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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
10/15

10 ストーカーからの逃走

 チャイムが鳴る。誰かが来た。僕は跳ね起きた。

「誰だろう?」

 雪乃は不安げな視線を上げる。

 玄関に行き、小さなのぞき窓に目を当てる。誰もいない。念のためドアを開いて外を見た。階段を少し降り、人気を探したが見つからない。部屋に戻ると、ドアの郵便受けに封筒がある。

「なんだ郵便か・・・」

 ポストなら一階にもある。書留ならサインが必要なはずだ。見ると封筒にはなにも書かれていない。つまり郵便局はまったく関与していない、怪しい封筒だということだ。爆発物がしこまれている可能性があるから一回遠くへ落としてみた。封筒はひらひら落ちた。爆発しない。

「開けてみるよ」僕は封を手で切った。

「気をつけてください―」

 封筒を開けると便せんが一枚ある。開いて読んだ。


 【わたしは犯罪者を許さない】


「高野さん、手紙にはなんて・・・」

 声に出して読んだ。

「高野さんを犯罪者だなんて・・・」雪乃はつぶやいた。

 僕はもう一度マンションの一階まで降りた。コンビニが近いせいで人は多い。僕の自宅を知っているということは、僕周辺の人物である可能性が高い。見知った顔がないか探した。

「おそらくどこかに隠れて、僕を監視してる」

 玄関を開け放しにしたままだったからいったん戻る。部屋に侵入される可能性もある。

 玄関を閉めて鍵をかけた。ベランダから外を見る。石神井公園駅から十数分のマンションだから、その周辺はそれほど都会的とは言えない。ドラッグストアー、コンビニ、小さな病院が見える。

「僕らを見たんだよ、昨日」

「わたしの本体を運んだ夜・・・」

「もしかするときみの部屋に侵入したストーカーかもしれない。きっとそうだ。そいつは昨日きみのマンションにいたんだよ。本体を運び出す僕を見たんだ。だから『犯罪者』って言ってるんだろ・・・」

「どうしてここがわかったんでしょう?」

「僕を知っているやつか・・・昨日僕らをつけてきたとも考えられる」

「まさか、ずっと私たちを見張ってる・・・」

「―かもしれないね。今朝も僕たちをつけて、井の頭にもいたのかもしれない。あの野次馬のなかに。昨日君の本体を家に運ぶのを見てるから、僕が平然と君のマンションに来てるのを見て頭にきたのかもしれない」

「ストーカーに会いましょう!」雪乃が憤慨する。「わたしは生きてますって、言ってやります。それから、高野さんを犯罪者呼ばわりしたこと、謝らせます」

「待ってよ。そんな、急にジャンヌダルクになられても・・・少し落ち着こう」僕は雪乃をなだめた。

 冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出した。

「落ち着こう。ほんとは落ち着いてなどいられないけど。こうしている間にも警察がやってきそうな気がする」

「警察なんて。高野さんは何もしてません。犯罪者じゃないんですから」

「そうだったね。僕はきみの恋人として、キーマンに開けてもらって入ったんだ。ベランダからハンマーでガラス割って入ったのは、きっとこいつだよ」

 僕は手紙を手にとって丸めた。

 雪乃のケータイが鳴る。

「きみのケータイよく鳴るよ。みんながかけてるんだね」

「高野さん、わたしの、もう捨ててください」

「そういうわけにもいかないよ。すぐ出られるようになるよ。元に戻れば」

 僕のスマートフォンが鳴る。大平さんだ。

「高野・・さん、大変です!」彼女は泣きじゃくっていた。「雪乃は、やっぱり・・・誘拐です!」

「どういうこと?」

「警察から連絡ありました。目撃者が・・・いたんです。今日の午前一時過ぎ、雪乃を車で誘拐した・・・そうです―」

 やられた―ストーカーのやつ、動きが早い。僕たちは劣勢に立っている。

「警察はその情報から、誘拐事件・・・として捜査を始めるそうです。車の・・・詳しい情報もあるらしく、犯人の特定は難しくないということでした・・・」

 電話の向こうで雪乃の母親も泣いているのがわかった。

「わたし・・・明日の捜査にも・・・立ち合います―」大平さんが言う。

「わかった。よろしく頼むよ。大平さん、元気だして。気をしっかりね。お母さんにも、雪乃さんは無事だって慰めて・・・なにかあったら連絡くれないか・・・」

 電話を切る。捜査が明日からなら、逃げる時間はある、そう考えた。

「違う・・・僕は犯人じゃないんだ。本体を運び出したあと、あの部屋に侵入して荒らしたやつは、警察に情報を流した目撃者なんだ。そしてそいつはこのあたりにいる・・・」

「対決しましょう」雪乃が言う。

「いや、どう考えても分が悪い。本体を運んだのは僕だ。つまりストーカーからすると誘拐したように見えたわけだ。ストーカーは最初から僕に罪をかぶせるために部屋に侵入して荒らしたのかもしれない。きみの下着も盗られていたしね。つまり僕の犯罪に便乗することにしたんだろ」

「それで高野さんを犯罪者呼ばわりするなんて許せません・・・今、恐ろしいこと、考えました」

「なに?」

「わたしたちの姿、わざと見せてはどうでしょう? 発狂するかもしれません」

「なるほど・・・確かに恐ろしい考えだ。でも、やっぱり得策とは言えないんじゃない?」

「わたし、思いっきり恐い顔をしてみせます」

 僕は雪乃の顔をまじまじと覗き込んだ。

「雪乃さん、きみ、性格が変わってきてるんじゃない? さっき変な説教したのがいけなかったかな・・・」

 スマートフォンが鳴る。二人は目を見合わせた。コール音から判断して親しい友人ではなかった。

「はい、高野ですが・・・」

 上目遣いの雪乃の瞳が僕の表情を伺っていた。

「ええ? どなたですか?」僕は廊下に移動した。「ああ・・鰻さん、ですか」

 雪乃は胸をなで下ろした。

「はい、ああ、人形ですか。腹話術の。お任せしますよ。ええ。大丈夫ですよ。それくらい。ボーナスも近いですしね。ははは」

 やれやれ心境で僕は電話を切った。

「注文したんですか?」雪乃が聞く。

「十万だってさ」

「十万!」雪乃が復唱する。

「合わせて二十万。って、冗談だよ。デザインとか聞いてきたけど、任せるって言ったよ。どうせ買うことはないさ」

 時計は六時半を指していた。そろそろ豪徳寺に行かなければならない。しかしストーカーが見張っている。犯罪者は許さないというのだから、いつでも警察に通報できるように構えているのかもしれない。しかし雪乃の部屋を荒らし下着を盗んでいながら、一方的に僕を犯罪者呼ばわりするなんてどうも納得がいかない。どういう神経なのだろうか。まあ、ストーカーなわけだからまともであるはずがない。それに警察に通報したいなら、もうとっくに通報していていいはずだ。ストーカーは、ただの目撃情報だけにとどめた。なにかねらいがあるのかもしれない。

「どうしますか?」雪乃が訊く。

「単純に考えれば、本体を抱えて車に乗り豪徳寺に向かう。ストーカーが後をつけてくる。無事豪徳寺に着いて、ストーカーが外で監視する態勢を選んでくれたら、僕らは祈祷をすませて明日の朝元に戻る、と。誘拐事件もなし、雪乃さんも無事、すべてはまるく収まる。部屋を荒らしたストーカーは逮捕」

「そのサクセスストーリーを阻むのは、豪徳寺へ向かうときストーカーが警察に通報した場合。祈祷中に警察がきた場合。祈祷が成功しなかった場合・・・」

「御祈祷は、こんどは期待していいんじゃないかな? それにしても媚蓮和尚、別の見解があるとかなんとか言ってたね。いったい何のことだろう・・・」

 

 とにかく出かける準備をした。この部屋にも警察がくる可能性がある。雪乃のものもすべてバッグに詰めた。ここに帰ってくることがあるだろうか。僕は漠然と思った。祐未との思い出もあれば、祐未と知り合う以前の女の子との思い出もある。家財道具はそのままだ。お気に入りのクイーンのレコードアルバムも、『踊る大捜査線』のDVDも持っていくわけにはいかない。

「そうだ・・・おとりだ・・・」僕はつぶやいた。「これはいけるかもしれない・・・」

「なにか、いいアイデアを思いつきましたか?」雪乃は声を弾ませた。

 僕は媚蓮和尚に電話をかけた。作戦を説明する時間はなかったので、本体を運ぶから手伝ってほしいと頼んだ。

「天明に行かせましょう」媚蓮和尚は言った。

 ストーカーだって夕食はとるだろう。豪徳寺へ出かけるとき、ストーカーがお食事中なら問題ない。策を弄する必要はない。ただ、ストーカーも只者ではない気がした。計算高い頭のいいやつだ。きっとこの住宅街のどこかで、あんパンと缶コーヒーの食事で僕たちを見張っているに違いない。ストーカーの分際で刑事気分を味わっていることだろう。

 ストーカーに見られないように窓から住宅街を見下ろす。ストーカーが車でここに来たと仮定すると、その車がどこかにある。車から見張っているか、車から降りて見張っているか。車はあちこちに駐車してあり、当然特定できるわけではない。ただ駐車できるスペースは限られている。スーパーか、コンビニの駐車場だ。また、自家用車ではなくタクシーを利用したとも考えられる。いずれにしても、ストーカーの目がこのマンションの自分の部屋に向けられている。

 天明さんから電話が入った。近くまで来たという。僕は天明さんが霊柩車で来るかもしれないと不安になった。

「車ですか、はい、霊柩車です。それがなにか?」天明さんは明るい声で言った。

 作戦を成功させるためにはあまりにも目立つ車種だ。僕は天明さんに車を石神井公園駐車場に置くように言い、そこから徒歩でマンションに来てもらった。

「高野様、天明です」でかい声だった。

 僕はすぐに天明さんを部屋に入れた。そして玄関で作戦を説明した。雪乃は僕の作戦を聞いて絶賛した。どんな陳腐な作戦でも彼女はきっと賞賛するだろう。雪乃に益々愛されるという方向に物事が進む。困ったものだ・・・。

 天明さんに僕の服を着てもらう。もののけといっても人間とそう変わらない。僕は天明さんのシャツを着る。天明さんに丸めた毛布を持たせた。

「いいかい? その毛布、重そうに運んでね」と言ってジェスチャーで手本を見せた。「それでそのまま車を運転してほしいんだ。ただし、行き先は豪徳寺じゃないよ」

「どこに行けばいいですか?」

「車をつけてくるやつがいる。そいつをまいてくれればいいんだ」

「殺すんですか?」天明さんらしからぬことを言う。もののけからすれば殺人は大したことではないのかもしれないが・・・。

「いや、そこまでしなくていいよ」

「わかりました」

 天明さんは毛布を重そうにして部屋を出た。重そうにするのはマンションを出る時でよかったのだが、黙っておいた。僕は少し遅れて部屋を出た。時間は七時半。夕闇が降りてきた。ストーカーが天明さんを僕と勘違いしてくれるにはちょうどいい時間だ。天明さんが車に乗る様子は見えなかったが、ドアの閉まる音、エンジンのかかる音が聞こえた。そしてタイヤの回転音。僕は姿勢を低くして、マンションに駐車してある車に隠れ、トヨタ2000GTを追う車がないか探した。車の往来は多いから怪しい車を探すのは困難だった。ただ、ストーカーが天明さんを僕と勘違いし、トヨタ2000GTを追ってくれていることを願うのみだ。

「うまくいけばいいですね」雪乃が言った。

「よし、天明さんがうまくまいてくれることを願って、僕たちは豪徳寺へ出発だ」

 マンションを出たそのときだった。コンビニから飛び出してきた人物に僕は驚く。その人物はトヨタ2000GTが向かった方向を見ている。そしてあわただしく視線を動かすと手を挙げた。タクシーだ。乗り込む。

「どうかしましたか?」雪乃が聞く。

「ストーカーがいたよ。とんでもない人物だったよ。あの様子。まちがいない。コンビニから見張ってたのか・・・」

 コンビニには食事のできるカウンターがあった。そこから僕の部屋が見える。

「高野さん、誰ですか、ストーカー?」

「あててごらん」

「高野さんのいじわるっ」

 僕は石神井公園に向かった。霊柩車を運転するのは初めてだ。車体感覚がつかめない。それでもなんとか霊柩車をマンションに横付けし、本体を運び出した。気が進まなかったが、本体は御遺体を載せる後部に寝かせた。

 霊柩車は杉並方面に向った。天明さんには雪乃のケータイを渡しておいた。

「天明さん、今どこ?」電話して聞いてみる。

「よくわかりません。高野様に豪徳寺には行かないように言われましたので、北に向かっています」

「北? 和光市方面かな?」

「わたし、よくわかりません。地名は。わかるのは、方角と、和尚様、そして高野様の位置だけです」

「車の後ろに、タクシーが見える?」

「タクシーですか? 何台かいます」

「そのうちの一台に僕らの敵がいる」

「殺すんですね」

「違うよ、天明さん。まくんだ。まくっていう意味は、天明さんの後をついてこれないようにするんだよ」

「つまり、殺すんですね」

 もののけのことはよくわからない。それまでの天明さんのイメージが崩れていく。

「殺すっていうのは、人間界では簡単にしちゃいけないことなんだよ」

「人間界? 高野様はわたくしがもののけだと低くみていらっしゃるんですか?」

「そんなことないよ。僕は天明さんを有り難いと思ってる」

「よかった。うれしいです」

「街道から外れて、後をつけてくるタクシーを特定するんだ。言ってることわかる?」

「高野様、わたしもそれほど馬鹿ではありません」

 雪乃が笑ってる。

「天明さん、また電話するよ」

 電話を切る。すぐに媚蓮和尚に電話をかけた。僕は恐ろしいことを思いついた。それを実行するためには、和尚の了解が必要だった。

「天明は役に立ってますか?」和尚は言った。

 僕は雪乃の部屋に侵入した賊がストーカーだったこと、そのストーカーが僕たちを見張って、誘拐犯に仕立てようとしていること、さらにストーカーを特定したことを話した。

「天明さんにはおとりになってもらって、ストーカーを北へ向かわせてます」

「高野聖さんはこちらに向かってますね? それでようございます」

「それでひとつお願いが・・・」

「ようございます―」和尚は言った。

「車を僕に売ってください」

「ようございます。車は差し上げます―」

 和尚はどこまで人がいいのだろう。僕は媚蓮和尚が頼もしくて仕方なかった。

「ありがとう、和尚様!」」

「天明はもののけですから、人間にできないこともできます。どうぞいいように使ってください。ただし、高野聖さんは早くこちらへいらしてください」

「わかりました、ありがとう―」

 電話を切る。すぐに天明さんから電話が入った。

「住宅街に入って、一台だけつけてくるタクシーがいます」

「天明さん、御苦労さま。そのまま走ってください。天明さん、ひとつお願いが・・・」

「なんでしょうか?」

「車ごと、どこかに消えてほしいんだけど・・・」

「高野さん!」雪乃が叫ぶ。

「大丈夫だよ」僕は雪乃に笑って見せた。

「天明さん、聞こえたかな? 事故って車ごと燃えるとか、川とか海に落ちるとか・・・」

 トヨタ2000GTは埼玉方面に向かっているから海はない。

「車ごと消えればいいんですね」天明さんが念を押す。「近くに水のにおいがします」

「水のにおい・・・」

 僕は天明さんの位置をスマートフォンのマップで特定した。戸田市にため池がある。

「天明さん、もう少し行くと池がある。大きな橋があるから、そこから池に車ごと落ちてほしいんだけど・・・」

「高野さん!」雪乃が言う。「頭がおかしくなったんですか? あっ、ごめんなさい・・・」

「天明さんは、もののけなんだ。死ぬことはないんだよ。そうだ。きみにも許可をもらわないと。雪乃、僕たちは一回死のう・・・」

「どういうことですか?」

「思いついたんだ。もののけの天明さんがマンションに来た時。そしてストーカーがそのあとを追ったことがわかったとき。これは絶好のチャンスだって・・・」

「何を言っているのかわかりません」

「ストーカーは僕たちを追っている、と思っている。高野聖と、森下雪乃を。ところがその車が橋から池へ転落―ふたりは死んだ。誘拐事件も、なにもかも終わる」

「でも、そんなことしたら・・・」

「そうだ。そのニュースを聞いて悲しむ人がいる。でもそれも一時のこと。高野聖と森下雪乃は生きていて、いつか家族のもとへ現れる・・・」

 雪乃は考えていた。母親や、大平さんの気持ちを・・・。僕だって苦渋の決断だった。親がいる。兄弟がいる。肉親に訃報を届けることになる。ただ、いくらかの犠牲を払わなければならない気がした。ストーカーを欺くためには。

「わかりました、高野さん・・・」雪乃が言った。「その案に賛同します」

「ありがとう。きみがそう言ってくれることも、わかってたよ。僕たちは一心同体なんだしね」

「正しくは二心同体ですね、まだ・・・。一心同体というなら、ストーカーの名前、教えてください」

「わかった、言うよ。ストーカーは、うんチョコ野郎さ。うんチョコ野郎に今電話するから」

「うんチョコ? わかりました、兼田係長ですね!」

「ビンゴ!」

 僕は兼田係長に電話する前に、天明さんに電話した。

「いいかい、天明さん。ケータイのナビで、自分の位置を確認してくれ」

「それはもうしました・・・和光市に入ってます―」

「まっすぐ行くと池があるから、どこからでもいいから池の車ごと飛び込んでくれ。いいかな?」

「池も確認しました」

「頼む、天明さん」

 もののけを味方につけるとこんなことがいとも簡単にできる。媚蓮和尚が言うように、僕には並大抵ではない神気があるような気がした。そして躊躇することなく、兼田係長に電話ができた。

「高野くん!」兼田は高い声を出した。僕からの電話に驚いたことだろう。

「係長、埼玉までタクシーですか。それも経費で落とすんでしょうね」

「なんのことだね?」

「とぼけるんですか?」

「とぼけるもなにも、休みの日に電話してきて、何を言ってるんだね。わたしは家族と一緒だよ」

「わかりました。僕の勘違いでした。失礼します」

「待ちたまえ・・・」

「係長、腹を割って話しましょう」

「いいだろう」

「僕はもう疲れました」

「何を言ってる・・・。きみは、どこへ行くつもりだ」

「どこにも行きません。係長、警察に目撃情報を流しましたね。それから、手紙―」

「なんのことかね?」

「おかげで僕たち、追い込まれました」

「僕たち? 妙な言い方をするね」

「見たんですね、雪乃をマンションから運ぶところを・・・」

「・・・きっと、見ちゃいけなかったんだろうね?」

「警察には黙っててほしかったですね」

「警察なんか、わたしはどうでもいい。雪乃を誘拐するきみを偶然見て、わたしはきみと取引がしたかった」

「取引?」

「森下雪乃を手に入れる絶好のチャンスがきたと思ったのさ。きみがなぜ雪乃を誘拐したのか、それはわからない。沢井祐未と結婚が目前だったきみがね。二兎を追うものは・・・っていうけどね。ただ、わたしのものを横取りされては困る。取引しないかね?」

「どんな取引ですか?」

「雪乃を渡せば、きみが誘拐したことは警察に黙っておこう」

「渡さなければ?」

「すぐに警察に電話するよ。誘拐犯を追跡中ですとね」

「兼田係長に雪乃を引き渡したとして、雪乃をどうするつもりですか?」

「もちろん大事にするさ。都内のマンションで、妻には内緒でね」

「兼田係長が誘拐犯になりますよ」

「その心配はない。誘拐したのは、高野くん、きみか、もしくは他の誰かだよ。きみが雪乃を渡せば、おそらく他の誰か、になる。きみが潔白になるよう協力もするよ。雪乃を誘拐したこと後悔してるなら、そうしたまえ。沢井祐未で十分じゃないかね。なぜ雪乃まで手を出す?」

「兼田係長なら僕の気持ちはわかるはずです。係長だって、妻子の他に雪乃をほしがってる」

「人間の欲は底知れないね高野くん。同僚のよしみで、一日の猶予を与えてもいいがね」

「優しいですね、係長。でもいいんです。僕は決心しました。大変なことをやってしまった。罪は償いますよ」

「どういうことだね?」

「会社は当然ですが辞めます。みんなによろしく言ってください。できれば、祐未にも。係長の『うんチョコ』がヒットするように、あの世から祈ってます」

「高野くん、馬鹿を言っちゃ、いけない! 雪乃まで道連れにする気かね?」

「係長、これは心中なんです。警察にはそう言ってください、お願いしますよ」

 電話を切る。そしてすぐに天明さんに電話した。

「池が近いです。『彩湖』と表示があります」天明さんは落ち着いている。

「タクシーはついてくるかい? 黒タクシー」

「はい・・・白くはないですね」

「池にダイビングしてもらいたんだ。派手に頼むよ」

「高野様、わかりました。車で飛び込むなんて初めてです。雪乃様のケータイはどうしましょうか?」

「そのまま車ごと沈めていいよ」

「了解しました。それじゃ、また」

「天明さん、電話は切らないで、そのままで」

 僕は電話を切らずに耳に当てていた。

「天明さん、ほんとに大丈夫なんですか?」雪乃が心配そうに言う。

「天明さんは問題ないさ。ただ、貴重な車を犠牲にする、そっちの方が胸が痛むよ。トヨタ2000GT。もうお目にかかることはないだろうな」

 天明さんに持たせた雪乃のケータイから、車の排気音とタイヤのすれる音が聞こえる。やがて激しい音がした。言葉では表現できない擬音が聞こえてくる。僕は電話を切った。そして電源をオフにした。

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