残された時間 5
「なあ、三条。今日はまた随分と登校が遅かったな。どうしたんだよ」
「……気分が乗らなくて、歩くスピードが遅かった。それ以上でもそれ以下でもない」
素っ気なく返すと、霧矢はカバンからハードカバーの本を取り出す。文香に頼まれたパンフレットをしおりのようにして挟み、机の上に置いた。本のタイトルは『精神と健康』で、それほど怪しく思われるような代物ではないが、西村はそうは思わなかったらしい。
「おい、確かに木村は昼休みに受け取ると言っていたが、それを中里に見られたら、ちょっとまずいんじゃないのか?」
「堂々としてれば、逆に怪しまれないさ。コソコソするから、相手も警戒する。堂々とこの本を木村に渡してやるさ。渡す時に『先週に頼まれた本、やっと見つかった。やっぱ、部屋の整理はきちんとしておくべきだったな』とでも言えばいい」
素っ気なく言う霧矢に対して、西村は感心したような声を上げた。
「お前、詐欺師の才能があるんじゃないのか? 詐欺師までいかなくても、裏世界でも十分通用すると思うぜ」
「だ・ま・れ。僕はただ、元旦以来会っていないどこぞの探偵の助手サマなら、きっとこんな感じに言うだろうと思っただけだ」
憤慨して西村とは目を合わせずに霧矢は弁当の包みを解いていく。後はいつも通り、文香と時雨が弁当の包みを持って一組の教室に来るのを待つだけだ。
西村が文香に渡す本を興味深そうに眺めていると、教室の戸が開き文香と時雨が入ってきた。霧矢は弁当箱のふたを開ける。
二人が隣に座ると、霧矢は本を文香に渡した。
「ほら、この前頼まれてた本とパンフレット。部屋が散らかってたせいで、探すのには苦労した。僕も晴代のことは言えないな」
「……ああ、感謝する。本に関しては読み終わったら返す。別に急ぐ必要はないのだろう?」
霧矢の目を見て、文香は霧矢の意図を理解したようだ。怪しまれないようにそれとなく返答をして本を受け取った。時雨は興味深そうに本を見る。
「何の本なの?」
「精神医学の本だ。学校の図書館にあるのよりも詳しく書かれてる。木村が読みたいって言ってたから、探してたんだけど、僕の部屋が散らかってたせいで、なかなか見つからなかったんだよ。昨日やっと出てきた」
時雨は本のタイトルを眺めて少し表情を曇らせたようにも見えた。ただ、それは霧矢の思い込みが先行しているせいであるのかもしれない。
「そ、それよりも、弁当食おうぜ。俺はもう腹ペコだぜ」
箸をカチカチと鳴らしながら、西村は二人に弁当を開けるように促した。
*
「動きが鈍い!」
反射的に剣を前方に構えて防御しようとしたが、相手の動きの方が早い。目で追えないほどのスピードで懐に飛び込んだ相手は正拳を胸に打ち込む。
肋骨に激しい痛みが走り、霧矢は剣を取り落とした。そのままうめき声をあげて、殴られた箇所を押さえながらうずくまってしまう。
「今日のあんたは、どうも調子が出ないみたいだけど、それじゃすぐにやられるわよ」
雨野はうずくまっている霧矢の前で腕組みしながら呆れた声を出した。殴られた箇所をさすりながら、よろよろと立ち上がった霧矢は、剣を拾い上げる。
「…調子が出ないのは確かにその通りです。今日は何か変です……」
放課後の恒例となっているいつもの訓練を始めてから一時間ほどが経とうとしていたが、この一時間で霧矢が受けた攻撃の回数は普段の倍近くにも達している。いつもならば見切れる攻撃であっても、目が追いつかず、そのまま当たってしまう。
こちらの動きも非常に鈍くなっており、相手に容易に読まれてしまい、今日は雨野に一回も反撃を仕掛けることができなかった。
「スランプになるにはまだ早いと思うわよ。それに、まだ私は素手よ。スランプになるんだったら、私が武器を使い始めてからにしてほしいわね」
「でしょうね。それはわかります」
霧矢は再び剣を構える。雨野は無言のまま間合いを取って霧矢をにらんだ。
「迷いを抱えるのは人間の宿命。でも、戦いでは相応しくない」
頭では理解している。だが、それを実践することは難しい。雨野の言葉は的を射ている。しかし、それは理想論でしかないようにも思える。それを実践できるのならば苦労はない。
霧矢は奥歯を噛むと、剣を強く握りしめる。
「行くわよ。今度こそ防ぎなさい」
雨野が踏込の動作をする。霧矢もそれを見越して地面を蹴り、横方向へ高速で移動する。雨野も霧矢の動きに合わせて方向を変える。
体をねじり、雨野が近づいてくると同時に霧矢は剣を横薙ぎに振るう。雨野はこのままでは霧矢の斬撃を避けきれないと判断したのか、剣にぶつかる直前で前方に踏み込みをかける。その勢いでブレーキをかけるとともに、バックステップで飛び退いた。
再び二人の間に間合いができる。雨野は満足したように構えを解いた。
「まあいいわ。タイミングに問題はないし、隙もそれほど大きくない。今日はここまでにしておきましょ」
「はい。ありがとうございました」
霧矢が剣をカードに戻しポケットにしまうのを見届けると、雨野はいきなり踏込の動作をかける。霧矢がそれに反応する前に、雨野は霧矢の目の前に立っていた。
ピシッという音が聞こえ、雨野の攻撃にしては明らかに手加減したとわかるくらいに軽い痛みが額に走るのを感じた。
「不意打ちのデコピンなんかする必要あるんですか?」
「……三条、あんた、私に何か不満があるんじゃないの? そういう顔をしているわ」
「ないと言えば、嘘になってしまうのは確かかもしれません」
「……おとといの依頼のことかしら?」
霧矢は無言でうなずく。雨野は無理もないといった表情をしていたが、諭すような口調で霧矢に向かって語り始めた。
「…私たちが彼女の私生活に探りを入れる権利はない、と思っているんでしょう?」
「はい。僕だったら知られたくもない秘密を調査されるのはお断りです。彼女だってそう思うはずでしょう」
雨野はうなずいた。しかし、考えを改める様子はうかがえない。
「私は、調べた方がいいと思う。先生が生徒会長でも隠すほどのことで、しかも、それが解決の足がかりになりうるのなら、その情報を得るのは必要なことだと思うの」
「でも、中里は知られたくないはずです」
霧矢の反論に雨野は百も承知とばかりに重々しくうなずいた。だが、雨野は続ける。
「…知らなければよかったと思うことでも、知らなかったら何もできない。そういうこともあると思うの。彼女は嫌かもしれないけど、このまま放置すると面倒なことになりそうな気がするのよ。私は」
雨野の直感は決して信頼に値しないわけではない。それは霧矢も十分理解している。
「…理解しろだなんて言うつもりはないわ。でも、私、雨野光里はこうしたいと思っている」
「理解はしています。でも納得はできません」
「じゃあ、調査結果は聞かなくてもいいのね?」
「…調査費用の負担は僕もしてますよ。情報提供の義務は僕にもあるんですから」
小声で霧矢は口を尖らせながらつぶやく。確かに、自分では気に入らないが、結果を知らなくてもいいかと聞かれたら、知りたいというのが本音なのかもしれない。何だかんだで人間は現金なものだと思う。
「…まあ、そんな気に病む必要はないわよ。何かあっても責任は私が取るから。これは雨野光里が独断で始めたこと。三条霧矢はただその事実を知っているだけに過ぎない」
霧矢は無理やり自分の心を押さえつけて首を縦に振った。




