残された時間 6
今日は一人きりで研究がしたいと言ったため、化学教室には他に誰もいない。西村と時雨の二人は生徒会室で有島や神田と一緒に自習をしているだろう。
「……うつ病は甘えや弱さであるなどとは絶対に言ってはならない。本人もそれを気にしていることが多く、その言葉によって心にさらなる傷を負ってしまうことがありうる……」
霧矢から借りた本の内容を小声で読み上げながら、文香は机の上のメモ帳に要点を書き写していく。メモ帳として使用しているノートは、新しいノートを用意したにもかかわらず、すでに半分以上が埋め尽くされており、このノートだけで収まりきるかどうかは怪しい。それだけこの本にはメモすべき重要な点が多く書かれていた。
「現在、治療にはカウンセリングや投薬が主流となっている……」
ぼそりと本の内容を読み上げていると、化学教室の戸が開いた。本を閉じて顔を上げると、しばらく学校内での付き合いが疎遠になっていた友人の姿があった。
「晴代か。わざわざここに来るとは珍しいな」
「西村君や例の彼女がいないみたいだから来たのよ。なかなかそんな機会ないし」
「まあ、今は誰もいない。私もそれほど忙しいわけでもない。話があるなら話すがいい」
文香がそういうと、晴代は安心したように息を吐き、文香の隣の椅子に腰かけた。
「別に話があるって程のことじゃないけどさ。テストも近いから、帰って勉強しなきゃとは思うんだけど、どうも今はそんな気が起きないから、時間を潰したいって思った」
「まあ、最近お前はそれなりに努力しているようだからな。テストが終わるまでのスキー断ちは私も評価している。今くらいは休んでも問題なかろう」
「さっすが、文香。話がわかる!」
表情が明るくなり、晴代は文香の肩に手をかける。文香からしてみれば普段なら鬱陶しいとすぐに腕を払いのけるところだが、今日は我慢することにした。
文香がメモ帳をカバンにしまおうとすると、晴代の目が本に留まった。文香が口を開くよりも、晴代が質問する方が早かった。
「この『精神と健康』って、図書室の本じゃないし、町の本屋さんで売っているような一般向けの本でもないよね。どこから手に入れたの?」
「三条から借りたのだ。調べたいことがあったのでな」
「まあ、あの淳史おじさんなら、いくらでもこういう本持ってそうだよね。薬学の先生だし。でも、そこまでして文香が調べたいことって何?」
「ちょっとした精神疾患に関してだ。特に深い意味はない」
文香が本をしまおうとする前に、晴代が横からヒョイと本をかすめ取る。文香が返せと言う前に晴代は本を開いた。
しおり代わりに使っていたうつ病のパンフレットがまさにうつ病の項目のページに挟まれている。文香は晴代から本を取り返したが、晴代は何か察したような表情をしていた。
「うつ病について調べてたの?」
「……そうだ。知り合いがうつ病の可能性があり、どう付き合うべきか知りたかった。だが、それ以上のことは聞くな。プライバシーにかかわることだ」
文香は本をカバンにしまう。その後ろ姿を眺めて、晴代は指をパチンと鳴らした。
「その人って、もしかして、中里時雨?」
文香の背筋がピクリと動く。晴代はやっぱり、とつぶやいた。
「やっぱり、あの子、そういうもの抱え込んでいたのか……さすがは…」
文香は振り向き、晴代をにらみつける。そのまま、椅子から立ち上がると、教室の入り口から顔だけ出して、廊下の様子をうかがう。教室の近くに誰もいないことを確認すると、戸を閉め、低い声で晴代に迫った。
「どうして知っている。このことは限られた人間しか知らないはずだ。なぜ、彼女とろくな関わりを持っていないお前がそれを知っているのだ」
文香の低い声に晴代は焦る。こんな声を出す文香を見る機会はめったにないことだった。
「知っているというか、これはいろいろと事情があって……」
「別に怒らないから話せ。誰から聞いたのか、どうやって知ったのか」
*
「……先月、偶然会った魔族に、悩み事について適当に話したら、そんな分析をされたと。相違ないな?」
「そうそう。二重人格の可能性があるとか、とにかく、ああいうタイプの人は精神的に何か抱え込んでいることが多いって言ってた。あの人はほんとカウンセラーの才能があると思う」
「…その、火のハーフ、マリー・ハーシェルとやらは、信頼に足る相手なのだろうな?」
懐疑的な口調の文香に、晴代は自信に満ちた表情で答える。
「信頼できるよ。親切に相談に乗ってくれたし、あたしに適切なアドバイスもくれた。素敵な大人の女性だったよ!」
文香の険しい表情は変わらない。自分の悩み事をそう簡単に初見の相手にぺらぺらと話せる友人の思考回路に一抹の不安を覚えていた。
「…私は、どうもそのマリーに胡散臭さを感じるのだが。悩みを抱えている人間に軽々しく近づいて話をする…契約主の珍しさが手伝ったとしても、そういうことをする人は、大体のところ、下心を隠していることが多いような気がするが」
「文香も、何でそんな霧矢みたいなこと言うのかな……」
晴代は残念そうな声を上げる。軽度の人間不信のようなものを抱えている霧矢ならともかく、対人関係ではノーマルである文香が人をそこまで疑うことは珍しい。
「マリーさんは、あたしが自分と同じ悩みを抱えている人の目をしてて、放っておけなかったって言ったんだよ。いい人じゃない!」
文香は腕組みしながら、晴代の目を凝視した。
「晴代。お前は、どうも人に流されやすい。人を信じるのはよいことだが、相手が信頼に足るかどうかの判断力があるとは言い難い」
「結局のところ、文香はマリーさんを信用していないわけ?」
説教のような物言いをする文香に、晴代は口を尖らせる。文香はため息をついた。
どうも晴代は理由や論理を飛ばして、シンプルな結論だけを求めているように思える。確かに、結論だけならば単純明快で理解もしやすい。しかし、そんな短絡的な判断では簡単に足元をすくわれてしまう。
「時雨の分析については、彼女の説は一理ある。おそらく何割かはその通りかもしれない。だが、私が言いたいのはそれに関してではない」
「じゃあ、何について言いたいのよ」
「…彼女の素性や、行動に何の疑問も持たなかったのか? たとえ相手が珍しい契約主で、自分と似たような目をしているとしても、普通は初対面の相手の悩み事にそこまで踏み込むことはしないはずだ。先ほども言ったが、どうもそこに下心を感じるのだ」
昨年、リリアン・ポーンと名乗る契約主がたまたまマジックカードを持っていた霧矢にいきなり話しかけてきたことがあった。彼女も、魔族の力を求めていたという強い動機があったからこそ、彼に話しかけた。今回も、それに似たようなにおいがする。特に、人の心をつかむことに長けている相手は更なる注意が必要になる。
「晴代、何か気になることを言われなかったか? 何かに協力を求められたりとかだな」
「…そんな、単なる愚痴のこぼし合いだって。別に何か頼まれたりはしなかったよ」
「……ならいいのだが……」
相手が、リリアンのように契約主の力を欲しているとなれば、厄介なことに巻き込まれるリスクが生じかねない。今回のケースでは、話を聞く限り別に何かを要求されたことはなかったようだが、この警戒心の薄い親友を見る限り、文香の心配は拭えなかった。
「…このことは、三条には話したのか?」
「霧矢に話すと、うるさく説教されそうだから何も言わなかった」
一度言葉を切ると、晴代はぼそりと「結局のところ文香に話しても説教されたけど」と口を尖らせてつぶやいた。その不満そうな顔が何とも愚かしく見えるのは気のせいだろうか。
「お前は契約主なのだから、一般人とはまた違った危機管理意識が必要になるのだ。それを心得ているならば良いが、何も考えていないのなら今すぐ改めるべきであろう」
「はいはい。頭の隅にでも入れておきますよ」
もう説教は聞き飽きたと言わんばかりの面倒くさそうな口調で晴代は相槌を打った。文香もこれ以上言っても暖簾に腕押しだと考えた。
「ともあれ、時雨に関しての情報提供には感謝する。そう考えると、辻褄が合うように思えることも多くある。鵜呑みにはしないが、私なりに考察を加え、今後の参考にさせてもらう」
メモ帳を開き、晴代の言った時雨についてのことを書きとめようとするが、ペンが止まる。
(…メモ帳は誰かに読まれる可能性がある……)
特に、最近時雨は化学教室に来ることが多く、文香がかつて書いた実験の記録ノートや魔族に関しての考察を読んだりすることもある。万が一、時雨の精神状態に関しての仮説や考察を記したものが彼女の目に触れるようなことになってしまったら、よろしくない。
(忘れはしないと思うが……気持ち悪い)
普段の習慣であるメモをしないことは、不自然な感覚をもたらしていた。普段欠かさずに行っていることをあえてしないのは珍しいことだった。
「…帰るか。久々に一緒に」
「うん」




