当て、顔を赤くしていた。
『どうしかした園川さん?』
『ち、違うの水瀬くん! これは! いっぱい頭使ったから、それで――』
『うん? 何のこと?』
何のことかわからず、頭の上に疑問符を浮かべていると、菜穂が笑いながら言う。
『奏さん、大丈夫ですよ。お兄ちゃんには聞こえてませんから』
『あ、そっか。よかった~……』
『なんの話?』
菜穂に問う。
『気にしないで。乙女には色々あるの』
『なんのこっちゃ』
『とにかく食べよ! いただきまーす』
菜穂は結局、何があったか教えてくれないまま合掌をする。
いただきます、と僕も心の中で唱える。
園川さんがとなりで何か呟いている。
でんごんくんには『よかった、お腹の音聞こえてなくて』と表示されているが見なかったことにしておこう。
みんなが食べ始めた。園川さんが目を輝かせる。
『ふぁ~唐揚げの匂いがする! 水瀬くん! 唐揚げどこ!?』
唐揚げにテンションが上がる園川さんがかわいい。
そのかわいさに見とれていて、一瞬反応が遅れる。
『ああ、待って。今、取り皿にわけるから』
『ありがとう!』
僕は手近にある紙皿を手に取り、菜箸で唐揚げを乗せる。
『はい。園川さん』
『うう~食べていいの?』
『いいんだよ』
つい笑みが零れる。
『お兄ちゃん、食べさせてあげなよ』
『え?』
僕と園川さんが固まる。
『ほら、こぼしちゃうともったいないし』
どこかできいたことがあるような言い回しだ。僕は、園川さんとパフェを食べに行ったときを思い出す。あのときはその場のノリで園川さんにパフェを食べさせたものの、周りに誰もいないからできた。
でも、今は周りに人ばかり。菜穂はにやにやする。
『いや、園川さん、自分で食べられるから』
『え~でも、せっかくなら、ねえ、奏さん?』
菜穂は園川さんを促す。馬鹿め。菜穂は一緒に食事したことがないからわからないだろうが、園川さんの空間把握能力はピカ一だ。
わざわざ人の手を借りなくたって――
『うん、そうだね。ごめん、水瀬くん。食べさせてくれないかな?』
『ええ!? でも――』
僕が戸惑っている間に唐揚げの乗った皿を渡された。
『嫌だったら、いいけど……』
『ほらお兄ちゃん』
『え、でも、いいの? 人前だよ?』
『…………大丈夫。嫌、かな?』
ここまで言われて引き下がるのは男が廃る。据え膳食わぬは男の恥というものだ。いや、僕が食べさせる側なんだけどね。
『じゃ、じゃあ』
僕は割り箸を割って、唐揚げを掴み、園川さんに近づける。前回のパフェは机越しだったため、若干距離があったものの、今はすぐ隣にいる。
なんだかいけないことをしている気がする!
僕は意を決して、園川さんの口に唐揚げを運ぶ。園川さんは口を開く。相変わらず綺麗な歯並びとピンク色の舌。温かい吐息が僕の腕をくすぐり、体中が熱を帯びる。ゆっくりと唐揚げを口に入れる。園川ささんは口を閉じ、割り箸の先まで咥える。
僕は箸を引き、少し湿った割り箸を見つめてしまい、余計に背徳感を覚える。
その様子を菜穂はちょっと頬を赤くしながら、笑って見つめる。
園川さんは唐揚げをゆっくり咀嚼し、のどを動かす。
『美味しい!』
『それはよかった』
当の本人は僕の苦労も知らず、食事の喜びを感じている。
『ん~! 美味しい! 美味しいです! なんか、恥ずかしさが飛んでしまうぐらい美味しい!』
よほど美味しかったのか、ハイテンションでいる園川さん。
『そんなに美味しいならお兄ちゃんも食べてみなよ』
菜穂が僕に促す。
そんなこと言われなくても、そうする。
『あれ、箸どこだろう?』
手近にあった割り箸がもうない。
菜穂が何かを後ろに隠したような気がするが、そんなことはどうでもいい。
『今度はほら、お兄ちゃんが食べさせてもらいなよ、奏さんに』
『な、なんでそうなる! というか、それは意味がわからない!』
そんなことができるなら最初から僕が食べさせる意味がない。
そんな恥ずかしいこと園川さんだって嫌なはずだ。
『うん! 菜穂ちゃんの言う通り! 唐揚げ! すごく美味しいから』
園川さんは唐揚げの美味しさをいち早く理解してほしいのか、興奮冷めやらず、僕が持っていた割り箸と皿を見えているかのように素早く取る。
『ちょっと待って!』
僕の制止をものともせずに園川さんは皿にある唐揚げを割り箸で掴み、僕の顔まで近づける。
うう、恥ずかしい。いや、それ以上にこの割り箸はさっき園川さんが食べるのに使った割り箸だ。僕がその割り箸で食べたら、か、間接キスになってしまう。
それは園川さん的にも不味いのではないのか?
『ほら、水瀬くんいくよ。あーんして』
園川さんは止まらず僕の口元に濡れた割り箸、いや! 唐揚げを近づける。
園川さんはそういうこと気にしないのか!? いいのか!?
菜穂は遠目で口元を抑えて、興奮気味に様子を見ている。
ダメだあの妹。
覚悟を決めるしかない。僕は、意を決し目を閉じ、口を開ける。
口に香ばしい香りが広がる。僕は唐揚げに歯を当て、掴む。
そして、そのまま唐揚げを箸から引き抜く。
『どう? 美味しいよね?』
園川さんは僕の葛藤を知る由もなく、興奮し尋ねてくる。
唐揚げを咀嚼し、飲み込む。
『……うん、すごく美味しいよ』
正直、味なんてほとんどわかっていなかった。
『だよね! ホント美味しい! もっと食べよ~』
そう言って園川さんはそのまま唐揚げを食べ続ける。菜穂がニヤニヤとしながら僕の傍に寄って来る。
『お兄ちゃん、ファーストキスの味はどうだった?』
僕は動揺を悟られぬよう、平静に努める。
『残念だったな菜穂。僕は間接キスはしてない』
『は? どういうこと? してたじゃん』
『いや、僕は箸に口が触れぬよう唐揚げを咀嚼した』
僕が自信満々に答えると菜穂は肩を落とす。
『はぁ~……意気地なし。で、奏さんにはいつ告白すんの?』
『な、なんで急に告白の話になるんだよ』
『はぁ~、お兄ちゃん自分が告白されると思ってんの? これだから最近の若者は草食でいかんね』
お前に若者扱いされてたまるか。
告白か……。告白の練習はしている。でも今、僕は彼女に告白していいのだろうか。
あらゆる可能性が頭をよぎる。手術を受けるという大変な時期に、余計な負担になってしまうのではないだろうか。僕が前を進むことは、彼女の進む道を邪魔することになってしまうのではないだろうか。
僕は彼女のことが好きだ。だから、一緒にいたい。だから、彼女の力になりたい。
でももし、そのふたつの希望が相反するものだったらどうしよう。僕は、どちらかを選ぶ状況になったらどうしたらいいんだ。いや、僕は彼女の背中を押すと決めたんだ。
たとえそれが僕のもうひとつの希望を踏みにじることになったとしても、それでも僕は彼女が普通の幸せな日常を歩んでほしい。
そうだ。それでいいんだ。
『ちゃんと自分から告白するよ。いつかな』
そういうと、菜穂は笑顔になる。
『なにそれ。まあ、お兄ちゃんならきっと大丈夫だよ』
『ああ、ありがとう』
菜穂の頭に手を乗せる。菜穂が僕の力になるように、蘭太郎が僕の背中を押してくれたように、僕は、彼女を幸せにしてあげたい。
菜穂が僕の手をどかす。
『触んな。ほら、ナホたちも食べよ。早くしないと、全部奏さんに食べられちゃうよ』
菜穂と僕が園川さんを見ると、すごい勢いで食べ続ける園川さんがいた。
たくさんあった唐揚げは残りわずかになっており、他の料理も半分以上たいらげてしまっている。僕と菜穂は急いで戻り、蘭太郎も合流した。
園川さんと菜穂に蘭太郎を紹介し、4人で騒ぎながらお花見を楽しんだ。
友人と家族と、好きな人とこうして笑いあい、バカ騒ぎしてときに傷つけ、傷つけあい
それでも結局最後は笑いあう。それは僕が望んだ日常だった。
ずっとこの時間が続けばいいと思う。でも、幸せな時間はあっという間に過ぎてしまう。
時は必ず流れて、二度と同じ時間を過ごすことはできない。
それでも、僕は今日この日の幸せな時間を忘れることはない。
忘れなければ、僕のなかで幸せはあり続ける。彼女の記憶には、残るだろうか。
幸せな日常を一緒に過ごしたことは、なくならないだろうか。
もし彼女も幸せだと思えたなら、それでいい。
それで、いいんだ。
シートの上にあった料理はすべてなくなり、お花見もお開きという流れになった。
紫織さんがお店からきて、挨拶をする。
『みなさん、また機会がございましたらいつでもお越しください。私たち一同、お待ちしております』
お辞儀をして、お花見は終わった。蘭太郎は片づけをするとのことで、わかれた。
桜の木の下。僕と園川さんと菜穂が残された。
『いや~楽しかったですね奏さん! もうお腹いっぱいですよ』
園川さんは微笑む。
『うん、すごく楽しかった! まだまだ食べ足りないよ。これからご飯でもどう? 菜穂ちゃん』
菜穂の顔が青ざめる。
『ちょっと吐いてきていいですか……?』
園川さんが僕の方を向き、笑いあう。
『なに? なんなの!?』
『ふふっ、なんでもない。冗談だよ。また今度一緒にお食事しよう?』
『ぜひぜひ! そのときはお兄ちゃん抜きで!』
『なんでだよ! ひどくない!?』
『乙女には乙女だけのガールズトークってものがあんの』
『はあ』
よくわからないが、園川さんもまんざらでもないようなので仕方がない。
『じゃあ、今日はこの辺で帰りますか~』
菜穂が寂しさを紛らわすように明るい調子で言う。
『あ、ごめん菜穂。先に帰ってて』
『なんでよ。一緒に帰ろうよ』
『ちょっと用事があるんだよ。それでごめん、園川さんは少し待っててもらっていいかな?』
園川さんは戸惑いつつも、うなずく。
『な~に~私だけのけもの? ま、いいけど』
菜穂は不満げに言うものの、僕の意図を察してくれたのか笑って了承する。
『じゃあ、行ってくるよ』
僕はそういい残し、花屋の店内に向かった。
× ×
「じゃあ、そういうことなんで、私帰りますね」
菜穂は奏に敬礼をする。
「うん、あ、待って!」
奏が菜穂を制止する。
「うん? なんですか?」
「その……」
奏はもじもじと体を揺らす。
その姿を見て、菜穂は奏が何か言う前に切り出す。
「兄を、よろしくお願いします」
「え?」
「あれでも一応、ちゃんとした人間なんで。まあ、けっこう抜けててヘンテコで気持ち悪くて、バカですけど」
奏は笑う。
「菜穂ちゃん、水瀬くんことが大好きなんですね」
「まあ、そうですね。一応、家族なんで」
菜穂は照れ臭そうに地面を蹴りながら言う。
「いいなぁ。私も水瀬くんみたいなお兄ちゃんがほしかったよ」
「いやー面倒くさいですよ。いちいち物事を余計に考えて、それで結局最後は自己嫌悪して、うざったいったらありゃしないですよ。でも――」
菜穂は桜を見つめる。
「自慢のお兄ちゃんです。あ、奏さん。バカな兄がどうして瞭綜に入れたか知ってますか?」
奏は顎に手を当て考える。
「うーん、いっぱい勉強頑張って入ったのかな?」
「あいつそんなに勉強できないですよ」
菜穂は歯を見せて笑う。
「じゃあ、何か特技があるの?」
「いや、兄は多少、聴覚以外の感覚が優れてますが、それでも特技っていうほどでもないですよ。奏さんも知っての通り、瞭綜学園は特別な才能を持つ人間が特別推薦という制度で入ってきます。そういえば、奏さんはどういった特技があるんですか?」
「私は、少しピアノが得意でそれを認めてもらえたのかな」
「奏さんピアノ弾けるんですか! すごい! 今度聞かせてください!」
菜穂は目を輝かせる。
「え、あ……うん。いいよ。それで、水瀬くんはどうやって瞭綜学園に入ったの?」
「ああ、そうでしたね。兄には、いわゆる特別な才能なんてないんです。でも、兄は〈普通〉じゃない」
「どういういこと?」
「兄はヒーローなんです」
菜穂は昔を懐かしむ。
「ヒーロー?」
「はい。小学生の頃、私、兄と同じ地元の公立校に通ってて、兄が特別支援教室にいたんで、それで私はからかわれて、あのときはお兄ちゃんなんていなければ~なんて思ってました」
「…………」
何と返していいかわからず、奏は口をつぐむ。
「でもある日、兄が授業中教室に入ってきたんです。いきなりなんだってみんな驚いて、そしたら急に黒板に書きだして」
菜穂は当時を思い出し、笑う。
「なんて書いたの?」
「〈ナホをバカにするやつは許さない!〉ってデカデカと黒板に書いたんです。ほんと、バカですよね。そんなことしても状況は変わんないし、ていうかむしろ悪化したし」
菜穂は苦笑いをし、肩を竦める。
「それでも兄は、私がからかわれたらすぐに駆けつけてきて、で、そんな感じで兄がいちいち干渉してくるんで、いつの間にか私をからかう子もいなくなりました」
「そっか、だから、水瀬くんはヒーローなんだね」
奏は笑顔がこぼれる。
「まあ、そこで終わったらそうだったのかもしれないですね。でも、あいつバカなんで、今度はナホとか関係なく、学校で起きているイジメにいちいち首突っ込んで、喧嘩して、もう問題児ですよ」
「でも、それでそうやって困っている誰かを救おうとするのはかっこいいよ」
「兄もそう思ったんでしょう。ましてやあいつは劣等感の塊なんで、誰かを救うことで自分を慰めてたんでしょう。でも、そうやってあいつがイジメに介入したところでイジメが解決するとは限らない。兄が介入したせいで余計に環境を悪くしてしまったこともあったみたいです」
「そう、なんだ……」
「それで、問題児扱いされた兄は近くの公立中学校にもその情報が渡って、なんか入学拒否みたいな感じになって」
「なにそれ、ひどい……」
奏は自分のことでもないにも関わらず、怒りが沸き上がり下唇を噛む。
「で、そんな噂をどうやって聞きつけたか分かんないですけど、瞭綜学園から話があって、〈昨今のイジメ問題に対して真剣に向き合う勇気ある生徒〉としてスカウトされたんです。たしか、東先生に」
奏は感嘆をもらす。
「へ~、やっぱ水瀬くんってすごい勇気のある人すごい人なんだね。へへっ、なんだか私のことじゃないのに、嬉しいな」
「まあ、本人はそのこと自覚してないんで、自分がなんで瞭綜に入ったかも知んないみたいですけど」
ふたりは笑いあう。
「だから、兄はバカでどうしようもないけど、根はまっすぐで勇気のある良いやつなんです。だから、これからも一緒にいてやってください」
「私が、水瀬くんと……?」
「はい。久しぶりに見ましたもん、兄があんなに楽しそうに笑うところ。いっつも死んだ目してんのに、奏さんの前だとニコニコしてデレデレしてほんっとキモい」
「あはは……」
奏は苦笑いしか返せない。
「正直、悔しかったです。私といるときより楽しそうで」
「…………」
菜穂は不機嫌に顔を歪ませるものの、すぐに笑顔になる。
「でも、兄が楽しそうに笑っているのを見て嬉しかった。奏さんのおかげです。本当に、ありがとうございます」
「わ、私は何もしてないよ!」
奏は両手を横に振る。
「一緒にいてくれるだけでいいんです。それが、あいつにとっての幸せですから」
「そっか。それならいいんだけど……」
「だから、これからも兄をよろしくお願いします」
菜穂は深々と頭を下げる。奏は少しの間口を開けなかったが、なんとか口を開く。
「……うん。こちらこそ、よろしくお願いします」
奏も頭を下げる。
「長話すいません! じゃ、また今度遊びましょう!」
「うん」
菜穂は明るい調子でそう言い残し、去っていった。奏はひとりになり、胸に手を当てる。
「ごめん菜穂ちゃん。私は、一緒にはいられない……」
奏はひとり呟く。その呟きは、桜の花びらと一緒に、空へ舞い散る。




