第十話 ヴィオレッタとネヴィル
ところで。
女王ヴィオレッタが、この世で最も愛している男性は、三人の王配の誰でもない。内廷長のネヴィルである。
これは王宮の者なら、たいてい知っていた。
三人の王配も知っている。王女たちも知っている。古くから仕える女官などは、二人が若かった頃から知っている。
ただし、知っているのは互いに想い合っているということだけで、その先に隠された秘密があるわけではない。
二人は夜を共にしたことがなかった。
ヴィオレッタが女王である間は、そうしないと決めていたのである。
さて、その日の夜、ヴィオレッタは自室で三人の王女に関する報告書を読んでいた。
公務を終え、夕食も済ませたあとである。昼間に着ていた重い礼装は脱ぎ、今は濃い紫の室内着に着替えている。髪も結い上げず、肩の後ろでゆるくまとめていた。
卓の上には、王女本人、結婚相手、その実家、父親についての書類が、それぞれ分けて置かれている。
ネヴィルは空になった茶器を下げ、新しい茶を運んできた。
「まだお読みになりますか」
「今日の分だけは」
「今日の分が、先ほどより増えておりますが」
「王室卿が追加したのです」
「では、王室卿に明日の朝まで待っていただきましょう」
ネヴィルは一番上にあった書類を閉じた。
「貴方、近頃少し強引になりましたね」
「二十年以上お仕えしておりますので、陛下がどのあたりで読み疲れるか分かるようになりました」
「まだ読めますよ」
「同じ行を三度ご覧になっていました」
ヴィオレッタは閉じられた書類を見た。
「二度です」
「左様でございますか」
「……三度だったかもしれません」
ネヴィルは茶を注ぎ、女王の手元へ置いた。
今夜の茶には、乾燥させた林檎と香草が入っている。砂糖を加えなくても、わずかに甘い香りがした。
「エクリオのところへ、生家から林檎が届いたそうですよ」
「ええ。厨房にも分けてくれました」
「兄君から、セルリアのために動こうかと尋ねられたそうです」
「何もしなくてよい、と返事をしたとか」
「そのあとに、林檎がおいしかったと書き添えています」
「エクリオらしいですね」
ヴィオレッタは茶を一口飲んだ。
「ビステルは人を集め、ヴェルディは子供部屋を用意し、エクリオは林檎の礼状を書いている」
「三者三様でございます」
「同じ立場の男性を選んだつもりだったのですけれど」
「立場が同じでも、人は同じにはなりません」
三人とも、王配として選ばれた当時の家格に大きな差はなかった。
王家と強く結びつきすぎず、かといって王配として不足もない家の次男や三男。健康で、教育を受け、王宮で暮らすことを受け入れた男性たちである。
ヴィオレッタは三人との間に、一人ずつ王女をもうけた。
王家の血を次の代へつなぐためだった。
「私が一人しか生まれなかったから、皆、王女が三人いることへ安心しすぎたのでしょうね」
「先王陛下も、王室会議も、後継者が複数いることを望んでおられました」
「その結果、三人で王位を押しつけ合っています」
「仲がよろしい証拠では?」
「一人くらい、なりたいと言ってくれてもよいと思いませんか」
「陛下は、なりたかったのですか」
ヴィオレッタは茶器を卓へ戻した。
「いいえ」
「では、母君に似たのでしょう」
「三人とも?」
「そのようです」
ネヴィルは、ごく真面目に答えた。
ヴィオレッタには姉も妹もいなかった。
次の王を選ぶといっても、候補は一人だけである。幼い頃から女王になるものとして育てられ、ほかの生き方について尋ねられたこともない。
王配を三人迎えることも、子をもうけることも、王家と国のために必要だと教えられた。
拒めば別の道がある三人の娘とは、そこが違う。
「カドミアは、私よりはっきり嫌だと言えます」
「ビステル殿下にも、かなりはっきり仰ったようです」
「報告を読みました。質問が十七も並んでいました」
「第一王配殿下は、最後までお答えになったのでしょうか」
「十二番目で、今後は確認すると約束したそうです」
「残りの五つは?」
「エボニーが書面で答えるよう求めました」
ネヴィルは新しい茶を注ぎ足した。
「よい組み合わせですね」
「ええ。二人とも仕事はできます。できすぎるくらいに」
「周囲も、それを知っております」
「だから、ビステルが余計なことをするのです」
カドミアとエボニーだけなら、大きな問題はない。
しかし次の女王と王配になれば、その父親や生家も王家へ近づく。本人たちが望まなくとも、周囲が勝手に期待し、利益を得ようと集まってくる。
「コーラルのところは、別の意味で騒がしいですね」
ヴィオレッタは、第二王配に関する書類を開いた。
「東棟の部屋割りを作ったそうです。乳母の部屋、子供部屋、学習室」
「楽器の練習室も加えるつもりだったと聞きました」
「誰から?」
「家具係です。防音の相談を受けたそうで」
「そこまで進めていたのですか」
「コーラル殿下が止められました」
「止めて当然です」
ヴィオレッタは書類の余白へ一行書き加えた。
明日にでも、ヴェルディから部屋割りを取り上げる必要がある。
「グラファイト殿は、どう見ますか」
「コーラル殿下をよく見ておられます。殿下が走れば追い、怒れば謝り、疲れれば人の少ない場所へ連れていく。王宮の催しにも慣れておられます」
「帽子を持って逃げる必要は?」
「お二人には必要なのでしょう」
「そういうものですか」
「私には分かりかねます」
ネヴィルは人の帽子を持って逃げたことがない。
ヴィオレッタも、追いかけたことはなかった。
「セルリアとシモンは?」
「温室の修繕を始めました」
「知っています。費用の見積もりが来ました」
「長椅子の布地も選んでおられるとか」
「それは王室費から出しませんよ」
「婚礼後の住まいに置くものでございます」
「ならば、婚礼費用からですね」
女王と内廷長は、長椅子一つの費目について、しばらく真面目に話し合った。
王位継承者を選ぶ途中でも、王宮の暮らしは続く。家具は買わなければ届かず、屋根は直さなければ雨が漏る。
国を治める者にも、そういう話は必要である。
「セルリアは、王位について何か言っていましたか」
「姉君のお二人のどちらかだろう、と」
「やはり」
「シモン殿も同じように考えておられます」
「エクリオもですね」
「はい」
三人揃って、自分たちは関係がないと思っている。
「のんびりしたものですね」
「陛下は、あの方たちを見ているとよく笑われます」
「そうですか?」
「はい」
ネヴィルは茶器を片づけながら答えた。
「カドミア殿下の報告を読むときは、眉間へ皺が寄ります。コーラル殿下の話を聞くときは、頭を押さえておられます。セルリア殿下の話では、たいてい菓子か家具のことを尋ねられます」
「政治の話が出ないからでしょう」
「それも、一つの長所かと」
ヴィオレッタはネヴィルを見た。
「セルリアが女王に向いていると思いますか」
「今は、申し上げません」
「あら」
「陛下は三人を同じ条件で見るよう、宰相たちへ命じられました。私が先に一人を推せば、陛下も気になさるでしょう」
「聞いたのは私です」
「それでもです」
ネヴィルは穏やかだが、女王の望むことを何でも肯定する男ではない。
ヴィオレッタが疲れていれば仕事を止め、判断を急げば待つよう勧める。間違っていると思えば、人のいないところでそう伝えた。
だから彼女は、この男を最も信頼していた。
そして、最も愛していた。
「貴方は昔から、肝心なところで慎重ですね」
「慎重でなければ、ここにはおりません」
ネヴィルは、閉じた書類を明日の分へ重ねた。
「私が退位したあとも?」
「ご命令いただければ」
「女王でなくなった私が命令するのですか」
「では、お願いしてください」
ヴィオレッタは肘掛けへ腕を置き、少し考えた。
「退位したら、一緒に来てくれますか」
「どちらへ?」
「まだ決めていません。海の見えるところがよいですね。庭もほしいです」
「温室は?」
「セルリアたちが使うでしょう。私たちには、新しいものを作りましょう」
「長椅子の布地から選びますか」
「先に屋根です。雨漏りは困りますから」
「承知いたしました」
「これは命令ではありませんよ」
「はい」
「お願いです」
ネヴィルは卓の脇に立ち、ヴィオレッタが差し出した手を取った。
「お供します」
二人が若い頃、ヴィオレッタにはすでに女王となる道が決められていた。
王配には王家と釣り合う家柄が求められ、子供には継承権が生じる。女王が王配以外の男性を愛人として傍らへ置けば、ネヴィルは一生、名を隠して暮らすことになる。
ヴィオレッタはそれを望まなかった。
ネヴィルも、夜だけ呼ばれる男になるつもりはなかった。
そこで彼は内廷に仕え、ヴィオレッタは女王としての務めを果たした。
手を取ることはある。二人だけで茶を飲み、短い手紙を交わすこともある。
けれど夜になれば、ネヴィルは女王の寝室へ入る前に下がった。
二十年以上、ずっとそうしてきた。
「あと少しですね」
ヴィオレッタが言った。
「後継者を選び、仕事を教え、役目を渡すまでです。まだ数年はかかるでしょう」
「二十年に比べれば、少しです」
「待たせましたね」
「陛下もお待ちになったでしょう」
ネヴィルは彼女の手を離し、茶器を盆へ載せた。
「今夜は、もうお休みください」
「はい」
「返事だけは、ずいぶん素直でいらっしゃいますね」
「セルリアの母ですから」
ヴィオレッタは立ち上がり、寝室へ向かった。
ネヴィルはいつものように扉の前で一礼し、茶器を持って部屋を出ていく。
この夜も、二人は別々の部屋で眠った。
退位後には静かな家で、二人きりの暮らしを始めるつもりだった。
なお、その暮らしが本当に二人きりでいられた期間は、それほど長くない。




