9 雪乃のストーカー
光が少しずつフェイドインしてくる。目がさめてすぐに映像が映るのではなく、少しずつ少しずつ景色が浮かび上がってくる、そんな目覚めだった。もう一度目を閉じて、眠ろうとする。惰眠を貪ることをポリシーとしている僕は、週末は昼前まで眠ることを習慣としていた。
だが、いつもの週末でないことは、おなかから聞こえてくる寝息でわかる。雪乃の静かな呼吸が規則正しくおなかを伝って響いていた。
媚蓮和尚の祈祷はまだ効果はなかった。落胆はあった。しかしこれも当然という気もした。
僕は時計を見た。土曜日の八時。
「高野さん」
「うん?」
「お目覚めですね。おはようございます」
「おはよう。まだ寝てていいよ」
「和尚様の御祈祷、駄目だったんでしょうか?」
「わからないよ。そう信じたくないね・・・すぐ効果が出るとは限らないし」
「もう少し眠りますか?」
「いや、あと二時間で十時だ。大平さんたちがきみの家に来る」
「行くんですか?」
「大平さんたちはきみの部屋に行く。でもきみはいない。ケータイも通帳もない。きみは間違いなく誘拐された、となる。大平さんのあの勢いじゃね。僕がその場にいて、そうならないように仕向けたら、なんとかなるかもしれない」
ケータイが鳴る。媚蓮和尚からだ。結果を告げるのは心苦しかったが、和尚はさすがに平然としていた。
「わたくしの力不足ですね。申し訳ございませんね。今夜お寺に来られますか? 別の御祈祷を試みてみましょう」
トヨタ2000GTは、再び雪乃のマンションに着いた。大平さんとその仲間はもう来ていた。
「高野さん、なんですかこの車・・・」田中さんがはしゃぐ。「こんなの見たことなーい」
「おはよう。田中さん、車、興味あるの?」
「おはようございまーす。高野さん、そっちは鈴木さんですよ」と田中さんが言った。
「そうだっけ? 二人ともかわいいからわかんなくなったよ」
二人が大笑いをする。そんな三人をよそに、大平さんは運動会を明日に控えた脚の遅い小学生のように神妙な顔つきだった。「よかった。高野さん、来てくれてありがとうございます」と言ってからやっと笑みを見せた。
「わたし九時にはきたんですけど、ドアホン押しても出ないんです」大平さんを先頭にマンションの階段を上がる。
「まだ寝てるんだね」僕は答えた。
二階、雪乃の部屋の前に四人は立った。僕はドアホンを何度か繰り返し押した。女子三人は雪乃の名前を近所迷惑にならない程度に呼んだ。雪乃が出てくるはずはなかった。
「やっぱり開けてもらいましょう」大平さんが言う。
「どうするの?」僕は語気を強めた。
「このマンションを管理している不動産会社の前もって連絡しておきました。大体の事は話しました。万が一のときは鍵をあけてくださいって」
大平さんはケータイを出した。不動産会社に連絡するためだ。
「あれ!」鈴木さんが叫んだ。「鍵、開いてるよ」
鈴木さんは何気なくドアノブを回してみたらしい。大平さんは慌ててケータイを切った。
「鍵、開いてるの?」大平さんの声が裏返った。
僕は考えた。鍵は確かにかけたはずだ。その鍵は、今手元にある。玄関の鍵が開いているはずはなかった。
「ほら」鈴木さんはドアを引いた。
信じられないことだった、ドアは開いた。僕は昨日確かに鍵をかけ、確かめたのだ。
大平さんが僕の背中を押す。中に入ると、予期せぬ展開だった。部屋が荒らされている。大平さんたちは悲鳴を上げた。僕は心の中で悲鳴を上げた。昨日この部屋を出るときは整然としていたリビング。それが、部屋で小さな台風でも発生したかのように物が散乱している。寝室も同様。雪乃の本体を着せかえたときの衣類が落ちている。
「雪乃! 雪乃!」大平さんが叫ぶ。田中さんと鈴木さんも雪乃を探す。
やがて三人は抱き合って泣きだした。
「ほんとにまさか、こんなことになってるなんて・・・」大平さんは顔をゆがめた。
彼女は大丈夫だよ、僕のおなかにいるよ、と言ってあげたくなるほどの悲しみようだった。シャツを開いて雪乃を見ると沈んだ表情をしている。
「昨日来た時帰らなきゃよかった。ちゃんと雪乃に会っとけば・・・」
「雪乃・・昨日・・大丈夫・・・だったんでしょ?」鈴木さんが声をつまらせる。
「風邪が長引いたって。でもこれ、事件よ。こんなに荒らされて・・・」
「雪乃・・・誘拐されたの?」田中さんがまた泣き出す。
「最悪・・・」鈴木さんが言う。「まさか・・・殺されてるかも・・・」
「馬鹿! なんてことを言うの?」大平さんが鈴木さんをどついた。
僕はトイレに入り雪乃に話しかけた。
「誰か侵入してるよ、この部屋」
「わたしも驚いてます。どろぼうでしょうか?」
「わからない。僕たちがここを出たのは午前零時。そのあとに入ったんだ」
「どうしましょうか」
トイレをノックする音がした。
「高野さん」大平さんが呼ぶ。「こんなときトイレですか?」
「トイレ、調べてるんだ。今出るよ」
「ガラスが割られているんです」
居間に戻ると田中さんと鈴木さんがベランダから呼ぶ。
「高野さん、こっちこっち」
ベランダの窓ガラスが割れている。消音のためのガムテープがついている。僕が昨日しようとしたことを誰かがやったのだ。妙な気持ちになった。
「ここから侵入したのは間違いないですよね」鈴木さんはケータイで写真を撮った。
大平さんはしばらく黙っていたが、裁判官が被告に判決を言い渡すように言った。
「高野さん、警察に通報しましょう」
警察―。そうだ、この事態はもう避けようがない。割れたサッシ。外部からの侵入があったことは間違いない。雪乃は消えた。事件と扱われて当然だろう。大平さんがケータイで警察に連絡している。
「ケータイがないわ」田中さんが充電器を手にして眉間を寄せる。
「ねえねえ、チェストのなか、雪乃の下着ひとつもないわ」田中さんからの報告だ。
「あなたたち、もう部屋のもの触らないで。指紋がつくわよ。高野さん、警察に連絡しました・・・」
「仕方ないね・・・」
四人は居間のテーブルに集まった。田中さん鈴木さんが焼いてきたケーキを並べたが、誰も食べなかった。
「もしかすると・・・」大平さんがつぶやく。「ストーカーかもしれません・・・」
「ストーカーが雪乃を誘拐したってこと?」田中さんが訊く。
「もしかしたら誘拐じゃないかもよ。雪乃外出してるだけかも。そうだ、ケータイに電話してみたら」鈴木さんが楽観的なことを言う。
「わたし来る前に電話したの。今から行くって。出なかった」大平さんが肩を落とす。
「それ何時ごろ?」僕は訊いた。
「八時過ぎです」
雪乃のケータイは部屋に置いてきた。大平さんが電話をかけたのは僕たちが出かけたあとだったのだろう。鈴木さんが雪乃のケータイに電話をかけている。雪乃のケータイを置いてきて正解だった。
「でないわ」鈴木さんがため息をつく。「でもさ、ストーカーってケータイ持っていくのかな?」
「ストーカーなんだから、なに考えてるかわかんないわよ」
大平さんはそう言ってまた泣き出した。
ストーカーがいるというのは初耳だった。雪乃からはなにも聞いていない。
「大平さん、ストーカーがいて困ってるって、雪乃さんがそう言ってたの?」
「困ってるってほどじゃ、ないんですけど。先週、雪乃が言ってたんです。窓から外を見たら、こっちを見ている人がいたって・・・」
「やだあ」ふたりが声をそろえる。
「それは、昼間?」
「夜でしょうね。顔は見えなかったって。電信柱に隠れて、それから逃げて行ったって。雪乃がストーカーの話をしたのはそれだけです」
サイレンの音が聞こえてきた。四人はさらに沈んだ表情になった。これはとんでもない事態なんだと改めて認識させられた。サイレンが近づいてくる。
「わたしたち、外に出て案内します」田中さんと鈴木さんが立ちあがった。
大平さんと僕も立ちあがったが、特にすることもないので玄関で警察を待った。
「大平さん」パトカーから警官が降りるのを眺めながら僕は言った。「雪乃さんはきっと大丈夫だよ。心配だろうけど、信じて」
「高野さん。ありがとうございます。忙しいのに来てくださって、ほんとに助かりました・・・」
「まさかこんなことになるなんて、ほんと、びっくりしたよ」
「高野さん、あとはもう大丈夫です。警察にはわたしから事情を説明しますから・・・」
「会社には?」
「それもわたしから。今日上司には報告しておきます。雪乃がもうだめだって、決まったわけじゃないですもんね。無事に帰ってくる可能性もありますよね・・・」
「そうだよ、きっと大丈夫だよ。きみはそう信じて。いろいろ大変だけどね。僕も心配だから、連絡してね。協力するよ」
「ありがとうございます。高野さん、雪乃は、高野さんのことが好きだったんです―」
警官がふたり来た。
「通報した大平です」大平さんは進み出た。
「巡査部長の青島です。何があったのか詳しく教えてください」
パトカーのサイレンでマンションの住民が何事かと駐車場に集まっていた。四人全員玄関に集められた。大平さんが代表して事の次第を説明した。やがて刑事がひとり到着し、大平さんと部屋に入り、さらに説明を聞いた。鑑識の車両が到着し、急に物々しくなった。玄関には黄色いテープが張られた。やがて僕ら三人も部屋の中に呼ばれ、キッチンに大平さんと四人立たされ、刑事の質問に答えた。
まだ誘拐事件と断定できないからだろう。質問は簡単なものだった。
「森下雪乃さんの肉親は、この件はご存知なんですか?」刑事が尋ねた。
今日の午後、母親が秋田から来る予定だった。肉親の意向を聞いてから事件として取り扱うらしい。
鑑識は一時間ほどで終わり,刑事は帰り野次馬も消えた。警官がひとり残り、テープが張られた玄関に立っていた。
「これは、なにごとですか?」
雪乃の母親が到着したのは二時過ぎ、その声を聞きつけ、大平さんが出迎えた。
初めて見る雪乃の母親。僕は申し訳ない気持ちになった。大平さんが母親に説明している間全員泣いたので、雪乃の激しい嗚咽を隠す必要はなかった。
雪乃は母子家庭だった。そのことは初めて知った。母親はかなりショックを受けたが、大平さんが励ました。母親は秋田に連絡を入れ、雪乃の叔父を呼び寄せることにした。明日、叔父の意見を聞くという。母親はひとり暮らしの大平さんのマンションに泊まることになった。
自宅に帰ったのは三時過ぎだった。疲れてソファに倒れこむ。
「大丈夫?」押し黙ったままの雪乃に声をかえた。
「仕方ないですもんね」
僕は涙だらけの雪乃のためにシャワーを浴びた。寝室に行き、本体を確認した。昨日乱雑に置いたせいもあり、少し体勢がおかしかった。僕は楽な姿勢に直した。のっぺらぼうにも少し馴れてきた。
「きれいな髪だね」髪に触れてみる。
「そうですか?」
シャワーを浴びたことで、雪乃も少し落ち着いたようだ。部屋には雪乃の体臭が漂っている。
「きみは、確かに無事なんだよ。ストーカーに誘拐されたわけじゃない・・・」
「無事だって、電話できればいいんですけど・・・」
「それならどこにいるの? ってなる・・・」
「うん、いま高野さんのおなかのうえ」雪乃が答える。
「それ、冗談かい?」
「わたしの体もあるし、あとは媚蓮和尚さんの御祈祷で元に戻れば、問題は解決するわけですから、元気をださないといけませんね」
「そうだよ、前向きに生きなきゃ。今は、少しつらいけど、みんなに元気な姿をいつか見せてやろうよ」
「でも、侵入者にはびっくりしました」
「ほんとだよ。自分が犯人になったような気分だった。刑事の質問にびくびくしたよ。捕まって身体検査されたらおしまいだったね。でもストーカーの話はきいてなかったな」
「ごめんなさい。見たのは一回きりだったので」
「心当たりは?」
「その・・・アプローチというか、言い寄ってくる方は何人かいました」
「上司?」
「―もでしたし、若い方も・・・」
「社内一の美人だから当たり前か・・・」
社内二位に転落した祐未を思い出した。彼女に申し訳ない気持ちになった。この事態がなければ、僕と祐未は平和な週末を過ごしていただろう。
「祐未さんの、ことですか?」雪乃が言う。
「怖いね、僕の考えてることがわかるようになったか・・・」
「祐未さんには、少し旅に出るから、と言ったらどうでしょう?」
「それで?」
「今お別れするのは、よくないと思います・・・」
「僕は心理学者じゃないけどね。きみ、少しいい子ぶってないかい? 僕が祐未と別れるのはきみにとってはプラスだ。ほんとはこの展開を喜びたい。喜びたいが、でも、それじゃきみの人間性が耐えられない。きみはいい人間だからね。祐未に対してすまないと思っているところもある。だからそう言うんだろ?」
「高野さんも、ひどいこと、言うんですね」雪乃が少し暗い声で言う。
「人間の本質にも、少し目を向けろということさ。僕は真理が大切だと考えてる。それが正義か悪かではなく、それが真理か否かが僕の突き詰めるところさ。真理であれば、悪であってもかまわない。いや、僕は哲学者でもないんだけどね。少し意地悪をしたくなった。きみがあんまりいいこと言うからさ。少しはワルになってもいい。そのほうが人間味がある。きみはどこまでもきっといい人間だろう。でもそれは、真理じゃないと思う。僕を愛してここにいるんだろ。だったら、僕が祐未と別れること、素直に喜んでいいじゃないか?」
「もっとワルに、ですか? 高野さんの言うこと、わかります。もっとワルに・・・そうですか、そんな考え方があったんですね。わたしも、少し考えてみます。もっとワルに・・・」
「おいおい、変に誤解しないでよ・・・」
朝食を抜いたことを腹の虫に教えられた。コンビニで幕の内と焼肉弁当を買う。どちらが幕の内、焼肉弁当と分け隔てすることなく食べた。箸もひとつしか使わない。同じ体を使って互いの存在が馴染んできたせいか、衛生的なことなど気にならない。
スマートフォンに着信がある。媚連和尚からだ。
「高野聖さん、今日これから来れますか?」
「大丈夫ですよ・・・また御祈祷ですね」
「お疲れでしょうね」
「こんな事態ですから、そうも言ってられません」
雪乃の部屋に賊が入ったことを話した。
「なるほど、確かに急ぎませんとね。わたくしも、いろいろ調べてみまして、新たな見解を得ました。それも今夜お話しましょう」
「行くのは夕方でいいですか?」
「今夜の御祈祷は夜中の二時です。十分時間はありますよ。少しお休みなさい。それから、お食事はこちらで用意します」
電話を切った。少し休めることにほっとした。
「本体も運んだ方がいいね」僕は言った。
「動けばいいんですけど。せめて」
「運ぶのが楽になるね。でもそれは遠慮するよ。ホラー度が増してくる。なんといっても、のっぺらぼうなんだ。きみの意思に関係なく動き出したら・・・」
「まさか」
「僕、襲われるかもしれない」
「そんなことは絶対にありません」
「冗談だよ」
雪乃は笑ったが、すぐに突然黙った。
「どうかした?」僕は訊いた。
「今、動いたような・・・」
「えっ?」僕は本体を見た。
「冗談です・・・」
「驚かさないでよ」
僕は本体の横に体を寄せた。雪乃にわからないように手を触ってみた。そして握りしめた。体温が伝わる。雪乃はうとうとしている。本体の鼓動が気になり、耳を寄せてみる。心臓の力強い音が聞こえた。胸のふくらみが気になったが、かろうじてとどまった。