伝わる
蘭太郎の花屋に行った翌日。
僕はさっそく、園川さんをガーデニング教室に誘おうと思った。
しかし、どうしてか、朝も昼も僕は園川さんを誘うことができなかった。
緊張で体が動かない。好きな人を誘うのはこんなにもハードルが高いものなのか。よくパフェを食べに誘えたなと、我ながら過去の自分に感心してしまう。あのときは話の流れがあった。でも、今回は違う。
なかなか自然な流れで誘うことができなかった。
それに、前にパフェを食べに行った後の彼女の言葉がずっと頭に引っかかっていた。
『私、手術を受けようと思う』
彼女に声を掛けようと思うと、この言葉が思い出され、その度に体がかたまってしまう。
いったい何の手術だろう。聞くことができなかった。彼女がそういった際、詳しく聞こうと思ったところ、待たせていたタクシーが来て聞けなかった。タクシーの中でも、聞いていいのかわからず、他愛のない話しかしなかった。それで結局、今も聞けていない。
手術。
考えられるのは病気、もしくは――
いや、本当はわかっているはずだ。彼女は目の手術をしようとしているのだろう。
最近は、自身の細胞を移植し、目が見えるようになった人もいるぐらい医療が発達している。彼女は前に進もうとしているのだ。それがなぜだか、心が引っかかっている。どうして引っかかっているかわからない。
いや、もしかしたら心の奥底でその答えは出ているのかもしれない。それでも、僕はその気持ちを否定している。見て見ぬふりをしている。
だから、自分自身でもその気持ちと向き合わず、わからないままでいた。
そのようなことを一日中考え、頭を抱えているうちに、いつの間にか帰りのHRが終わっていた。さすがにこのままではまずいと思い、ついに立ち上がった。
僕の斜め前方の席、園川さんの席を見る。しかし、彼女の姿は見当たらなかった。
辺りを見渡しても他の生徒もすでに帰ってしまっているようだ。
今日は帰るか、と僕が諦めかけていたところ教室の前の扉が開いた。
そこには、極道の人間、もとい特別支援科の担任教師、東先生がいた。
『なんだ水瀬、まだ帰っていなかったのか』
『すみません。すぐに帰ります』
東先生は手に鍵を持っていた。僕が出ないと教室を閉められない。僕は急いで身支度を整える。東先生が近づき、僕の前の席に座る。
『どうだ最近は?』
どう、とは特別支援科の生活が苦になっていないかということだろう。東先生は僕が普通科にいたことから気にかけてくれていた。僕が特別支援科に転科の相談をしたのも、そんな気にかけてくれた東先生が一番最初だった。
『まあ、ぼちぼちですね』
『そうか。心配でな。おまえは何もかも自分で抱え込む』
『欠点です』
『自覚してんなら及第点だ。でも、しょうがねえよな。自分の言いたいこといっても相手に伝わんなきゃ意味がない。どうせ伝わんねえなら、言う必要もない。だからお前は気持ちを表に出さず、抱え込む』
『しょうがないから、どうしようもないですよ』
『ああ、でも今のおまえは違う。ちゃんと自分の意思を尊重し、行動している。大したもんだ。俺がおまえくらいのときは、何もかもビビっちまって何もできなかったのによ。ハンデを抱えててもそれでも自分の意思に従って行動してる』
『よく見てますね』
僕が園川さんに積極的に話しかけているのを見ていたのだろう。
『そんぐらい先生ならわかんだよ。で、だ。おまえの意思を聞きたい』
『なんですか改まって』
東先生は紙を1枚取り出す。その紙には、〈転科願〉と題目がある。僕は目を見開く。
見たことがある。僕が普通科から特別支援科に転科をする際に記入、捺印をした用紙だ。
なぜいまそれを僕に見せるのだろう。
『いまのお前ならきっと、普通科に行っても上手くやれるだろう。前みたいに全部抱え込んで、潰れたりはしない』
東先生の目は真剣だ。冗談で言っているわけではないようだ。
『でも……』
『普通科に行けば前のクラスメイトと同じクラスになることもあるだろう。それが嫌なのはわかる。でもな、今のお前にはそれを乗り越える力がある。その力があれば、おまえが望むものも手に入れられるはずだ』
僕が望むもの。普通の高校生になること。
特別支援科に転科するときに、僕が東先生にいったことだ。
『僕は普通の高校生になりたくて、普通科に入りました。でも、やっぱり無理でした』
一年ほど前のことを思い出す。何もかもに自信がなく、普通科にいることにより溜まった劣等感から逃げ出した。でも、園川さんに出逢い、僕は少しだけ変わった。
自分から、自分のしたいことをするようになった。それを東先生は見たのだろう。
僕の念願を叶えるために、きっとこの提案をしているのだ。
でも、どうして――
『どうして、今なんですか?』
「…………」
東先生は何も言わない。何も言わなければ、何もわからない。
『僕はいま、幸せです。それはこの特別支援科にいるからです』
そして、園川さんに出逢えたから。そこまではいわない。
『ああ……』
東先生は何かを言い淀んでいる様子だ。
『たしかに前までは普通科の生徒として、普通の高校生活を夢見てました。でも、今は違います。だから、この書類は受け取れません』
僕は机に置かれた〈転科願〉を東先生につき返す。
『……答えは急がなくていい』
『だから! 僕は――』
僕が強く否定しようとしたところ、東先生は席から立ちあがった。
『付いてこい』
『え』
『いいから』
東先生は僕の鞄を持ち上げ、歩き始める。
『ちょっと! 待ってください! どこに行くんですか』
東先生の後を追い、教室から出る。廊下を出て、階段に差し掛かる。特別校舎には、体の不自由な人のためにエレベーターが設置されている。東先生はエレベーターに入り、僕もしぶしぶ乗り合わせる。
4階を押し、デジタル表示された数字が2、3,4と上がってゆく。4階に到着し、東先生はエレベーターを降り、歩みを進める。廊下の奥まで進むと、大きな教室があった。扉の前に立ち、上を眺める。
そこには〈音楽室〉とある。
こんなところに連れてきてどうするつもりだろうか。僕にはもっとも縁遠い場所で、あまり好きな場所ではない。東先生はそのまま音楽室の前に立ち、振り返る。
『入れ』
『え、先生は?』
『俺が入っても仕方がない。お前だけで行け』
えぇ……、いったいなんだっていうんだ。
東先生はその言葉を残し、その場から去ってしまった。このまま帰ってやろうかと考えたが、東先生も何か考えがあるのだろう。僕は、恐る恐る音楽室に入っていった。
音楽室は広く、教室3部屋分ほどある。
普通の教室と違い、床は灰色のカーペットが敷かれ、真ん中の方には合唱用のためか段差になっている。今日は吹奏楽部などの部活をやっていないみたいだ。
音楽室を見渡す。すると、手前右から人の気配がした。
誰かいるのか……?
忍び足でピアノに近づくと、そこは白い光に包まれていた。
黒く大きなグランドピアノに座り、演奏をしている園川さんがいた。園川さんは夢中でピアノを弾いており、僕が近づいたことに気づいていないようだ。楽しそう、というよりは真剣にピアノを弾いている。
僕には園川さんが奏でるピアノのメロディは聞こえないけれど、柔らかく、そしてスッと綺麗に動く白い手を見ると、素人目で見ても上手なのがわかる。演奏の邪魔をしないよう遠くの離れたところで、椅子を出し、座る。
美しい。
園川さんの演奏する姿は美しかった。この一言では言い表せないが、この一言に尽きる。
黒い制服に身を包み、白い手で奏でている姿は、空を自由に舞う鳥のようだった。
真剣に見つめる。音は聞こえずとも吸い込まれる。彼女が出すメロディは風を起こし、彼女はその風に乗り、高く高く、夜空の星々に向かうようにして空を翔ける。
でも、苦しそうにも見えた。下唇を噛みながら、必死に鍵盤を叩く。どれだけ高く空を翔けようとも、輝く星には届かない。それでも、それをわかっていてもあきらめず、翔け続ける。
真っ暗で星以外何も見えない闇の中、たったひとり孤独に耐え、舞う。翼は疲労し、美しい純黒の羽がひとつ、ふたつと地に落ちてゆく。次第に翼の羽はなくなり、闇の中に落ちてゆく。それでも必死に翼を羽ばたかせる姿は、とても虚しく悲しかった。
演奏が終わったようだ。彼女はそっと鍵盤に手を添える。
視界が涙でぼやける。
それでもはっきり見える姿を見て、僕はいてもたってもいられなかった。
僕は椅子から立ち上がり、手を叩いた。瞬間、彼女は体を跳ねらせた。それでも僕は拍手を止めなかった。きっとうるさい拍手だろう。迷惑な観客だ。
聞こえもしないのに勝手に感動して。それでも、伝わってきたのだからしょうがない。
この気持ちを抑えずにはいられなかった。
「―――――」
園川さんが恐る恐る口を開いた。
僕は園川さんのもとに駆け寄り、スマホを出した。
『水瀬です。驚かせてごめんなさい』
スマホの音声を聞き取れたみたいで、園川さんはほっと胸をなでおろす。
『本当にびっくりした! 心臓とまるかと思ったよ……』
『ごめん。つい、感動しちゃって』
そう僕がいうと、園川さんは苦笑する。
『ありがとう。すごい拍手だったもんね。コンサートよりも大きい拍手だったよ』
『コンサートとか、出たことあるんだ。すごいね! ピアノのプロになるの?』
『うーん、それはどうだろう。でも、夢はあるんだ』
『夢?』
園川さんは胸に手を当て、強い決意を秘め、話す。
『うん。私みたいに目が見えない人たちに勇気を与えられるような演奏をしたい。それが、私の夢』
真っ直ぐで固い意思を持つ彼女がとても立派に見えた。
まだ若いのに、それだけ強い意思を持って夢を抱く彼女を素直に尊敬した。
『園川さんならきっと叶えられるよ』
『ありがとう……でも、今のままじゃ全然ダメ。もっといっぱい練習して、勉強しなきゃ夢は叶えられない。――――。』
その後、園川さんは口元で何か言ったみたいだが、でんごんくんは聞き取ってくれなかった。
『そうなのかな。コンサート出るくらいだからもうプロみたいなものだと思うけど』
『ううん。それに、コンサートに出ていたのは私が小学校に入る前、まだ目が見えていたときだから』
『そう、なんだ。……ごめん』
てっきり園川さんも生まれつき目が見えていないのだと思っていたが、そうではないみたいだ。余計なことをいってしまった。僕は目元を拭い、鼻水をすする。
『ううん、気にしないで。というか、水瀬くん、泣いてるの? 何か嫌なことでもあった?』
園川さんはピアノの椅子から立ち上がり、手探りで僕の肩に触れる。僕は顔を真っ赤にしながら否定する。
『いや、そういうわけじゃないんだ! なんていうか、園川さんの演奏で感動しちゃって』
『感動って、大げさだなー。……でも、ありがとう』
彼女も僕が演奏を聞こえていないことは知っている。それでも彼女は心から笑い、喜んでいたと思う。
『また、ピアノ弾いてくれると嬉しいな』
『いいよ。水瀬くんのためだったらいくらでも弾いてあげるよ』
園川さんは空でピアノを弾くジェスチャーをする。見えなくても、彼女は夜空の星をめがけ羽ばたく。聞こえなくても、僕は彼女の想いを聴く。
見えない、聞こえないなんてことは関係ないんだ。人が何かを思い、一生懸命になれば、伝わる。たとえ聴くことも見ることもできなくても、伝わるんだ。必死に伝えようとすることに意味があるんだ。虚しく、悲しくとも、その一生懸命さは感動に変わる。
何も恥ずかしがることなんてないんだ。彼女の一生懸命に翼を動かす姿に僕は動かされた。彼女が前に進むなら、僕も前に進みたい。
『ありがとう、園川さん。僕も前に進もうと思う』
『うん』
『手術。目の手術をするんだよね』
彼女は一瞬、ためらったのち、ゆっくりと口を開く。
『……うん。そのために、この学校に転校してきたから』
『そうだったんだ』
たしかにこの瞭綜学園の近くには瞭綜大学付属病院がある。そこは全国でもトップレベルの病院で、よくニュースでも目にする。
『はじめは勇気がなかったんだ。目が見えるようになりたい。でも、怖かった。失敗したら、可能性は低いけど、もう二度と見えなくなるかもしれない』
『……そんな』
彼女は続ける。
『でも、水瀬くんのおかげで勇気出たんだ。やってみたらどうにかなる! そう思えるようになったのは、水瀬くんがパフェを一緒に食べに行ってくれたから。怖くて、不安だらけだったけど、私には水瀬くんがいるって、そう思ったら、怖くても前に進めた。だから、また、頼ってもいいかな』
園川さんの手は震えていた。園川さんは明るく、白黒はっきりして、前向きで完璧な人だけど、中身は、普通の女の子だ。
『僕にできることがあったらなんでもするよ』
僕は彼女に手を伸ばし、震えをとめるよう包み込んだ。彼女の手はとても冷たく、細い。
『……ありがとう、水瀬くん』
『大丈夫だよ』
園川さんは俯く。
『やっぱり、怖いよ。私、ほんとダメ』
こういうときほど、耳が聞こえたらよかったと自分を呪う。園川さんの声を聴き、理解したい。彼女の声が届かないかぎり、僕は彼女の心を見ることができない。でも、聞こえなくてもわかる。僕はいま、彼女の背中を押さなければならないということぐらい。
『手術はいつあるの?』
彼女は俯いたまま、口を開く。
『…………まだ、いつとかは決めてない』
『そっか。それじゃあ、今週末でかけよう』
『え?』
彼女は顔を上げる。
『気持ちの問題は、自分ひとりじゃどうにもならない。だから、気晴らしにさ』
僕は笑顔を園川さんに向ける。彼女には見えないけど、思いを伝えようとすることに意味がないことなんてない。僕が突拍子のない提案をすると、彼女はしばらく固まり、そして笑った。
『唐突だね』
『僕にできるのはそれぐらいだし、ちょうど連れていきたいところがあったんだ』
僕は笑顔のままいう。
『嬉しいよ。元気づけてくれようとしてくれるんでしょ?』
園川さんは笑いながら言う。
『ただ僕が園川さんと一緒にいたいだけだよ』
思ったことをそのままいう。すると、園川さんは顔を隠し、後ずさる。
『やっぱり水瀬くんは変態だね』
『なんで!?』
園川さんは顔から手を離す。顔が少し紅潮している。
『私も、水瀬くんと一緒にいたい』
『……ありがとう』
顔が火照っている。僕は必死に平静を装う。
『そ、それじゃ! またね!』
『あ』
僕が何かを言う前に園川さんは軽い足取りで音楽室を後にしてしまった。僕は広い音楽室でひとりになる。
園川さんの言葉が何度も脳裏でよみがえる。鼓動が早まり、胸に手を当てると、今にも破裂しそうなほど脈打つ。深呼吸をする。
僕は音楽室を後にした。
東先生のおかげで無事、園川さんを誘うことができた。あの人には本当に助けられている。僕が誘うのに躊躇しているのを見ただけでわかったのだろうか。だとしたら、本当に大した観察眼だ。
でも、それじゃあ、あの〈転科願〉はいったいなんだったんだ。
僕は園川さんを誘えたことと、彼女に言われた台詞に興奮が冷めなかった。
それ以上深くは考えなかった。考えたくなかった。




