友達、秘密、信頼 9
「…大方、片は付いたってところだな。やり残したところはないし、これで十分だろ」
「勉強に完璧なんてもんはないだろ。じゃあ、お前は全教科で百点取れるとでも言うのか?」
やり終えた問題集をこたつの上に積み上げて、霧矢は西村に苦言を呈した。
「…百点なんて誰が狙うかよ。自分の目標に達しそうならそれでいいんだよ。俺は今回、自分の目標点に届くと思うぞ。自信は結構あるぜ」
伸びをしながら、西村はあくびをした。そんな彼の様子を見ていると少し苛立ちを覚えるとともに、そんな些細なことに苛立っている自分にも苛立ってしまう。
西村を見ていると落ち着かないので、霧矢は話題を振る相手を変える。
「木村、お前は今回どれくらいを目指してるんだ?」
眼鏡越しに彼女の目を覗き込み、霧矢は尋ねる。文香は何回かまばたきして口を開いた。
「…学年五位以内。まあ、順位にはそれほどこだわらないが、毎回の目安にしている」
「そ、そうなのか……」
彼女の答えを聞いて霧矢は後悔する。聞く相手を間違えた。文香は参考にするにはレベルが高すぎる相手だった。霧矢は視線を落とした。地味な色のズボンが視界に入る。
「中里はどんな感じだ? 今日で大体弱点は潰せただろ」
霧矢の話題を引き継ぐように、西村は時雨に質問する。
「うん……平均点越え、狙えるかもしれない。これもみんなのおかげかな」
「礼は良い結果が出てからだ。まだその言葉を受けるには早い」
固い口調で文香は遮る。時雨はにこやかに笑った。
「それでも、嬉しいものは嬉しいの。お礼を言いたい。勉強を教えてくれたことだけじゃなくて、わざわざここまで来てくれたことにも」
「お、おう……」
西村が遠慮がちに返事をする。霧矢がうなだれていた頭を上げると、困ったような表情の西村が視界に入ってきた。
「帰る前に、お茶もう一杯入れるから、お湯沸かしてくるね」
時雨はごそごそとこたつから出る。襖を開け、台所へ歩き去った。
「何か、三条。お前いつもより少し無口になってないか? いつもあれだけ俺にツッコミを入れるくせに、勉強の最中も基本的に無言だったし、何か気になることでもあるのか?」
「……別に」
素っ気なく返した霧矢に西村は怪訝な表情になるが、すぐに元の調子に戻る。もぞもぞとこたつの中で足を動かしながら、こたつの上に突っ伏した。
「しっかし、何となく落ち着くな…こたつの威力恐るべしだ」
顔面をこたつの天板にくっつけたまま、西村は腕を伸ばす。しかし、その瞬間、飲みかけのお茶の入った湯飲みに手をぶつけてしまう。
「あれ……」
「おい! 気をつけろ!」
湯飲みが倒れ、こたつの上に、半分近く残っていたお茶が盛大にぶちまけられてしまう。霧矢と文香はこたつの上に積み上がっていた教科書をすかさず持ち上げる。
「ゲッ! やばい」
西村は慌ててこたつから這い出るが、その動きも激しすぎたため、彼の後にある箪笥に背中をぶつけてしまう。さらに、ぶつかった衝撃で箪笥の上にあった、元はお菓子の缶だと思われるブリキ箱が彼の頭上に落下した。
「痛ってえ!」
ゴンという頭とブリキ箱がぶつかる金属音が響き、西村は痛みでうずくまる。ブリキ箱もぶつかった衝撃でふたが外れ、中身が西村のまわりに撒き散らされた。
「おいおい……」
「時雨、お茶がこぼれた。雑巾を持ってきてもらえるか」
霧矢が呆れる中、文香だけは冷静に、台所にいる時雨に助けを求める。
「こぼしちゃったって、大丈夫? 服は汚れてない?」
慌てて雑巾を持った時雨が駆け込んでくる。西村はバツが悪そうに雑巾を受け取るとこぼれた液体を拭き始めた。こぼれたお茶は、入れてから時間がかなり経ったものだったため、幸いなことに誰も火傷をした者はいなかった。
「中里、これは箱に戻しとけばいいか?」
「お願い。私はちょっと拭くから」
時雨が西村と一緒に畳やこたつを拭いている間、霧矢はあたりに散らばっているブリキ箱の中身を拾い集めることにした。
中身を見る限り、どうも中里家の救急箱のようだ。絆創膏、包帯や消毒液、市販の風邪薬、胃腸薬などがしまわれていた。
しかし、ある薬だけは、まわりのものとは決定的に違っていた。
「……ッ! これは……」
「三条君? どうかしたの?」
「…何でもない。これは、箪笥の上に戻せばいいよな」
「うん、ありがとう」
霧矢はすべてを箱に戻し、ふたを閉めると、箪笥の上に箱を置いた。振り向くと、西村と時雨がやっとこぼしたお茶を拭き終えたところだった。
「…すまん。俺の不注意だった」
「大丈夫。西村君こそ服とか汚れてない?」
西村は首を横に振る。文香は哀れむように西村を眺めていた。霧矢も再びこたつに戻る。
「お湯も沸いたし、入れ直してくるね。座って待ってて」
雑巾を持って時雨は再び台所に歩き去った。西村は反省したように、こたつに入りながら、無言で、かつ、礼儀正しく座っていた。
しかし、普段と明らかに違う霧矢の様子に、西村は今度こそ本当に不審に思ったのか、いつもよりも強い調子で問いかけてくる。
「なあ、普段のお前なら、こんな失敗した俺のことをドジ野郎とか思い切りけなすよな。何で無言なんだ? 逆に不気味なんだけどよ」
「……別に。単に、そんな気が起きなかっただけだ」
西村から目を逸らすと、霧矢は奇跡的にお茶の洪水からの浸水被害を免れた教科書類を無言のままカバンにしまっていく。
「お茶を飲んだら、さっさと失礼しよう。外も暗くなってきたし」
誰と視線を合わせるわけでもなく、霧矢は自分の足を見ながらつぶやく。
このことは面と向かって時雨に対して問いただしてもよいことではない。ただ、この事実は彼女が想像以上に苦しんでいたということを示している。
(…まさか、そこまでだったとは……)




